「生き延びるためのラカン」(精神分析)
「生き延びるためのラカン」 斎藤環 著
ストーカー、リストカット、ひきこもり、PTSD、おたくと腐女子、フェティシズム…「現代の社会は、なんだかラカンの言ったことが、それこそベタな感じで現実になってきている気がする」。電車内の携帯電話の不快なわけは?精神病とはどういう事態か?こうした問いにラカンはどう答えてくれているのか。幻想と現実がどんどん接近しているこの世界で、できるだけリアルに生き延びるためのラカン解説書にして精神分析入門。(アマゾン内容紹介)
本になっているのだけど、ネットでも読める。サブタイトルは同じみたいだけど内容も同じなのかな?
【対象aをつかまえろ!】
対象a =「欲望の原因」
対象aとは、それ自体は空っぽなのに、あるいは空っぽであるがゆえに、そこに僕たちのいろんな幻想を投影することができるスクリーンみたいなもの。「恋人の心」もそんなスクリーン。(ラカン派哲学者・ジジェク)
対象aは、純粋な想像の産物でもないし、現実的な存在でもない。にもかかわらず、僕らの幻想において中心的な位置を占め、その完全なイメージを持つことはむずかしい。
いわば三界(想像、象徴、現実)が接しあうような境界に位置づけられていて、どこにもきちんと属さないかわりに、それぞれの特徴を少しずつ併せ持っている。
僕たちが自分を語るとき、どうしても語りきれずに残ってしまうもの。
現実を象徴化し尽くそうとこころみても、どうしても取りこぼしてしまう現実の尻尾。
マルクスの「剰余価値」概念をヒントにしたらしい。対象aはいろんな意味で「余り」の位置におかれている。
宮沢賢治の童話からの対象aの例え
「ホモイという子ウサギが川に落ちたヒバリの子供を助けて、鳥の王様から「貝の火」という宝石をもらう。
貝の火の所有者ということで、すべての動物からの尊敬を一身にうけたホモイは、だんだんと傲慢になっていく。その度に父さんウサギに叱られるんだけど、貝の火は全然色あせない。
ところがあるとき、ホモイは動物園を作ると称して鳥をガラス箱に閉じこめたキツネをたしなめようとして、逆に脅されて逃げ帰ってしまう。その晩はじめて貝の火は曇りはじめ、翌朝にはすっかり鉛の玉のような有様。ホモイは父さんウサギと一緒にキツネをやっつけて、捕らわれた鳥たちを解放するが、時すでに遅し。曇った貝の火は粉々にはじけてホモイを失明させる」
「ここでは「貝の火」が対象aだ。対象aにしては何ともあっさり与えられるわけだけど、この場合は、その火を絶やすことなく所有し続けることという試練とセットで与えられている。貝の火は、持っているだけで誰からも尊敬され、自分をいじめたキツネのような相手にだって、手下として何でも命じることができる。だから貝の火を持つことによって、ホモイはそれまで気づかなかった自分の欲望に気づいてしまう。そう、貝の火は欲望の原因として、ホモイに影響を及ぼすわけだ。だからホモイは、自分の欲望が暴走するのを止めることができなくなる。貝の火を持ち続けるためには、欲望をコントロールしなければならず、時には誰よりも禁欲的に振る舞わなければならない。しかし子供のホモイには、それがわからない。しょうしょう傲慢に振る舞っても色あせない貝の火を見て、自分は特別な存在だから、何をしても大丈夫、と思い込んでしまう」
「ただ、この物語には救いがないわけじゃない。失明して泣いているホモイを、父さんウサギが優しく慰めるラスト。「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいわいなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」子供の頃にこの物語を読んだときは、僕はこんなセリフ、ただの気休めじゃないかと思ったものだ。でも、大人になって読み直してみると、これはこれで実に含蓄のある結末だ。この父親の厳しさと優しさ、そして頼もしさ。ただ綺麗なだけの貝の火なんかよりもよほど価値のある存在が、実はずっと身近にいてくれたことに、ホモイはいつか気づくんだろうか。やっぱり「青い鳥」は、常にすでに、家に居るんだなあ」
「もちろん、欲望を否定する必要はない。というか、それを否定しきることは誰にもできない。だから大切なことは、欲望のしくみを理解した上で、ときには無欲を装って生きることだ。欲しい物を真っ正面からばかり見つめずに、横目で眺めてみるレッスンも大切。そして、象徴界への支払いも忘れずに。そうすれば、必ず報われる。なぜならラカンによれば、そういう「手紙」は必ず宛先に届くのだから」
【愛と自己イメージをもたらす鏡】
「人間は自分自身の眼で自分を直接に眺めることができない。かわりに、左右の反転した鏡像、つまりはウソの、他者の姿としてしか自分を眺めることができない。これを精神分析では「主体は自我を鏡像の中に疎外する」という言い方をする。鏡の力を借りる限り、人間はけっして「真の自分の姿」にたどりつくことはない、というほどの意味だ」
【愛と憎しみの想像界】
・ナルシシズムの語源、ナルキッソスとエコー
「エコー、つまり「声」と「言葉」をないがしろにしたナルキッソスが、「イメージ」に殺される、ということも含めて、なかなか含蓄のある話だね。でもさしあたり重要なのは、この神話においてすら、ナルキッソスは鏡像を他人だと思い込んでいたということかな。ナルシシズムは、その起源からすでに、自分自身ならぬ「自分に良く似た他人」への愛情だったわけだ。さらに言えば「似ている」ということには、どんな基準も制約もない。似ているかどうかなんてことは、純粋に主観的にしか決定できないことなんだね。というわけで極論すれば、視覚イメージに魅了されるということは、多かれ少なかれナルシシズムの作用ということになる。
ところで、この「鏡像」あるいは「似ていること」は、強烈な愛情をもたらすこともあれば、激しい攻撃性のもとになることもある」
・ラカンの扱った症例エメ
「「自分とはなにか」という問いかけは「自分は何を欲しているか」という問いかけとイコールだ。エメの理想は、エメに「自分とは何か」という問いの答えを与えてくれるイメージなんだ。そのイメージに魅入られているかぎり、エメは調和と統一性をそなえた自己イメージを持つことができた。これはすごく重要なことだ。人間は自分の立場や存在意義のために、時には命も投げ出してしまうからね」
これ、とても納得いった。
自分の人間関係のうえでの苦痛をもたらす関係性。
「エメの理想は、エメに「自分とは何か」という問いの答えを与えてくれるイメージ」あるいは「自分は何を欲しているか」という問いに、私は相手の望むイメージを提示してきた。そのイメージが望むものではなくなったとたんに、相手は怒りだす。いつも私を見ていない。私のもつイメージばかりを、欲しい欲しいとねだられる。そして、ぽきっと折れるんだんな。
「こうしてC嬢やZ夫人は、エメの鏡像になった。しかし、それは決して、安定した心の平安をもたらしはしない。むしろそれは、新たな戦いを準備することになる。どんな戦いか? それはまさに、所有とコントロールの権利をめぐる戦いだ。いったい誰が、エメ自身の主人なのか。エメ本人か、あるいは鏡像としてのZ夫人か。これは鏡像と正面から向かい合っている限り、けっして答えのでない問いかけなんだ。かくしてエメは、Z夫人に魅了されると同時に、あたかも自分からすべての良いものを奪い去ってしまった憎むべき敵として、夫人を激しく攻撃するようになったんだ」
「所有とコントロールの権利をめぐる戦い」、これは鏡像関係だけではなく、精神分析のもつ危うさでもある。これに陥らないように気をつけていても、結局、コントロールを投影される。この関係に陥るのを避けるためには、距離をおくしかないじゃないか。
「愛情ゆえに同一化し、同一化してしまったがために支配欲が生まれ、支配欲ゆえに激しい攻撃性がもたらされるという構造」
「いったん鏡像関係が生まれてしまうと、そこには強い愛と同時に、激しい攻撃性が生まれてくる。鏡像に自己イメージを理想を含めて投影し、同一化を試み、しかし同一化が進めば進むほど、自己の支配権、所有権を鏡像に奪われてしまうという不安や被害感も高まっていく。これがまさに「食うか食われるか」という、激しい闘争にまで発展していくわけだ。ラカンはこの関係を、ヘーゲルを引用して「主人と奴隷の弁証法」と呼んでいた。そしてこの関係は、鏡像関係、言い換えるなら二者関係から抜け出さない限り、けっして終わらない。第三者からの介入が必要となってくるのだ。そう、エディプス期において、母子関係に「父」が介入してきたようにね」
「エメ-Z夫人の鏡像関係は、まさに「罰を下すもの」としての「法」の介入によって破壊され、このときエメははじめて、愛と攻撃性の夢から醒めることができたんじゃないか」
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「眼差し」について
幼児は一連の同一化の過程を経ることで、一定の自分の像を引き受けることができるのだが、しかし幼児の鏡への同一化の内実を、単なる経済論的な次元へ、あるいは(視覚的なモデルが主たる役割を持っているとはいえ)単なる鏡像の領域へ帰すことは不可能である。なぜなら、幼児が自分を見るのはつねに、自分の目によってでは決してなく、彼を愛したり嫌ったりする人物の目によってなのであるから。ここにきてわれわれは、幼児の身体像を基礎づけているものとしてのナルシシズムの領域を、母の愛、彼に投げかけられる眼差しという点から取り扱うことになる。幼児がこの像を我がものとし、内在化することができるためには、彼は大文字の他者(この場合は、母)において一つの場所を持たねばならない。ペドロという名で呼ばれる権利(ないしは呼ばれることの禁止)をもたらす、この母による認知のしるしは、一なる印として働くようになり、そこから理想自我が構成される。この点では、「盲人でさえ自分が眼差しの対象である主体である」。
しかし鏡像段階が、人間がはじめて自分が人間であるという経験をする原初の出来事であるとすると、人間が自分を認知するのは他者の像(他なる鏡)においてであることになる。人間はまずはじめに、他者として自分を生き自分を体験する。
自我とは、反転した構造のうちにある鏡像である。主体は自分を自らの像と混同し、自分の似姿との関係の中で、写しによって同時に想像的にだましとられてしまう。したがって主体は、自ら差し出すことに決めた自分の像のうちに疎外されているのである。しかも主体はその疎外について無知であり、こうして自我の慢性的な誤認が形成される。主体の欲望についても同様のことが言える。つまり主体は、他者の欲望の対象の中にはじめて自らの欲望を見定めることができる。
鏡像段階とは構造論的な交差路であり、そこで交わっているのは以下のものである。
1.自我の形式偏重。幼児はある像へ同一化するが、この像は彼を形成する一方で、しかし原初的に彼を疎外し、他者に同一化する転嫁現象においては彼を「他者」としてしまう。
2.人間存在の攻撃性。自分が消滅されたくなければ、自らの場所を他者から勝ち取り、他者に自分の価値を認めさせねばならない。
3.欲望の対象の出現。その選択はつねに他者の欲望の対象に準拠している。」
(R・シェママ編 『精神分析事典』 弘文堂 より)
*****2021.2.19
本を買いました。
「自分のことを鏡に映ったイメージで理解したつもりになった瞬間から、人間は「イメージ=実在物」という錯覚から逃れられなくなってしまった。どんなイメージも、それ単独では、事実として受け止められてしまいかねない。だから、それを虚構化するためには、言葉が必要なんだ」
「言葉の支配から逃れたイメージは、それが事実とも虚構ともつかないために、危険きわまりないものになる」
意味が判らない=強い不安をかき立てられる。
統合失調と現実界、象徴界の機能不全の解説が、とても納得のいくもので。
・象徴にすぎない言葉が、彼らには現実的なものになる。
・「言葉」とそれが「意味するもの」とが同じ価値をもつ。→
言葉を額面通りに受け止めがち。
・「文脈」を理解することが苦手になってくる。
「そんな人でもある種の状況のもとにおかれると、精神病の症状が出現する」
→「父のシニフィアンを引き受けなければならないような状況」
=「責任のある大人として振る舞うことを要求される場面」
=「他者からアイデンティティを問われるような場合」
「そういう場面に立たされると、精神病者の主体はあっけなく壊れてしまう。そして排除されていた象徴的なものが、一挙に現実界にあらわれてくる」
これがいわゆる、「幻覚」。そのほとんどが「幻聴」。
目の当たりにすることになったのは、「妄想」。主体を脅かす、「不気味かつ恐るべき他者」としての投影だったな。
まさに、「慣れ親しんだイメージが一種の他者性を帯びてあらわれる「不気味なもの」」としての私は、イメージでしかない存在と思い知らされた。
関係対象での読み解きでしか考えられなかったから、引き金になったのが何なのか、どの言葉なのか判らなくて四苦八苦していた。そのとき話していたのは、「大人としての責任」そしておそらく「アイデンティティ」を問う問題でもあった、といえるかもしれない。
言葉のズレ、文脈理解ができていないことには気づくことができて、言語化できないニード(ここでは欲望か?)に焦点を当て変えた。しかし、言葉の認識のズレはここまで大きかったんだな。
「象徴界が排除された精神病者が、みんな発病するとは限らない」
この文章、よく判らない。発病しているから精神病者なんじゃないのか? 機能不全は頷けるけれど、「排除された」というのも、よくわからない。
象徴界=無意識。
自動思考が止まらなくなって、無意識にアクセスできる睡眠が上手くいかなくなって、切り離された状態となる症状は当てはまる。
かろうじて働いていたはずの主体性が壊れると、現れるのは抑圧していた攻撃性ってことだろうか。これに対象がなければ、幻聴として自分を攻撃していただろうか?
とはいえ、このときの状況はパラノイア的ではあっても、統合失調とはいえない。境界例になるのかな。
「人はなぜ、人を好きになったりするんだろうか」
コウの命題w。
ここで書かれている陽性転移は、過去の誰かへの思いを転移するのではなくて、乳幼児の母親の万能な環境(幻想)への感情そのものを転移する感じかな。母親を転移するわけではない。なので、その対象は全知全能を感じさせる能力値の高いN先生。万能感を投影できる相手か。その相手に同一化することで自身も万能感を取り戻すことができる、ような――。
ちょっと解る気がする。誰かを好きだと思っているとき、何でもできるような自信に溢れたりするもの。
しかし、その日に読み終えるほど面白かったにもかかわらず、やはりラカンには惹かれない。もっと知りたいとの好奇心はかき立てられない。まぁ、その辺は好みの問題なんだろうな。その理由を追及してみたいとの好奇心も湧かないし。理論は面白くても、それをどう臨床に役立てるのか想像できないところかな、って気はするのだけど。
2021年03月21日 16時22分
読み終わった。やっぱりラカンはよく判らない。というより惹かれない。面白かったけれど。
フロイトーラカンは男性原理的で、クラインの関係対象論は女性視点なんかな、と思ったりも。




