「創造する無意識 」(精神分析)
カール・グスタフ ユング 著
無意識の力は芸術的創造とどのように関わっているのだろうか?フロイトと並ぶ20世紀の知的巨人が平易に説く心のダイナミズムと不思議な働き。分析心理学入門としても好適な得がたい論文集。改訳の上、新稿1作と年譜を付す。(「BOOK」データベースより)
ユングの芸術論。とても頷ける。
【分析心理学と文芸作品の関係】
「芸術のうち作品創造のプロセスに関わる部分だけが心理学の対象になりうる、芸術本来の本質を成す部分は対象たりえない」
芸術とはそもそも何か―― 美学・芸術論の考察の対象。
そして宗教においても、心理学によって本質に触れられるとするのは越権。宗教についての心理学的考察は、情動的・象徴的現象に関して行われるだけ。
芸術作品の精神分析と文学的心理分析
作品の分析が作者の精神分析になってしまい、個人の生を「力ずくで人を決めつけ」その作品にとって本質的ではない領域にさまよい出てしまう。
芸術作品に行き着く以前の、一般の人間心理の領域にすぎない。
「作品は独立した一個の世界」で作者の背景や基盤、欠陥や短所の彼方にある。
フロイトの還元的方法――「いかにして患者の意識された表層を迂回しあるいは透視して、その心的背景、いわゆる無意識に到達するかという道と手段にもっぱら心を砕くもの」
「この技法は、神経症患者というものがなんらかの心的内容を、それが意識と両立しない(相容れない)ために意識から排除しているという前提の下に成り立っています。相容れないというのは、道徳上相容れないと考えられるという意味で、したがって抑圧された内容はそれに応じてネガティブな性格を帯びています」
「これらの無意識の背景は、活性化されずに留まっているわけではなく、意識内容にある種の影響を与えることによって露呈されてきます」
→背後になんらかの性的観念
→意識の流れを一種奇妙なやり方で防ぐ。
抑圧された無意識内容のせいだとみなす。
無意識内容の認識の手がかりは夢。
手がかりから得られた無意識の下層や背後にあると考えられる間接証拠を集めて、分析解釈を加えて、無意識の基本的な衝動現象を再構築する。
フロイトの意味する「象徴」は、無意識的背景の存在の暗示する意識内容。ユングにとっては、それは微表、あるいは症候。
ユングにとってのそれは、「まだそれを表すべき言葉や概念がないものをなんとかして表現しようとする試みにほかならない」
「真の芸術作品に特別な意味があるのは、個人という存在の狭さと袋小路を脱け出して、ただ個人的でしかないものの無常と息苦しさを尻目にかけて、天日遥か天翔けるところにある」
芸術作品は「人間とその個人的な素質を畑として利用するにすぎず、畑の持つ滋養分をおのれの法則に従って駆使し、自分自身をかくなりたいと欲するところのものに造り上げる」
【二つの作品成立の仕方】
・あれこれの効果を目指す作者の意図と決断の下に成り立つ作品
作者は、自分の持てる素材を方向の決まった意図のはっきりした仕方で料理します。
用いる素材は彼にとって、芸術上の意図に従わせるべき単なる素材にすぎない。
彼はまさにこれが述べたいのであって、それ以外ではない。
感傷の文学――内向的、客体からの要請に対する主体および主体意識的な意図や目的の主張を特徴とする。
一見自由な裁量によって欲するものを創るタイプの詩人が、かくも意識的でありながら、それでもなお創造的衝動に捕らえられるあまり、自分ではもうそこに働いている他者の意志を自覚できなくなっている。
・作者の筆に流れこんでこの世に生まれ出た作品
洪水となって襲いかかってくるもの。
「しかしいやいやながらにでも彼は、おのれの自己が、これらすべての作品において、自分の中から語り出ていることを認めるほかはありません」
「おのれのいちばん内奥の本性が現れ出て、自らわが舌に語れと命じた覚えのまるでないことどもを声高らかに告げ知らせているのに気づかされるのです。彼には、ただ黙って服従し、この一見他所からやって来た衝動に従うことしかできません」
「彼本人は、創造的形成のプロセスとは同一でありません」
「自分が作品の下方に、あるいはせめて傍らに立っている、いわば第二の人物として、ある見知らぬ意志の呪力圏に陥っている存在にすぎないことを自覚している」
私はこっち側だな。自分の作品が自分より偉大。それは作者としては嬉しいかも。「自分で命令を下すことのできない力を我が身に振るっているのを感じる」のは、私にとって一番の創作の楽しさ。
素朴の文学――外向的、客体の要請に対する主体の従属。
一見外からやって来るようにみえるインスピレーションの中に、実は自分の自己が聴き取れるだけの声で語りかけているにもかかわらず、そこには自分自身の意志を直接感じ取ることができない。
「無意識の探究は、意識が無意識によってただ影響を受けるに留まらず、導かれさえもする」
自分の言っているつもりのことの中に、自分の気づいている以上のことを語っている。
作品を書かせた見せかけの自由意思の背後に一段高次の「ねばならぬ」という必然が控えている。
「創作が作家の意志によらず中断を余儀なくさせると、もろに重い心の病気に罹ったりします」
「無意識からやって来る芸術創作の衝動というものが、いかに強く、また気まぐれで、しかも一方的な有無を言わさぬものであるか」
「創造的なるものは人間の中に、大地に木が生えるように生きて育つのであって、貪欲に養分を吸い取ります」
創造的形成のプロセスは、人間の心に植えつけられた一つの生き物。
=自立的コンプレクス
・創造のプロセスと一体化するタイプは、「ねばならぬ」を端から受け入れる。
作品は意識の了解の範囲を超えることなく、いわば意図の枠内に留まり、作者が盛りこもうとしたもの以外は何も言っていない。
・創造性が異質な暴力として立ち向かってくるタイプは、「ねばならぬ」に急襲される。
作者の了解範囲を大きく踏み超えて、作者の意識は作品の展開から遠ざけられる。出てくるイメージもフォルムも予想外のもの。
思想はただ漠然としか掴めず、言葉を意味を体内に孕んだまま。
「その表現が真の象徴の価値を持っていると言ってよいのは、未知のものをなんとかして表現しようとしているからであり、見えない彼岸に架け渡す橋となっているから」
「時代の意識を越えた象徴としての特性」
「象徴とはまさに、私たちの現下の理解力を越えた、より広くより高い意味の可能性であり示唆である」
自ら象徴的と称し一般にそう思われている作品は、「私は私を超え出て「語っている」つもり」のもの。「その象徴は、読者の追認と追体験の材料にすぎ」ない。
象徴的作品――感動以上の刺戟。私たちの中に深く穿入してくる。純粋に美的な享楽が得られることが少ない。
象徴的でない作品――純粋な美的享楽を得させてくれる。それが調和に満ちた完成を目の前に繰り広げてくれるから。
「自然の内奥へは創られた精神は入り込むことができない」
「芸術はおそらく自然と同じようにただ「ある」だけで「意味し」てはいないのかもしれません」
「「意味」とは本当に単なる解釈以上のものなのでしょうか?」
・心理学の芸術作品に対する関係
芸術作品の外から、「それ自体で自足している生とその現象を、イメージや意味や概念に分解しなければならず、そうすることによって生きた秘密から遠ざかることに甘んじるほかありません」
「生の体験そのものにとって、認識ほど害になり防げになるものはない」
「認識のためにはしかし、私たちは創造のプロセスの外に身を置いて外からそれを眺めなければならず、そうして初めて創造過程は観念やイメージとなって意味を語ってくれる」
それによって、
これまでは純粋の現象にすぎなかった→他の現象との関連において何かを意味するものになる→ある役割を演じる→なにがしかの目的に奉仕→意義のある働きを他に及ぼすものとなる。
→何ごとかを認識し解明することができたという感情を抱くことで、学問の必要性が認知されたことになる。
【心理学と文学】
・前書き
「心理学の分野でこそ、一面性と教条主義は重大な危険を孕んでいる」
「心理学者はつねに、自説がまず何よりも自分自身の主観に含まれるものの表出であり、したがってそのまま一般に妥当するかのように言い立ててはならないことを銘記しなければならない」
個々の研究者が解明に寄与できるのは一つの視点。この一つの視点を拘束力を持つ真理とするならば、客観に対して最悪の暴力を振るうことになる。
「この上なく色彩豊かで、多くの形象と意味に満ちているのが実際心という現象であって、その充溢をたった一つの鏡に映し取ることなどできたものではない」
心の独自性。
心の本質の多様な現れ方に接してこれを把握することだけ。