09 添い寝
夏樹の鼻血が収まるのを待って、広間に行った。部屋食の方がありがたかったが、あの個室露天風呂のある部屋に普通の料金で泊れるのだからぜいたくは言えない。
先客が二組あった。老夫婦と若いカップル。同じ旅館の浴衣に丹前を羽織って食事していた。部屋を案内してくれた若女将が来て席を設けてくれた。
「あいにく生魚が市場の関係で入らなくて。その代わり地元のアユと山菜と山芋をふんだんに使いました。美味しいですよ。どうぞごゆっくりお召し上がりください」
向かいにティッシュを鼻に詰めた夏樹が少し上を仰ぐ感じで憮然と座っている。
「もう止まったんじゃない?」
美玖は少し笑いながらその少年の茶碗を取り、おひつからご飯を盛ってやった。
「このぐらいでいい? 育ち盛りだから大丈夫だよね」
鼻血に驚いて彼を湯船から出すときにイヤでも目に入った。
きっと勃起してしまったのが恥ずかしくて出るに出られず、湯あたりするまで入っていたせいだろう。悪いことをしてしまった。女の裸に興味を持ち始める時期なのだから、美玖がもっと気を遣うべきだった。まだ子供だと軽く考えすぎていた。
「お腹空いたね。食べよ。じゃ、いただきます。わあ、美味しそう・・・」
アユの塩焼きは昼間に続いてだったが、女将のセールストークを待たずとも、山菜と山芋の天ぷらと煮つけ、マツタケと鳥の小鍋、それに山芋を磨ったとろろご飯は大いに食欲をそそった。
向かいで俯いている夏樹が鼻のティッシュを取り、箸を取ると猛然ととろろのご飯をかきこみ始めるのを見て、また微笑した。
食事の後、ピンポン台があったから誘おうかと思ったが思いとどまった。そんな気分じゃないだろうと。
部屋に戻ると次の間に布団が延べられていた。
美玖は窓の障子際のをさらに窓の方へ、反対の押し入れ側のをさらに押し入れにくっつけるように、離した。間にもう二人分の布団が敷けそうだった。
「まだ早いけど、もう寝た方がいいよ。疲れてると思う。夏樹はそっちね」
美玖は夏樹に障子際のをあてがい、バッグから歯ブラシを出して洗面所に行った。
と、そこでふと思った。せっかく来たのだし、個室の露天風呂など久しぶりだ。夜の山々を眺めながら、もう一度湯に浸かって一杯といくか・・・。
さすがに日本酒はヘビーだからビールにしよう。冷蔵庫から小瓶を取り、その上にあるグラスを取って露天風呂に向かった。
夏樹は布団の傍で膝を抱えていた。
今度は誘わなかった。可哀そうだが、放って置いた。これ以上美玖からアプローチするのはあまりにもあざとすぎるし、彼の誤解を生む。夏樹とはあくまでも、旅の途中で出会った束の間の道連れ。それだけにとどめておきたかった。後のことを考えると、やはり未成年はマズい。もちろん、美玖に夏樹をどうこうする気持ちは全くない。彼の気持ちにそのまま応えてしまうのがマズイ、ということだ。
他人にはとても立派な人間だとは誇れないが、美玖とていっぱしの大人だ。不貞行為は法に触れるが民事であり、官憲の手を煩わすことはない。けれども、未成年者と性的な交わりを持つことは刑事事件になることぐらいは知っている。そんなことになれば美玖もそうだが、夏樹にとっても決していい結果はもたらさないだろう。
だがもし、温もりを求める程度を彼が望むなら、応じてあげてもいい。乗り掛かった舟、袖振り合うも、何かの縁だ。彼の母代わりに抱きしめてやるぐらいはしてもいい。それぐらいは法律もゆるしてくれるだろう。
それにもう彼は家に電話をした。明日は帰ると伝えている。その彼を家に送り届けるぐらいは年長者として、むしろしてやらねば。
しかも今夜限り。再び一緒に風呂に入るぐらいは、彼が求めるなら、してもいい。それも法には触れないだろう。ここは温泉で。昔から混浴という習俗だってある。
もともと美玖はオープンな質で人との自然な付き合いが好きだった。いささかオープンすぎてダメにしてしまったが、夫も同じ趣向だと思ったから結婚し息子まで設けた。それが見込み違いだったのは、罪ではないだろう。また同じ失敗を繰り返さなければいいのだ。そこまで罪と責めるなら、この世は人間という生き物の生息に適したところではないと思う。
湯に浸かり、小瓶のビールをグラスに注ぎ、一気に飲んだ。
ぷっはー、美味い・・・。爽快な泡粒が喉を刺激しながら降りて行く。
目を閉じて、瞑想にふけりたくなるほど、美味い。
なんと贅沢なひと時だろうか。夏樹と出会わねば、こんな宿に泊まることもなかったろう。つくづく、人の縁とは不思議なものだ。
ふと、背後に影を感じた。
「いいですか」
美玖に断る理由はない。
「いいよ。入んな。湯あたりしないように、気を付けてね」
美玖は応えた。
かけ湯をして湯舟に入った。美玖との間には一人半分の間を置いて。夜の山を眺める方向だが必然的に美玖の姿態も目に入った。でも興奮しすぎて鼻血を出さないほどには慣れた。美玖はあまりにも自然で、タオルで隠しもしていない。その豊満な胸を堂々と曝している。勃起はしたが、昼間と違いそれを愉しむ余裕があった。
「ちょっと整理してみようか」
と、美玖は言った。
ロマンチックな成り行きを期待して勇気を出して風呂に入ったのに、美玖はカタい話題を振って来た。
「まず、事実だけど、亡くなったと言われていたナツキのお母さんは生きていた。あなたのお父さんはお母さんが『亡くなった』とウソをついていた。お母さんはお兄さんと、おじさんと一緒に暮らしてた。一年前に二人でどこかに引っ越した。
そのことを、あなたのお父さんはまだ知らない。依然としてお父さんとお母さんは法律上、夫婦のままでいる。
事実はそういうことだよね。
謎は、お母さんとおじさんの行方。それに、何故お父さんがナツキにウソをついていたのか。そもそも、なぜお母さんはあんたを置いていなくなったのか。なぜ連れて行かず、お父さんの許に残したのか・・・」
そんなふうに並べられると、イヤらしい思いも萎えた。
そうだ。母に会うためにここまで来たのだ。それらのことに最も関心を持たなけらばならないのは自分なのに。美玖の裸に勃起したことよりも、そっちの方が恥ずかしくなった。
「母が、」
と、夏樹は言った。
「いなくなる少し前でした。母と一緒にあの山荘に行ったのが、です。それまでの母は暗い顔ばかりしていた。父とケンカしたところは見たことが無かったけれど、具体的にどうとは言えないんですが、仲がいいとは思えませんでした」
「夫婦の不和。それはあったんだね。どうもそれが根っこにありそうだね」
手酌でグラスにビールを注ぎ、クイと傾けた。
「でも、お母さんがナツキを置いて行った、っていうのが、どうもね・・・」
美玖は湯を含んだタオルで首筋を、顔を撫でながら物思いに耽った。
「母親なら簡単に子供を置いて行くなんて、手放すなんてよほどのことだったと思うの。そこに何か深い事情があるんだよ、きっと・・・」
その言葉は夏樹を深く落ち込ませた。
言った美玖自身も、自分の言葉に傷ついた。母親なのに、大切な大樹を放っておいて情事に溺れ、子供を取り上げられても追いかけもしない。いや、追いかけたいのに、追いかけられなかった。それを強行することで新たに生じる揉め事、未来の苦難を思うとどうしても身が竦んでしまう。
目にお湯ではない潤いが溢れ出す。悟られまいとタオルで顔を拭う前に、まだ幼さが残るが、いっぱしの男の手が美玖の露を払った。
「そういえば、まだミクさんのこと、聞いてなかった。おじさんの家に着いたら教えてくれるって、言ってたよね」
話してよ。夏樹は言った。
それは問い詰めではなかった。彼に涙を見られていた。オレに話すことでミクさんが楽になるなら・・・。彼の顔には、そんな文字が書いてあった。
「背中、流してあげる。さっきは、鼻血ブーだったからね。上がって」
彼は素直に従った。相変わらず股間を隠して前かがみになっていた。さっき湯から引っ張り上げる時に見たが、年齢と体格の割に大きい気がする。それを堂々とひけらかさないのが、まだ少年の初々しさだろう。椅子に座らせ前を向かせた。
「歳のわりに背中おっきいねえ・・・。温泉のお湯のせいか、あんまり泡立たないの。でもちゃんと洗えてるからね」
彼の背中をゴシゴシと洗い上げてゆくと気分が軽くなった。
「言うのはいいの。けど、あたしの話を聞いたらナツキはきっと、あたしを軽蔑すると思う。きっとてか、絶対。イヤな女だと思う。せっかく知り合ったのに、軽蔑されてイヤな思い出持たれてバイバイなんて・・・。だから、ごめんなさい」
「イヤになんか、ならない。オレ、絶対ケイベツなんかしない。
ミクさんがいなかったら、オレ、あそこまで行けなかった。こんなに親切な人が悪い人のわけない」
嬉しいことを言ってくれるものだ。さらに涙腺が緩みそうになった。
「罪滅ぼし、ってあるでしょ。罪を犯した人が、いいことをして犯した罪を贖うの。贖罪ともいうよね。あたしがしたことは、きっと、それなのよ。親切とは、ちょっと違うかもしれないな。罪を贖って、自分が清められたいから。だからそうしてるの。だから、あんま、気にしないで」
背中を洗い上げ、ザッと湯を流した。
「あたしは、旦那さんと息子を裏切った。息子を、捨てた。そういう、汚い女なの」
吐き捨てるように、言った。
「ちゃんと温まって上がりなね」
タオルを絞って身体を拭き、先に湯殿を出た。
浴衣を着て冷蔵庫を物色した。ウィスキーの小瓶がある。水割りで二杯程度にはなるだろうか。小さなキャップを取り、それを一気に喉に流し込んだ。喉が焼けたがスーハーして耐えた。
部屋の灯りは点けていない。そのまま無理矢理布団に潜り込んだ。化粧水もクリームも全てパスした。明日の朝はブスになっているだろうが、構うことはない。襖を向いて、目を閉じた。露天に面した間の豆球だけが灯っている。
全く眠くない。あんなカミングアウトをしたせいで、まだ胸がドキドキしている。これでは寝られそうもない。そこを押して寝ようとした。眠りさえすれば、もう次の日だ。今日の恥辱も苦しみも、全て明日には薄れゆく。
美玖の人生哲学は万事、それだった。朝が来て、地球が半分回れば夜になり、眠ればまた地球が半分回ってくれて朝が来る。そうすればもう、次の日なのだ。そういうレゲエの曲があって、もうこれはあたしのテーマソングだと思い座右の銘ならぬ人生の応援歌になっていた。
人生はそれだけだ。
「ミクさん・・・」
いつの間にか枕もとに夏樹がいた。