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07 美しいひと


 美玖がヘルメットを貸してくれてその二十四時間のファミレスまで乗せてくれた。運よく警官には見つからずに済んだ。まだ朝も早かったからかもしれない。


「ちゃんとあたしの腰につかまって。遠慮しなくていいから。そのほうが安定するしあたしと一緒に身体を倒す感じでいてくれるほうが運転がラクなの」


 夏樹は少し遠慮がちにではあったけれど、言われたとおりに美玖の腰につかまった。奈美よりだいぶ細い、華奢な腰つきに女らしさを感じた。


「もっとしっかりつかまって。加速した時振り落とされちゃうよ」


 夏樹は腰に回した腕を絞った。


 エンジンの振動が身体を揺さぶる。加速や減速するときのシフトアップシフトダウンで翻弄されながら、美玖の身体の温もりと柔らかさ、そして女の香りを感じた。それは次第に夏樹の心の中に深く入り込んでいった。


 二人で朝食を摂った。


 とにかく腹が減っていたから朝のメニューから食いでのありそうなものばかり選んで食いまくった。美玖は夏樹の食欲に眼を回しつつトーストとサラダとポタージュスープのセットにコーヒーを頼んでいた。よくそんなんで持つなあ、と思った。


「さすが男の子ねえ・・・。それだけ食欲があれば大丈夫だね」


 彼女は微笑しながらテーブルに身を乗り出してもう一度おでこに手を当ててくれた。


「ねえ。教えてくれない? ナツキくん、中学生くらいでしょ?


 どうしてあんなところまで歩いて来たのか。これからどこに行くつもりなのか。訳を話してくれたら、あんたの目的地まで乗せてあげてもいいよ。バッグがあるから少し乗り心地が悪いけどね」


 あんなデカいバイクに乗っている割に、目の前の美玖はちっちゃかった。夏樹より小さい。デカい図体の奈美を見慣れているせいか、余計にそう感じるのかもしれない。それに奈美よりも美人であることは疑いない。


 少しソバージュがかった顎までの髪。ほとんどメイクしていない少し日焼けした肌。スッと通った鼻筋。そして切れ長の涼し気な目元・・・。奈美もそこそこの美人だが、美玖は次元が違うような気がした。比較にならない。この人と比べるのは、奈美が可哀そうだ。美玖という名前まで可憐な印象を与えた。奈美には感じたことがない、ハイレベルの何かを彼女は醸し出していた。


 この人なら信用できる。何故かそう感じた。


 夏樹は全てを話した。自分の素性。家出した事実と理由。これまでの経緯。今の所持金。その山荘まで乗せて行ってくれると嬉しい、とも。


 美玖は正面から夏樹の話を聞いてくれた。黙って聞いていてくれた。そして聞き終わると、こう言った。


「ヘルメット買ってくる。ここで待ってて」


 もう一度立ち上がって夏樹の頭に触れた。熱を測るためではなく、どうも頭のサイズをみているらしい。奈美には余り感じなかったが、彼女の手が頭に触れるだけでドキドキ、ゾクゾクした。はだけたブラウンの革ジャンパーから匂い出る大人の女性の香りに少し眩暈がした。


 それで、美玖を待っていた。どんなことがあってもあの山荘へ行く。その意思は揺るぎないが、美玖という女性と知り合ってしまうと、待つのが少し楽しかった。


 一方で、このまま置いていかれたらどうしよう。そんな不安にも駆られた。


 そうなったらそうなったでまた独りに戻ってバスでもタクシーでも使って行くだけなのだが。昨日今日会ったばかりの全くの他人なのに、こういうのを人心地着くというのだろうか。こんな感じは初めてだ。なんて甘い気持ちになるんだろうか。


 何杯目かのコーヒーのお替わりを頼んでいると、美玖が颯爽と帰って来た。


「お待たせ。なかなか開いてるお店が無くて・・・」


 彼女は、青いジェット型という、顔が露出して透明なシールドが全面を覆うタイプのものを手にしていた。


「被ってみて」


 新品の匂い。それは不思議なくらい夏樹の頭にフィットした。オープンだから圧迫感がない。


「うん。ピッタリかも」


「そう。よかった」


 美玖は席に着くと冷めたコーヒーを一口飲み、


「一つ、約束してくれる?」


 と言った。


 夏樹はヘルメットを脱いだ。


「そのおじさんの家に着いたら、必ずおうちに電話すること。キミの言う通りのひどい親御さんかもしれないけど、親権者に無断で君を連れまわすことはたぶん、法律に触れると思うから。これだけは、約束して。いいわね?」





 まず駅に行ってバス路線を確認した。この街を突っ切った北にあるのは間違いない。ただ北に向かう道路は三本あり、そのうちバスが通っている路線を確認するためだ。夏樹の記憶では母の車が何台かのバスを追い越した。そして両側の山が迫って来て谷の底をまっすぐ伸びるような道路。その条件に当てはまる道は一本しかない。


 美玖はロードマップのブックを開き、そのページを開いたままタンクの上のバッグにバンドで縛った。


「この道をゆっくり流してみるから、できるだけ当たりの景色を見てみて。うまく思い出せるといいんだけど」


「いろいろ、すみません」


 美玖はウフ、と笑った。上品な大人の女性の笑い方だ。


「今ごろ何言ってるの。もうとっくに乗り掛かった舟だよ。それに、あたしは自由気ままな一人旅だから。これも何かの縁でしょ」


 カッコイイ・・・。いちいち比べるとマジで奈美が可哀そうだが、奈美には感じなかった、大人の女性の魅力に溺れてしまいそうな気がした。


「ミクさんは、どうして一人旅なんかしてるんですか」


「・・・うん。そうね。無事そのおじさんの家に着いたら、教えてあげるわ」


 夏樹は跨った美玖のバックシートのサイドステップを爪先で引き倒して同じように跨った。


「いい? 行くよ」


「はい!」


 さっきよりもっとしっかりと美玖の腰を抱えた。


 タンデムのCB750を何台もの車が追い越してゆく。信号待ちで止まる度に、夏樹はあたりをキョロキョロ見回した。


「・・・どう?」


「この道のような気がするんですけど・・・」


「あの道の駅に寄ってみよう。通り過ぎちゃうといけないから。一息入れてじっくり思い出してみれば」


「・・・はい」


 こうまで親身になってくれている美玖には申し訳ないのだが、だんだん自信がなくなって来て気弱になっていたのも事実だった。そもそも小学校の一年生、六七歳ぐらいの記憶などあてになるのかという気さえしてくるのだった。


 駐車場にオートバイを駐め、秋の陽光の降り注ぐベンチに腰掛けた。


「ナツキくん。トイレはいい?」


「はい・・・」


「ちょっと待っててね」


 そう言って美玖は売店が鬻ぐ建物の中に入って行った。


 ヘルメットを脱ぎ、高原のそよ風の中に髪を委ねた。簡単に考えて家を出て来たが、やはり住所と電話番号ぐらいは調べて控えて来るべきだった。それができるほどなら、こんなことはしていないのだけれども・・・。





 ここへ来て、夏樹は袋小路に入ってしまったようだ。常識からいえば、無謀だと思う。幼い記憶を頼りに場所も定かではない、連絡もつかないところに行こうとする。美玖は構わないが、夏樹というこの少年の企てはたぶん失敗に終わるだろう。そして彼は、彼をネグレクトする家に帰ることになるのだろう。


 いささか気の毒な気もするが、それ以上は他人である美玖は関われないし、また関わるべきではないような気がする。誰しも、自分の運命からは逃れることはできない。それがイヤなら、運命と正面切って向き合い、戦うしかないのだ。


 しかし、未成年の場合はどうすればいいのか・・・。


 美玖の番が来た。


「アイスレモンハーブティー二つ下さい」


 ラージサイズの飲み物を両手に持ち、夏樹の待つベンチに戻った。中学二年生はベンチの背に頭を持たせてうたた寝をしていた。イタズラ心で、そのほっぺに冷たい紙コップをつけた。


「ひゃっ!・・・」


「アハハハ、ごめーん。ハイ、どうぞ。思い出が蘇る飲み物だよ」


「・・・ホントですかあ」


「前にね、旅行番組かなんかで見たことがあるの、ここ。その時やってたの思い出してね」


 夏樹はカップを受け取ってストローを一口含んだ。


「・・・美味い。スンゲースッキリします」


「でしょ?」


「・・・ミクさんは、ご利益ありました?」


 夏樹がイタズラそうな目で見上げて来る。彼の横に座った。美玖もまた、一口飲んだ。


「思い出したい記憶のある人には良薬よね。でも、みんながみんな過去を思い出したいわけじゃない。中には思い出したくない過去を抱えてる人もいる・・・。


 ア、ごめーん。まだ将来前途有望な中学生に聞かせる話じゃなかったっけ」


「構いません。・・・ていうか、聞きたいです。ミクさんのこと」


「やあだあーっ! 忘れてよォーっ。うっかり口滑らしちゃったのォ・・・」


「無駄ですよ、ミクさん。それ、あたしの話を聞いて! って言ってるようにしか聞こえません。あ、もしかすると、それ聞かせてくれればオレの記憶も戻ってくるかも・・・」


 まだ中学生のくせに。夏樹はドンドン、グイグイ、ズンズン、美玖の中に入って来ようとする。美玖を裸にしようとする。美玖は、このグイグイ押してくるのに、弱かった。


「つまんない話なのになあ・・・」


「でも、言うべきです。話さなきゃダメです。オレが認めません!」


 この子は攻められると弱いけど、いざ攻めにまわると最強のような気がした。酔ってるのかなとも思ったが、まだ中学生の男の子がお酒に酔うわけがなかった。


「名前がね、一緒だったの」


「は?」


「高校の時の初恋の男の子。ナツキっていう名前だった。字まで一緒」


「えー? ・・・うーそだあ・・・」


「何よ!・・・」


「ミクさん。それ、作ってるでしょ」


「せっかく勇気出してカミングアウトしたのに! 作ってなんかないって。・・・ホントだもの。・・・ごめんね、ちょっと一服して来ようかな」


 急にタバコが吸いたくなった。


 また売店に行って、結婚して以来久しく喫っていなかったタバコを買って喫煙所に行った。おじさんだらけの喫煙所で火を点け、煙を吸い込むと、頭がクラクラした。やっぱり止めておいた方がよさそうだ。


 自分だって信じられない。高校時代の初恋の、しかも自分が裏切ってしまった相手と同じ「夏樹」が前よりちっちゃくなって再び目の前に現れるなんて。出来過ぎだと思う。


 あれは、きっと、甘えたんだ。


 あれが本来の夏樹の「地」なのだ。それぐらい自分に心を許すようになったのだ。昨夜、たった一人であの峠の停留所にたどり着き、たった一晩と半日ではあるが、しかも他人ではあるけれど、なんとなく自分という存在に心を開こうとしているのだ。


 たまらなく、可愛いと思ってしまう。


 ベンチに戻ると、夏樹が萎れたようにして膝を抱えていた。


「・・・どうしたの?」


「ごめんなさい・・・」


「はあ?」


「嘘だなんて言って、ごめんなさい・・・」


 肩から力が抜けた。


 夏樹のそばに座り、肩を抱いてやった。成長過程の男の子の少しキツイ体臭が鼻をくすぐる。


 と、夏樹が抱きついて来た。


 周囲からの視線が、痛かった。これにはほとほと参った。中学二年生とはいえ、まだ子供なのだ。心細くて精神が不安定になっているのだろう。


 やれやれ・・・。


 思春期というのは、子供と大人がごちゃ混ぜになっている時期なのかもしれない。自分もかつて通過したはずなのに、ともするとそれを忘れてしまいそうになる。


 そう思うと、忘れていた温かいものが胸の中に湧いた。


「泣かないの。ねえ、ナツキ。あんなの、これっぽっちも気にしてやしないから・・・」


 いつの間にか、「くん」がとれていた。


 しばらくすると、彼は顔を上げた。


「ミクさん。もう一度、もうちょっと南から走り直してもらえませんか」





 何故泣いてしまったのだろう。


 猛烈に恥ずかしかった。つい調子に乗ってしまった。好意でつき合ってくれてるのに、その人の言葉を疑うなんて。


 出来過ぎだとは思うが、彼女の言ったことは本当なのだろう。彼女の高校時代の彼と同じ名前。ノスタルジーのようなもので、それで自分に好意を持ってくれて付き合ってくれているのだろう。それはありがたく縋らせてもらわねば。たった一人でもなんとかなると思っていたが、それはとんでもなく甘い見通しだったことがわかった。味方はいるに越したことはない。それに、美玖は得難い味方だ。甘え過ぎないように、甘えればいいのだ。


 再び美玖の背中にしがみつき、来た道を戻ってUターンしてもらった。


 ハーブティーのおかげなのか、泣いてスッキリしたせいか、さっきよりも記憶が鮮明になってきている。何かキーのようなものがあったはずだ。それが何だったのかまだハッキリしてこない。


 あの山荘は周囲に樹が鬱蒼と茂っていた。山の中だ。近くに何があったか。川だ。谷川。・・・渓流・・・。


 釣り!


 釣り人がたくさんいた。それに、釣り堀・・・。


 そう、釣り堀だ!


「ミクさん、釣り堀の案内が出てるはずなんだ。注意しててくれる?」


「ラジャー」


 ほどなく、道の端にポツポツと渓谷への案内表示が目立つようになった。ドライブインの案内にアユの塩焼き定食と表示が出るようにもなった。


「ちょうどいいから腹ごしらえしていこう。それに地元の情報は地元の人に訊くのが一番だしね」


 アユの塩焼き定食の名前をカンバンにしたドライブインに停まった。


 美玖のその決断は大正解だった。


 この道は途中で北東に折れ、日本海までつながっているが、そのまま折れずに真北に突っ切って山に登ってゆくと釣り堀が三つある。アユ。イワナ、ヤマメのスポットもある。それにイメージ通り、両側から山が迫って来る道だ。この辺りでは一番奥の、懐の深い川筋だとドライブインのオヤジさんが教えてくれた。


「今まで通ってきた道は街の中だから前とは景色も変わったかもしれない。でもここからはそう変わってないはずよ。ゆっくり登って行けば、何か思い出すかも」





 この子は軽度のネグレクトを受け、そこから逃げ出してきた。あくまでも夏樹の言葉を信じれば、だが。その子が実の母親を訪ねたい。そこに助けを求めたいと一人で困っていた。それを援けて何が悪い。美玖には動かしがたい大義名分があった。


 それに、実の子が母親を頼ってたった一人でやってくる。そのシチュエーションに、震えた。いつか大樹もこの夏樹のように自分を訪ねて来てくれるようになるだろうか。


 夏樹を援けることが、なぜか将来のその希望に繋がっているような気がして、心なしか右手のアクセルを入れる手に力が篭ってしまう。


「ミクさん、止めて!」


 背後から大声で呼びかけられ、美玖は我に返った。


 その釣り堀の駐車場にオートバイを止めた。


「ここだ。ここだよ。間違いない。おじさんはここの釣り堀のオーナーだったんだ。家はこの少し上の突き出た尾根の上にあるはず。ここだ。間違いないよ!」


 夏樹はヘルメットをかなぐり捨てて、その釣り堀の受付へ駆け寄って行った。


 美玖も後を追った。追いながら、大した子だ、と舌を巻いた。何年も前の、まだ小さかった頃のおぼろげな記憶だけを頼りに、とうとうそこを探し当ててしまったのだから。


 これからきっと感動の対面に立ち会える。昨日今日知り合ったばかりの少年のおかげで、美玖まで生きる希望を貰えたような気がした。





 だが、それはぬか喜びに終わってしまった。




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