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06 お会いできて光栄です


「起きたね。でも、少し熱がある。こんな軽装備で山に来るからだよ。言いたくなければ言わなくてもいい。だけどどんな理由にせよ、無謀すぎるよ・・・」


 ツーリングをしていると、いやでも山に詳しくなる。まだ十月の初旬だが、あとひと月もすれば雪が降ってもおかしくない土地だ。年長者として経験の少ない者へ過信と配慮の無さを注意するのが義務というものだ。


「スープ作ってあげる。それ飲んで落ち着いたらいまにバスが来るから。それで山を降りなさい。そんな装備でトレックなんてとんでもないよ。出来れば病院に行った方がいい」


 美玖はペットボトルの水の残りをソースパンに注ぎ、コンロの火を点けた。次いでヤカンにも注ぐと、ペットボトルは空になった。


「あたしはミク。名前、何ていうの? 」


 少年は答えなかった。やっぱり、家出だな。それにしてもこんなところへよくもまあ・・・。


 湯はすぐに沸いた。ソースパンにインスタントのミネストローネの粉末を入れ、スプーンでかき混ぜれば出来上がりだ。予備のカップに注いで少年に差し出した。


「どうぞ。・・・そうだ、お腹空いてない? サンドウィッチあるけど、食べる?」


 バッグから昨夜食べ残したコンビニサンドを取り出して、それも少年に差し出した。


 少年のハラがぐううっ、と鳴った。


「・・・ナツキ」


 そう言いながら、夏樹は美玖の手からサンドウィッチを受け取った。


「え?」


「オレの名前」


 バスの時間に間に合うかどうかばかり焦りすぎて、食い物のことを考えていなかったのは、迂闊だった。


 夏樹はすぐに包装を破き、サンドウィッチにかぶりついた。むしゃむしゃそれを口に詰め込んでスープと一緒に咀嚼しながらも、そのミクという女の人から視線を外さなかった。


 彼女がじっと見つめて来るから食い辛かったが、背に腹は代えられない。とにかく、ハラが減っていた。


「ナツキ君かあ。いい名前だね。・・・どういう字を書くの」


「夏の樹木」


「・・・へえ。・・・やっぱりいい名前だ」


 夏樹は考えていた。


 ここがチェックポイントだ。間違いない。記憶にある、あのバス停と同じだ。自分の推測は間違っていなかった。あのおぼろげな記憶を頼りにここまでこれたのはラッキーだった。オレはツイてる、と。キャッホー! オレって、天才?


 もしこの女の人がいなければ飛び上がって小躍りしていた。


 陽が昇って明るくなると待合所の外にシートを被ったオートバイが見えた。このまま歩いて峠を超えてバスを待つより、この人に駅まで乗せてもらえれば時間が短縮できる。駅まででいい。この人なら乗せてくれるだろう。でも、できるならそこからはむしろ一人で行きたい。誰にも邪魔されたくない。


「そこちょっと行ったとこに湧水があるよ。ペットボトル補充するのにいいと思う。メッチャ美味しい水だよ」


「・・・え?」





 夏樹が言った通り、それは甘くて冷たくて水道の水とは比べ物にならない。同じ水なのかと思うほど美味しい水だった。空のペットボトルに補充して、キャップを締めた。ついでにその水で顔を洗った。生き返るような爽快な気分になった。


 この湧水を、彼は知っていた。ということは、あの子は前にここへ来たことがあるということだ。やみくも、あてずっぽうでこんな山奥に来たのではなく、なにか目的があって来たのだということだ。ハンドタオルで顔を拭きながら、美玖は思った。


 もうすぐ駅からの始発のバスが来る。それで帰れと言ったら、イヤだという。峠を超えて北の街の駅まで乗せてくれと。


 夏樹はすでに身支度を終え、道路の端のはるか下の沢を見下ろして佇んでいる。まるで早く乗せていけとでも言わんばかりに。


 オートバイにかけていたシートを畳み、荷物を纏めながら美玖は考えていた。


 ここで別れてしまえば、あとは関係ない。仮に家出少年だとしても、仮にあとから警察に事情を訊かれることになっても、気づきませんでしたの一言で済む。


 彼の要求通りに駅まで乗せて行くとなると聊かだが事情は変わって来る。だけどそれでも何とかなることはなる。軽率でした、気づきませんでした。それでなんとか通るだろう。


 だが本当にそれで治まるだろうか。相手はまだ子供だ。不用意にかかわると後々面倒になるのではないか・・・。


 ハンドタオルで濡れたボトルを拭き、オートバイに載せた振り分けのサドルバッグに詰め込んだ。それからもう一度、その夏樹という少年に話しかけた。


「考えたらさ、乗せてくのは無理だよ。だって、ヘルメットが無いもんね」


「オバさんの貸してくれればいいじゃん」


「オバ・・・」


 なんて強引で、失礼な子だろう・・・。


 まあ、この子の歳から見れば、二十八にもなった女は十分にオバさんだ。ムキになることもない。それに、もうすぐバスが着く。それで彼ともお別れだ。ここは心をオニにして突き放すの一択。それがいい。


 麓から登って来るエンジンの音が聞こえてきた。美玖もまたCB750に跨り、セルを回す。キュキュキュブウォーン! ヘルメットを被り、キャメルのグラブを嵌めながら夏樹を顧みる。目を丸くしている。オートバイがあるからそれに乗って来たとは頭ではわかっていたと思う。だけど、目の前で跨って見せてエンジンがかかると目を見開いていた。やっぱり、乗るんだ・・・。そんな風に現実を実感して驚いているのだ。ツーリングのたびにこんな目で見られるのを何度も経験してきた。女だてらにこんな馬鹿デカいバイクを・・・と。それがちょっと快感でもあった。


「じゃね。真っすぐ家に帰るのよ。会えてよかったよ、ナツキくん・・・」


 バイザーを下げ、片手をあげてクラッチを繋ぎ、峠に向かった。


 峠までのワインディングを登りきると目の前に壮大なパノラマが広がった。


 そこは四方を山々に取り囲まれた広大過ぎるほどの盆地だ。遥か彼方に見えるかすかに白い頂の山々までは五六十キロはあるだろう。東から登った太陽が南の、今美玖がいる山を照らし始めた。そのせいか、この峠まで登って来る道よりも森がキラキラしい印象を与えた。


 せっかく来たし、急ぐ旅でもない。下りに入ってすぐの展望台にオートバイをとめ、しばしその絶景を楽しんだ。


 夏樹くん、か・・・。


 サドルバッグから湧水を満たしたペットボトルを取り出して一口飲んだ。それはまだ十分に冷たく、美玖の喉を甘く潤して胃の中に降りて行った。


 こんなところであの名前に出会うなんて。しかも字まで一緒なんて・・・。


 美玖は絶景に眼を細めながら、昔の苦い記憶をリフレインした。





 夏樹は校舎裏の雑木林の中に単車を隠していた。


 登下校にオートバイを使うのは禁止されていた。免許を取るのも禁止。もし取れば卒業まで学校に預ける。それが校則だった。でも、みんな無視していた。


 彼のVTR250の後ろに乗っていろんなところへ行った。そのうちに自分も免許が欲しくなり、夏休みを使って取った。そのために水泳部も辞めた。すぐに親に強請ってヤマハのトレール車を中古で買った。


「最初からオンロードに乗るよりも、トレール車で身体を慣らしてからの方がいいかもしれないよ。身体で操縦する感覚を掴むのにはトレールの方がいい」


 そのバイク屋のオヤジは、売れそうもない中古のバイクを売りつけるためにそうしたストーリーを考えたのかもしれない。何も知らない初心者の、まだ高校生の女の子を騙して売りつけるために。でもその中古のバイクは、美玖に合っていたと思う。ハンドルは回すのではなく曲がりたい方に身体を倒してゆく。免許を取る時にそう教わったのだが、軽い車体だけに身体の一部分でもあるかのように、そのバイクは不思議なくらい美玖の身体に馴染んだ。


 美玖は、夏樹とオートバイにのめり込んだ。


 夏樹との初体験も、二台並んで行った海岸沿いの漁師小屋のようなところだった。磯臭い網が畳んである上に新聞紙を敷いて、した。夏樹も初めてで、痛かったが感激で涙が出た。


「大好きだよ、ミク」


「あたしも、好き。大好きィ・・・」


 しばらくは幸せだった。


 美玖の成績が急降下し始めると親にバイクのキーを取り上げられた。部活を辞めてしまったのも咎められ、成績を回復し、部活に復帰したらキーを返す約束をさせられた。


 仕方なく復籍した水泳部は居心地が悪かった。でも夏樹とオートバイのためだと割り切って耐えた。


 きっとオートバイは、美玖が自分でいられるための必須のアイテムになっていたのかもしれない。キーを取り上げられ、水泳部に復籍したが同級生たちが大会の準備を始めても長期間トレーニングをしていなかったから実力差がありすぎ試合にも出られなかった。わかってはいたけれど疎外感に襲われた。きっと、それにつけ込まれたのだと思う。


 三年生の先輩にワルがいた。幾人もの女の子を食い散らかしているヤツだと女子の先輩や同級生たちの間で噂になっていた。


「アイツにだけは関わるな」


 そう忠告されていた先輩だった。


「ミク。この後ヒマなら付き合えよ」


 部活に復帰して夏樹ともあまり会わなくなり、オートバイを取り上げられてムシャクシャしていたこともあって、自分でもバカだとは思ったが簡単に誘いに乗ってしまった。


 街中の喫茶店と、その後のビリヤード場に行ったことだけは覚えていて、気がついたらそのワルの先輩の借りていたアパートの部屋で組み伏せられていた。


「お前、いい身体してるよな。締まりもいい。気持ちいいだろ、んん? 週一ぐらいなら、使ってやっから・・・」


 締まり? 週一? 使ってやる?


 その言葉の群れに物凄い違和感を感じたが、それはすぐに薄れた。


 週一どころか、いつの間にか、自分から進んで彼の、そのワルの先輩のアパートに抱かれに行くようになってしまっていた。夏樹とでは得られなかった快感をくれるその先輩の身体から離れられなくなっていた。


 ある日、ワルの先輩のアパートを辞しドアを開けたら夏樹がいた。今でも夢に出てくるほど、夏樹は悲しそうな顔をしていた。


 当然夏樹とは別れた。それから卒業までの日々はただひたすらに灰色だった。


 大樹を失った日のラブホテルの一件、またかよ! そう叫びたくなったことを覚えている。十年も前の悲劇の再現。二十八にもなって何の成長もないのか、と。


 大樹の名前を付ける時、「樹」という字にこだわったのは、その記憶のせいだ。元夫には絶対に言えなかったが、自分への戒めにしようとしたのだ。それほどまでに、新しい自分に生まれ変わろうとしたのに・・・。


 思えば、愛する息子にそんな罪業の片棒を担がせた罰が当たったのかもしれない。





 追憶の感傷に浸った後は、ただ、忘却の旅路があるのみだ。


 そう思っていたのに・・・。


 急に、気になった。


 彼は、あの夏樹はちゃんとバスに乗っただろうか。あの顔は絶対納得したようには見えなかった。それにちょっと熱があった。それなのに、その子を放りだして、捨てて来てしまった。


 夏樹が「夏樹」になり、大樹にも重なってしまうと、もうダメだった。


 すぐにヘルメットを被り、来た道を戻るために道路に躍り出た。


 それが正しかったのかどうかはわからない。


 十分も走らないうちに、坂の端っこをトボトボ降りて来る人影に会った。


「・・・Nice to meet you 、ミク・・・」


 夏樹は、ちょっと疲れた顔に不敵な笑みを浮かべて美玖を見上げていた。




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