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05 a boy meet a woman


 たしか新幹線を使う必要はなかったはずだ。


 しかし、夏樹がそこへ行ったのはもう何年も前で、彼自身幼かったし、しかも母の運転する車でのことだった。


 その峠を越える道だけはよく覚えているが、他の記憶はだいぶボヤけていた。





「湧水がある!」


 あの日、母が小さく叫んだ。


 近くにバスの回転場と板塀の小さなバス停があった。車をそこに駐め、空いたペットボトルを持って母について行った。所々にシダやコケの生えたゴツゴツした岩肌から塩ビの管が突き出ていて、そこから勢いよく湧水が噴き出していた。


『御自由にどうぞ』


 そばにベニヤ板の小さな立て看板があり、マジックでそう書いてあった。


 母は両手を差し出してその水を受け、美味しそうに飲んだ。


 いつも諍いばかりの家の中では見せなかった、きらきらしく若々しい笑顔で、母は言った。


「美味しいよ。ナツも飲んでご覧」


 小さな両手で受けたその水は冷たくて甘くて、生き返るような味がした。しばらく水に曝していると手が悴むほどの冷たさだった。ペットボトル一杯に水を詰め、せっかくだからと、母と二人で少しだけバス停の周りを散策したのを覚えている。しばらくすると麓からバスが上がって来て慌てて車に戻り峠を越えた。





 母の顔は年と共に次第に輪郭が崩れ、パステルからモザイク画になってしまっていたが、あの湧水の味だけは、忘れられない。


 たしか朝に出て昼過ぎにはその山奥の村のさらに奥の山荘に着いたと思う。車で高速を走らずに四五時間。大きな広い道から山に向かって細い道になっているのを走ったようなおぼろげな記憶がある。山の道を走る方が長かったはずだ。平均時速四十キロとして広い道は一時間から一時間半。半径60キロ圏内に駅から山に向かってゆくバス路線がある駅を調べた。父のパソコンを使った。父はITに詳しくなく、セットアップもしてやったからパスワードも覚えていた。


 該当するのは三駅あった。きっとそのうちのどれかだ。広い道から一時間弱で峠の手前のバス回転場に着く路線を探したが、三つとも大きな河筋に添った路線で終点までの距離も似たり寄ったり。


 Googleで調べるとそれぞれが違う市の観光協会のホームページにヒットした。一つずつ、あの山の峠のバス停付近の写真が無いか調べたが都合よくそんなものがあるはずもない。それでバスの終点からすぐ県境を超えて北へ抜けるルートを探した。駅が三つから二つに絞られた。こういうとき、実際に誰かが行った写真が見られるサイトがあればいいのにと思った。そのころはまだGoogleが夏樹の願いを叶えてくれるサービスを開始していなかったのだ。


 夏樹は候補を二つの駅に絞り、どちらも行ってみることにした。


 時刻表を調べると、最初の目標が正しければ、終点で降りて歩いて峠を超え、しばらく行った先で北の街のバスに乗れる。その日のうちに街のどこかの宿に泊まることはできるかもしれない。だが最初のがダメでそこから引き返して二番目の駅のをチャレンジすれば最終バスには乗れるかもしれないが下手すると終点のどこかで野宿か夜通し歩いて北の街のバスの終点まで行くかだ。


 寝袋なんてものはないし、それを調達してからでは遅い。温かいセーターとズボン下を余分に持ってゆくことにして出発したのだった。


 とにかく、その北の街に行きさえすればわかる。その街のさらに北の村だか町に、母の兄、おじさんの山荘がある。母はそこにいるのだ。自分のおぼろげな記憶とカンに、賭けた。


 こうして夏樹は最初の駅に降り立ち、バスのターミナルを探した。





 夏樹は夜更けの暗い山道を登った。たった一人で。とても心細くて、切なかった。


 用意していた小型のフラッシュライトが電池切れ。あとは星の灯りと微かに浮かびあがるアスファルトの道路の路側帯のラインを頼りにここまで来た。


 土曜日だということをすっかり忘れ、ウィークデーには行くはずの最終バスが終点まで行かず、途中で東にそれて行く。バスが進路を変えてそのことに気づき、運転席まで行って話を聞くと、夏樹の目指す回転場まで行く便はすでに終わっていて、ここで降りないと十キロ離れた温泉場まで行ってしまうという。


「でも、ここで降りてどうするの? この先民家はないし、もうすぐ日が暮れる。もしよかったらこのまま乗ってればいい。この先の温泉に行けばあとは車庫まで引き返すから、温泉に泊まるか、車庫に帰る前に駅にまわるからそこで降りればいい」


「いいんです。ここで降ろしてください。知り合いの車が峠を越えて北から迎えに来るはずなんで・・・」


「ああ、そうかい・・・」


 六十は過ぎているだろう、親切な運転手はそう言いながらも怪訝な顔で夏樹を夕刻を迎える山道に降ろした。こんな暗くなってからあんな辺鄙なところまで迎えにくるなんておかしいぞ・・・、と。


「気を付けて行くんだよ」


 彼は言ってくれた。だが、ちょっとマズいかな、とも思った。顔を覚えられてしまった。


 仕方がない。あと十キロもない。このまま登ってバスの回転場の待合所まで行こう。当初から想定していたとはいえ、最初からこっちだとわかっていれば一番目のムダな行程は踏まずに済んだものを・・・。いまごろは峠を超えて北の街の系統のバスに乗り換え、街中のホテルか旅館で宿を取れたものを・・・。


 いまさらのことを思ったが、今は前進あるのみだ。夏樹は自分を励まし、暮れ行く薄暗い心細い山道を登っていった。たまらなく、奈美に会いたいと思った。どうして自分には携帯電話が無いんだろう、と。たまらなく奈美の声を聴きたかった。


 行程の半ばまで行かないうちに日は暮れた。もう小学生の子供ではなかったが、さすがに心細くて何度もくじけそうになった。もう幽霊や妖怪を信じる歳ではなかったが、溢れる想像力はこんなときには無用で邪魔だ。暗闇から今にも知らない獣が飛び掛かってくるような気がして、自然に早足になる。


 だが、焦りは禁物だ。できるだけ同じペースで歩調を変えずにただひたすらに歩く。そうすれば二時間もかからずにチェックポイントに着くはずだ。


 そのバス停に着いたところで、孤独な夜を過ごすだけだとわかってはいる。でも、ここを乗り越えなければ。ともすると折れそうになる心を励まし、ただひたすらに脚を前に進めた。そして出来るだけ他のことを、目の前の心細い不安な暗い山道についてではなく、例えばあのバスの運転手のことを考えた。彼が余計なことをしてくれなければいいが、と。


 早ければもうすぐ父か継母が夏樹の不在を知るだろう。書置きはあえてしなかったからどこかに遊びにでも行ったのだろうと思い込んでくれるとありがたかった。


 でも、万が一、警察に捜索願でも出されたとすれば、さっきの運転手に顔を覚えられたことがマイナスに働くかもしれない。最終目的地に着く前に連れ戻されることだけは、避けなければ。


 そう考えると、心細い山道の行軍にも使命が生まれる。あてどない旅ではなく、目標を攻略する作戦なのだ。そう思い込むと、不思議に力が湧いた。


 リュックの中からCDプレーヤーを出し、イヤホンを着けた。ラフマニノフの交響曲第二番、第三楽章アダージョ。夜の山の静寂の中に美しい抒情的な調べが流れだした。


 歩きながら背負ったリュックのサイドポケットを探り、ペットボトルのお茶を飲んだ。


 立ち止まっちゃだめだ。もうすぐ、回転場に着く。それまで、歩き続けるんだ・・・。


 母を訪ねて三千里。


 母が生きていると知ってまずその古い物語が自然に思い浮かんだ。小学校の頃に推薦図書だかに上がっていたと思う。たしか、学校の図書館で読んだ。担任に感想文を褒められたのを懐かしく思い出す。


 そのために、今、自分はここにいるのだ。そうだ。それを忘れるな!


 その思いも、力になった。それらは全て、夏樹の両の脚に、脚を上げて前に踏み出し、後ろへ蹴る、その繰り返しをするための力をくれた。


 ガンバレ、夏樹。あと少しだ!


 そんな風にして夏樹は歩き続け、登り続けて、ようやく前方の彼方に灯りを認めた。


 星ではない。あれは、人工の、人の灯りだ。


 デジタルの腕時計のライトをつけた。時間的にももう着くころだ。間違いない。あれが最初のチェックポイントの灯だ!


 抑えきれず、脚が逸った。どこにそんな力が残っていたかと思うほど、脚が早く動き出した。それは「生」への渇望だった。立ち止まったら「死」だ。夏樹は本能で「生」を求めて、もう小走りになりながらも、灯りに向かって進んだ。


 ようやくそこにたどり着いた時、そこに先客がいるのを知った。たった一人で寝ることを覚悟していたから、自然に安心感が押し寄せ、ここまでの疲れがどっと出た。


 灯りに導かれるようにフラフラと待合所に入ってゆき、赤い寝袋の中で眠っている人を認めた。


 女の人だ。とてもキレイな人だ。


 母のイメージが薄れかけていた。その女の人の顔で補強してしまいそうなほど、なぜか雰囲気が似ていた。家にあった遺影の写真を持って来ればよかった。母のもので残っていたのがそれしかなかったのだ。よくよく考えて持ってくるのをあきらめていた。父とあの女がそれがなくなったのを知れば、追跡がキツくなるかもしれないのを心配したのだ。それをちょっと後悔した。


 その人も疲れているのだろうか。夏樹が近づいても起きる気配はなかった。


 夏樹の方も限界だった。暗く心細い山道をここまで登って来て、何時間ぶりに人間に会って、気が抜けてしまった。


 その人の足元のベンチに、待合所の壁に倒れ込むようにして座り、膝を抱え、急速に寝入った。





 目覚めるとほのかに明るい黎明、野鳥の声。風は止んでいる。そして昨夜微かに聞こえた湧水のような水音が大きく聞こえた。


 硬いベンチの上は肩が凝った。寝袋の中で大きく伸びをして、肘をついて体を起こしたら、驚いた。


 人がいる。


 寝てはいるが男だ。いや、男の子?


 朝っぱらから全身に冷や汗が出た。


 とっさに身体を探り、頭に置いたタンクのバッグを探った。バイクのカギや全ての貴重品がその中にある。中を確認する。バイクのキー、財布、カード入れ、手帳、書類入れ。


 全部ある。ホッと胸を、撫で下ろす。


 とりあえずは被害はないが、あらためて寝入っている少年に対峙した。


 そおーっとシュラフから出てブーツを履く。タンクのバッグのストラップを伸ばし、首にかけて胸にスラッシュし、固く締める。そして、考える。どうすればいいかを。


 自分は経験が無いが、目覚めたらすぐ近くにクマがいたという経験を持つ人の話は聞いたことがある。クマはああ見えて臆病だから、最初からやかましいものは警戒して近づかない。


 タヌキなら美玖も会ったことがある。


 朝、テントから這い出すと、食べ残しのトマトを両手で掴んでむしゃむしゃ食べていた。そこにおはようございますしてしまったのだ。むこうはすぐに逃げて行ったが、美玖も驚いた。向こうもさぞ腰を抜かしたことだろう。


 だが、今向かい合ってグースカピーしているのはクマでもタヌキでもない。人間のオスで、まだ若い。そこまで考えると幾分落ち着きを取り戻した。


 次に、何故この子がここにいるのか。寝ているのかについての考察だ。辺りを見回しても視界の中に置いてある薄いグリーンのシートをかけた自分の愛車の他には自転車も、もちろんオートバイもない。


 歩いて登って来たのだ。北か南かからは知らないが。


 膝を抱えてベンチに蹲る少年の足元を見る。トレッカー用のではない。ごく普通のスニーカーにジーンズ。それに普通の紺色のウィンドブレーカーの下にセーターを着こんではいる。


 だが、無謀だ。無茶だ。無茶すぎる。この時期。初秋とはいえ、標高六七百メートルともなれば、最低気温は五度を下回る時もある。下手すると、風邪をひく程度では済まなくなる。雪が降らなくとも、人間は簡単に凍死する。


 どうやら保護者の了解とか管理の下でここまで来たのではなさそうだ。と、いうことは、家出か・・・。


 でも、何をすき好んで、こんな山奥へ。家出ならもっと便利な、人ひとりなら容易に姿を隠せる森が、「都会」という森がすぐそこにあるのに。なんでまた、こんな山奥に・・・。


 美玖は、目の前の、打ちひしがれたようにして眠っている少年に、あまりに過剰すぎる警戒態勢をひとまずは解いた。


 ベンチ以外に椅子は一脚だけだった。座面と背面に赤い煤けた破れかけのビニールを張った鉄パイプの椅子を引きずって、その少年のそばに座った。疲れすぎているのか、そんな気配や物音にも少年は目を覚まさなかった。


 あと十年もすれば、息子も、大樹もこんな年頃になるんだろうか・・・。


 男の子というにはあまりにも美しい整った顔をしている。まつげが長い。顎が細くて、唇が赤い。髪が長ければ女の子と見紛うような・・・。


 なぜそうしたのかはわからない。


 気がついたら差し伸べた手が少年の頬を捉えていた。





 !


 温かい手。でも奈美のとはちょっと違う。もっとあったかくて、それに柔らかくて、しかも小さい・・・。


 ん?


 母はこんな顔をしてたっけ・・・。


「目、覚めた?」


 その優しい手はゆっくりと引いていった。なんでか、その手の柔らかさに誘われて少し顔がついていってしまった。だが、夏樹は疲れすぎていた。


 再び壁に背中を預けると、ぼんやり、目の前の知らない女の人に寝ぼけ眼の焦点を合わせた。


 ああ。この人だ・・・。そうだ。この人だ。


 夏樹はふうっと、安堵の息を吐いた。

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