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42 The long goodbye


 この日のためにバイトも休んで練習を重ねて来た。が、彼女のタッチには到底及ばなかった。夏樹の何倍もの速さで、すなわち本来の速さで、淀みない、美しい旋律をその世界最高峰のピアノから奏でた。


 生で、間近で、しかも本物のグランドピアノで、初めてこの曲に接した。


 恵理のエレクトロンピアノや学校のピアノなどとはまったく響きが違った。まるきり世界が違う。


 違うのはピアノだけではなかった。あのCDの音の硬さがとれ、丸みを帯びた優しい音になっている。硬いタッチと柔らかいのとの差がハッキリしている。特に高音の繊細な響きが美しい。その美しさに再び、三たび、数えきれないほど、涙した。感動に、震えた。


 その感動が、あの夏の日の山荘の思い出が、室内から聞こえてくるピアノの調べが、そのまま目の前に流れている。


 あれは、間違いなく、母だった。そして、その後ろにいた車椅子の男の人は・・・。


 あれは、・・・ヨースケおじさんだ。


「ナツキ。お前も弾いてみてごらん・・・」


 曲が終わった。


「ナツキ、いらっしゃい」


 母は椅子の左側、低音の方の端に寄り、右側のスペースを開けた。そこへかけた。


「一緒に弾きましょう。あなたは上。わたしは下を。ペダル、まかせるわ。・・・準備ができたら、始めて」


 夏樹は右手を鍵盤に置いて深呼吸を一つして母を顧みた。母は穏やかに頷き鍵盤に手を置いた。


 震える指で奏で始めた。母は、息子の弾くその美しいモティーフを掻き抱くように、ゆるやかな低いパッセージを滑らかなタッチで描いていった。


 夏樹が高音部のパッセージで躓くとすぐに手が伸びてそれを補った。キーを間違うと手を添えて正しい音の上に導いた。失敗しないように。そんなことを思う必要がなかった。夏樹は、次第により自由に伸びやかに、奏でていった。


 最も激しい、力強い三度四度五度の和音が交錯する部分が、母の落ち着いたトリルの連なりで飾られた。そしてメロディーは再び最初のモティーフに戻り、再び高まって、緩やかに次第に静かにアルペジオを奏でながらエンディングに向かって行く。


 そして、最後の音が打たれた。キーから指が離れた。夏樹はまだペダルを踏んでいた。その音の響きがもっと長く、ずっと続けばいいと思った。


 だが、その弦の響きはやがて小さくなってゆく。


 曲が終わっても、二人は続く長い静寂の音楽に身を浸していた。


 背後に包み込むような温かな温もりを感じながら。


 その静寂の音楽の中で、幼い記憶が、母の記憶が、それまでで最も煌めいて鮮やかに蘇り、そしてゆっくりとぼやけていった。最高の時に合わせて完成した最高の砂絵が、風に吹かれてくずれ、消え去ってゆくように。記憶は残る。だがそれは後に何度も繰り返し補強をせねばならず、その度に、最も美しかった像から離れ、後付けの美を添えられてゆくだろう。人の記憶とは、そういうものだと聞いたことがある。だからあの時、今この時のその一瞬が、最も尊いものなのだ、と。


 夏樹にはわかっていた。おそらくその煌めきはもう二度と戻っては来ない。その煌めきの残照を、無駄とは知りつつ、胸に留めようとしていた。


 そして、静寂の音楽は、消えた。


 夏樹は我に帰った。


 傍らの「母の友達のピアノの先生」を顧みた。


「血、だわね」


 と、「先生」は言った。彼女からはまだ、あの峠のバス停の湧き水の香りが流れてきていた。


「あなたの、お母さんと、そして・・・」


 彼女は夏樹をそっと抱いてくれた。一番見たかった「先生」の顔が見れなかった。夏樹は客席側に座っていたから、奈美と美玖には彼女の顔が見えたかもしれない。


 客席を見た。いつのまにか奈美と美玖がいて、二人とも、泣いていた。


 美玖が涙を拭いて、ウン、と頷き、


「先生」


 と、呼びかけた。


「先生。残念ですがもう、お時間です」


「ナツキ。もう一度、顔を見せて」


 彼女は、泣いていた。


「最高の『アダージョ』だったわ。これでもう・・・。


 聞いて、ナツキ。あなたのお母さんに会えたら、必ずこう伝えるわ。


 あなたの息子は、とても可愛くて、そしてとても逞しい男の子になってた、って・・・」


 彼女の両手が、夏樹の頬を挟み、肩を抱いた。澄んだ彼女の眼を、見つめた。瞳の奥にいる母を、見つめた。


「あなたと一緒に弾けて、楽しかったわ。


 どんなことがあっても、力いっぱい、生きるのよ。・・・じゃあね」


 いつの間にか、奈美がそばに立っていた。夏樹の腕を取り、しっかりと抱え込んでいた。


「先生」の目が奈美に注がれ、じっと見つめ、ゆっくりと頷いた。


 美玖が「先生」の腕を取った。立ち上がったが少しふらついた。思わず駆け寄ろうとする夏樹と「先生」はもう一度見つめ合い、そして、離れた。


「先生」はもう、振り返ってはくれなかった。美玖に支えられ、ドアに向かい、ドアの外に消えた。後を追おうとした夏樹を奈美が制した。


「テメ! なにすんだよ、離せよ!」


「ダメ! ミクさんに言われてるんだから!」


「なにを・・・」


「10分待って。・・・あっ、コノヤロ、待てっつったら、待て! 」


 こういう時の奈美はテコでも動かない。長い間に何度もこういうことがあったから、経験で知っていた。その奈美の剣幕に、夏樹は全てを理解した。


「・・・おい、痛いって。わかった。わかったから、もう放せ・・・」


 それでも奈美は夏樹の腕を離さなかった。仕方なく、


「・・・一緒に来い」


 と奈美に言った。


 その「小ホール3」を出て廊下の窓から下を見下ろした。


 通りに患者移送用の車が停まっているのが見えた。美玖ともう一人の女性に抱えられた「ピアノの先生」が車に乗り込むのが見えた。窓を開けようとしたが、ロックがかかっていて開け方がわからない。夏樹は窓をドンドンと叩いた。叩いているうちに、車のドアが閉まった。


「・・・お母さん、・・・かあさーんっ!」


 その緑の車には夏樹の声が届かなかったのだろう。やがて走り出して、車の群れに加わりビルの間に入り、見えなくなった。


 平日の午後、夏樹の絶叫が市民会館の誰もいない廊下に響いた。





 カーゴスペースのストレッチャーに横たわった雅子は看護師にバイタルを取られながら美玖を見つめた。


「タダノさん・・・」


「はい」


「ありがとう・・・」


 そしてゆっくりと微笑み、目を閉じた。


 一週間前。初めて会った時のあの悲し気な瞳の色は消えていた。彼女は、大きな安らぎと幸せに包まれて、そこに横臥よこたわっていた。


 あの母と息子の連弾した「アダージョ」の優しい調べを思い返しながら、病院に戻るまでの道、美玖は雅子の横顔を見守り続けた。





 


 タグボートが一隻、夕暮れの防波堤から現れ、港内をウェーキを引いてゆっくりと走り去っていった。


 夏樹と奈美、そして美玖は港にいた。そのウェーキが夕陽を煌めかせながら広がり、やがて消えてゆくのを眺めていた。


 美玖は見慣れたライディングブーツにジーンズ、そして厚手のジャンパーに身を包んでいた。すぐそばに彼女の愛車であるCB750がとめてある。


「これで全部、終わったね」


 冷たい晩秋の海風に髪をなびかせながら、美玖は言った。


 夏樹には一切何も説明しなかった。夏樹も、何も質問しなかった。質問してはいけないのだと思った。あの「先生」が母だったんですね。それは言ってはいけないのだと、知った。母が今も健康で、元気で日々を送っていて、今すぐ夏樹と二人で暮らせるほどなら、今日、このような形で会わねばならなかった必要などどこにもないのだから。


 母と息子の二人の我儘を叶えてくれた恩人にどうやって報いればいいのか、夏樹にはわからなかった。


「ありがとう、ミクさん」


 海を眺めていた美玖は、夏樹を振り返って、言った。


「後のことは、全部あんたのお父さんと弁護士さんがやってくれる。もうあんたは何も心配しなくていいし、心を煩わせることもない。


 今日あんたが会ったのはお母さんの「先生」で古い友達。お母さんはあんたの心の中にいる。あの写真のころの、若くてきれいなままで。あの「先生」が今日の『リサイタル』のことをお母さんに伝えてくれる。あんたの顔も、瞳も、温もりも、一緒にピアノを弾いた思い出も、全部。お母さんに持って行ってくれる。全部お母さんに伝わる。必ず。


 そう、思いなさい」


 そう言って美玖は夏樹の頬を撫でた。


「ナツキ・・・。


 これで、ここでお別れしよう。元気でね」


「・・・はあ? ・・・何言ってんの、ミクさん・・・。どうして、そうなるの。」


 ちょ、ちょっと、待ってよ・・・」


 やっと母に会いたいという願いが叶い、これからは美玖にその役割を演じてもらい、いつもそばにいて欲しいと思っていたのに。ここでお別れ? そんなことは許せない。夏樹には美玖が必要なのだ。奈美も美玖も、どちらも。


「もう、あたしの役目は終わった」


 美玖は言った。


「あんたには、ナミちゃんがいる。これからはナミちゃんを大事にして幸せな人生を生きるの」


「・・・なに勝手なこと言ってんの」


「そうしなさい!」


「なにが、そうしなさい、だよ。なにがダメなんだよ。なに、一人で全部やっちゃってんだよ。決めちゃってんだよ。オレ、どうなるんだよ! 何のために、ここまで我慢したと思ってんだよ! フザけんなよ。これで終わりって、なんなんだよ、それ!」


「ナツキ! 」


 美玖は微笑した。


「あんたはまだ、中学生。あたしはもうすぐミソジ。りっぱなトシマ。コドモと、オトナ。わかったでしょ? あんたはおとなしく中学生に戻って、セイシュンをやり直しなさい。お父さんの愛情も、わかったでしょう? それに、こんなに立派なカノジョもいる。完全に、「リア充」じゃん。ひゅーひゅー。いいねえ、若いって・・・」


「・・・チクショー、あったまきた。てめーっ、ミクっ!」


「おうおう! ガキが、生意気に。何吼えてるんだか・・・」


「ミクさん!」


 と、それまで黙っていた奈美が、口を開いた。


「・・・ちょっと、それじゃあんまりですよ、ミクさん」


 それで、美玖も黙った。


「ナツキは感謝してます、ミクさんに。


 でも、この一連の出来事で心に穴が開いちゃったんです。ポッカリ。ミクさんならわかるでしょう。


 あたしでも、その穴、埋め切れないと思います。ミクさんに埋めてもらえると思ってたんですよ、ナツキは。・・・あたしが何を言いたいか、ミクさんなら、わかりますよね」


 強い海風が美玖の髪を弄った。


「あたしだって、あたしだってヘーキじゃないです。でも、でも・・・。


 ミクさん言いましたよね、ナツキを愛してるから、って。あたしも、ナツキを愛してるから、黙っていられないんです。わかりますよね。わかってもらえますよね、ミクさん!」


「いいの?」


 髪を風に弄らせていた美玖が顔を起こした。


「ナミちゃん。あんたは、いいの? 本当に、いいの?」


「・・・いいですよ」


 と、奈美は言った。


「ミクさんに、任せます。タップリ、可愛がってやってください」


「ナミちゃん」


 美玖は言った。


「ナツキがどんな男になってゆくのか、大人になるまでそばで見ていたかったけど、そうすると、あんたのためによくない。この子はもう、あんたに返すわ。これからはもう、あんたが面倒みなさい。あたしはもう、子育ては終わったの。あんたのオトコなんだから、あんたが責任もって、面倒みて、いい男に仕上げなさい。いいね?」


 美玖はジャンパーのジッパーを下げた。


 内から携帯電話を取り出し、どこに電話するのかと思っていたら、いきなり振りかぶって、それを海に向かって思いきり投げた。携帯電話はきれいな放物線を描いて水音も聞こえないような遠くへ落ちた。


 携帯電話は、八百年ほど昔大陸から海を越えて襲ってきた蒙古軍の、船の残骸の切れ端が沈んでいるだろう海底に、沈んでいった。どこかの歴史学者が歴史的遺物と一緒に塩漬けになったそれを引き上げることがあるかもしれないが、それはもう二度と美玖と夏樹を結びつける役割を果たすことはできないだろうと思われた。


「縁があれば、またどこかで会うよ、きっと。それまで、元気でね、ナツキ。


 ナミちゃんもね。この子油断するとすぐどこかに行っちゃうから、しっかり首輪でもして繋いでおくのよ」


 今までで一番清々しく、凛々しく、カッコイイ表情かおをした美玖は、そう言ってCB750のシートに跨った。


 そして、チョイチョイと人差し指で夏樹を呼んだ。


 美玖は少年を抱きしめた。そして女の匂いをたっぷりと与えた。


 そして、キスも。


 この一か月余りの間、ずっと夏樹を勇気づけ、励まし、大人の男への階段を登る力をくれた、あまりにも忘れがたい、甘くて塩辛いキスを。


「・・・ちくしょう! 人を犬みたいに・・・。ミクッ!」


「ナツキ・・・。いい男になるのよ」


 ヘルメットを被り、セルを回した。カコン。ギアを入れた。そしてアクセルを開き、クラッチが繋がり、さっと左手が上がった。母に会わせてくれたもう一人の母であり生涯の恩人であり、大切な恋人。


 そのひとはそんなふうに、力強いエンジンの響きと共に、夏樹から去って行った。

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