41 リサイタル
十一月十三日早朝は、晴れ上がった空に高い小さな雲が映えていた。
夏樹と奈美は新幹線口で夏樹の父を待っていた。
「おそいね」
奈美は夏樹のダッフルコートの腕をとり、抱え込んだ。
「ナミ」
「・・・ん?」
「オヤジ来なくても、行くからな」
「アイヨ。わかってるよ」
そう言ってちょっと低い夏樹の頭に気持ちよさげに頭を載せた。かなり首を曲げねばならなかったが、そんなことは奈美にとっては些細な問題だった。夏樹と一緒に新幹線で旅行に行ける。ただそれだけでふわっふわのテンションの中にいた。
夏樹は腕時計を見て連絡通路の上にあるデジタルの時計を見上げた。
「・・・時間だ。行くぞ」
足元のスポーツバッグを持ち上げようと身をかがめた時、
「来た!」
と、奈美が叫んだ
父は、奈美の母と一緒だった。
「え? なんで来たの、ママ」
「この、おバカ! あんたお財布忘れて何しに行くの? 高校生にもなって、みっともない!」
「あ、・・・」
「少し足しといたから。だけどムダ遣いはだめよ。いいわね?」
父は、これまでになく、さっぱりした顔をしていた。何かが吹っ切れたような、そんな印象を受けた。彼はジャケットの内ポケットからチケットを出して、言った。
「これ、切符だ。オレは、行かない」
「え? おじさん、行かないの?」
夏樹は黙っていた。
「ナミちゃん。こんな息子だけど、・・・頼むな」
「・・・うん」
奈美は顔を赤くして俯いた。
「ナツキ・・・」
夏樹は顔を上げた。
「母さんに、よろしくな」
夏樹が窓の外ばかり見ていると、奈美は時折つないだ手の指を絡め強く握った。夏樹が振り向くとちゅーをせがんだ。夏樹は奈美の我儘を聞いてやり、また窓に戻った。窓の外を流れる景色を見て込み上げる高揚感を抑えていた。
長い間、あれだけ求め、探していた母。その母にやっと会える。だが、その胸の高鳴りはそれだけではなかった。母以上の存在になってしまったひと。その人に会える。そのせいだった。でも、それは抑えなければならない。
「あたしも一緒に行く」
奈美はきっとそう言うだろうと思っていた。ところが、
「ナミ。あんたついていきなさい。一緒に行って、ナツキをしっかり支えるのよ。いいわね?」
奈美が言いだす前に彼女の母がそう言ってくれた。あの、「いいわね?」を聞くと、なぜだか安心する。一人では、心細すぎてとても来れなかった。母と美玖とに思いが乱れすぎて混乱しそうになっていた。そんな夏樹を、奈美は全部知ってくれている。
だから、夏樹が現実から足を踏み外し、訳の分からないことをしでかさないように、アンカーになってくれているのだ。
奈美が一緒に来てくれてよかったと思う。
駅から教えられた場所にタクシーで行った。市民会館のような、大きな建物の前に車が横付けした。エントランスには本日の催し物のボードがあり、一番小さな小ホール3のところに「庄司様お席」と書いてあった。
二階に上がったそこは折り畳み椅子なら五十も入らないような小さな会場だった。正面の一段高い所にある壇の中央にグランドピアノが置いてあった。
スタインウェイ・アンド・サンズ。
世界最高峰のピアノだ。「にわかピアニスト」の夏樹にもわかる。
昨日突然美玖から電話があった。
「借りてるのはたった二時間だけだからね。絶対、遅れないでよ」
まさか、こんな素晴らしい舞台装置が待っていたなんて想像もしていなかった。
壇に登り、その黒光りするピアノに触れた。
「楽譜、必ず持ってきてね」
と、美玖は言った。
「そこで、母に会えるんですか」
「明日こっちに来れば、わかるよ」
ダッフルコートを脱ぎ、スポーツバッグから楽譜を出して譜面台に置いた。
奈美は壁際に積み重ねられていた椅子を二三脚引っ張り出してピアノの前に置き、その一つに座った。あの騒々しい奈美がここにきて一言も喋っていなかった。緊張しているのがひしひしと伝わって来た。
少し練習しておこうかな。
ピアノに向かい、最初の三音に続いて左手のトレモロを弾き出そうとしたときだった。
廊下のドアが開いた。
ライディングブーツとジーンズ。ジャンパーの下はベスト。そんな姿しか見たことがなかった美玖が、シィクなグレーのパンツスーツで立っていた。
「・・・ナツキ、待った?」
美玖はニッと笑い少し首を傾げた。その仕草が、可愛かった。
途端に夏樹の周りの世界が浮いたように感じた。ぐらっと、揺れた。それほどの衝撃。美玖という女性がそこに登場しただけで、世界が、変わった。
「・・・ミクさん」
夏樹はピアノに捉まって、立ち上がった。
「ごめんね、ナツキ。結局、お母さんは見つからなかったの」
美玖は衝撃的な一言を吐いた。
「え?・・・」
「だけど、お母さんがとても親しくしていたピアノの先生に会えたの。・・・先生、どうぞ」
美玖は入って来たドアの外に声を掛けた。それを察して、奈美も席を立ちその部屋の端に寄った。
入って来たのはフォーマルな黒のロングドレスに身を包み、銀色の長い髪を黒いリボンで緩く結んだ年配の女性だった。
彼女は美玖に腕を支えられ、ピアノに近づき、夏樹の前に立った。介添えをしていた美玖を遠ざけ、自分だけで立ち、スッと背筋を伸ばした。そして、夏樹をじっと見つめた。
「先生。マサコさんの息子さんです。・・・話してやってください」
その女性はもう一歩、歩み出た。
「・・・ナツキ、・・・くん」
その女性は夏樹の手を取った。カサカサの皴だらけの手。
「・・・あなたの、お母さんは、いつもあなたのことを話していた。・・・こんなに、大きくなって・・・」
とても冷たい手だった。彼女は両手で夏樹の手を包んだ。
「顔を見せて。もっとよく見せて」
その皴だらけの顔。その瞳に惹かれた。その光が夏樹の心の奥底にある記憶のドアを叩いた。
「湧き水がある。おいしいよ、ナツキ! 飲んでごらん」
あの峠のバス停のそばで、冷たい水で洗った母の顔から弾ける水滴が夏樹の顔にもかかった。
その時の、目だ。それが今、目の前にある。
夏樹の瞳にうるうると涙が溢れ、唇が歪んだ。
年配の女性は夏樹に寄り添うと、そっと彼を抱きしめた。
これまでに何度も夏樹の泣き顔を見て来た。小学生から今まで。転んだり、虐められたりした時の泣き顔も見てきた。母が恋しくて、寂しくて泣いた時の顔が一番多かったような気がする。そのたびに、頭を撫でたり、抱きしめたり、一緒に泣いたりして慰めてきた。だからアイツが今何を思っているのか、言わなくてもわかってしまう。
アイツは、夏樹は、母には会えないと聞いて落胆した。
でも、その年配の女性が二十代後半くらいのスーツの女性に支えられながらステージに近づき、アイツの前に立った。と、急に顔を歪ませ、母を恋しがって泣いた、小学校二年生の時の顔になった。夏樹は泣き顔で震えていた。
おばあさんはそっと、彼を抱いた。震えていた夏樹が、彼女の骨が折れてしまうんじゃないかと思うほどに、抱きしめ返した。
ふううっ、はあああん。
夏樹は、文字通り、号泣した。
その光景を目の当たりにして呆然としていた奈美にスーツの女性が近づいた。
「ナミちゃん?」
女性は小声で呼びかけて来た。
「・・・はい」
「ちょっと、外に出ない?」
名乗らなくても、奈美にはわかっていた。
抱擁し合う二人をホールに残し、美玖はドアを閉めた。
「ミクさん、ですね?」
うふふ。その大人の女性は低く笑った。
「なんか・・・。初めて会ったような気が全然しないんだけど」
「・・・そうですね。あたしも、です」
奈美も笑った。
「思った通りの女の子だわ。可愛いし、芯が強そう。ねえ・・・、」
「はい?・・・」
「あたしたちみたいの、なんていうか知ってる?」
「・・・なんていうんですか?」
美玖は奈美にそっと耳打ちした。
はじめその意味が解らなかったが、次第にそれがイメージされてくると、奈美は気の毒になるほど赤面した。
「やっぱり、想像してた通りだわ。ナミちゃん、可愛いわ・・・。お母さんがいなくてもナツキが強くて逞しい子になったのは、あなたがいたからなんだね。すんごい、納得したよ・・・」
夏樹の父親に協力させるのはたいして難しいことだとは思っていなかった。自分は家を出たが、定期的に夏樹に小遣いを渡し、奈美の家に頭を下げに行ったと聞いていたからだ。
彼は、ショージは、心の奥底でまだ夏樹を愛している。捨てきれないでいる。そう思えたからだ。だから父対息子という構図ではなく、積極的に父親を巻き込んでしまえば、父親の懐に飛び込んでしまえば、必ず彼は夏樹に協力してくれると思った。
むしろ難しいのは母親の雅子の方だと思っていた。
なにしろ雅子の容姿が激変しているし、彼女自身が頑なに会おうとしないのだ。夏樹を愛するあまりに、そのせいであることは言うまでもなかった。
容姿だけではない。彼女みずから語ったように、その資格がないと、思い込んでいる。自分のような母親が彼のそばにいるのは夏樹にとっていいことではない。
だから、連れ去られた夏樹を追わなかったし、友人ではなく遠く離れた親戚を頼って去ってしまい、兄が亡くなった後は、ただひたすら、死ぬことばかり考えて自らを省みなかったのだ。
そこで美玖は、一計を案じた。
夏樹と会うのは雅子ではなく、雅子が世話になった年配のピアノの先生だ、と。夏樹にもそのことは言わなかった。
だが、必ずわかると思った。
美玖が予想した通り、夏樹はちゃんと母親を「嗅ぎ分け」た。そして、母親はその息子を愛するが故の頑なな思いを壊さずに済んだ。二人は七年ぶりかで母子の抱擁ができた。
「夏樹と会う日に備えて練習がしたい」
病室のベッドの上で美玖が用意したヘッドホンを着けキーボードに指を走らせる彼女を見て、これでもう自分の為すべきことはほとんど終わった、と美玖は思った。
「あの・・・」
「うん」
「あの方が、ナツキのお母さんなんですね」
美玖は微笑んだ。と、急に真顔になって奈美に向き直った。
「ナミちゃん。あんたを見込んであんたにだけは言っておくね。
ナツキのお母さんはね、病気なの。身体中の細胞が急速に老化してく。もう長くない。年を越せるかどうか、お医者さんにはそう言われてるの。もちろん彼女自身、それ、知ってる」
その時奈美は気づいた。廊下のソファーには白衣の上にコートを着た看護師と思われる女性が一人、座っていた。奈美と目が合うと会釈を返してくれた。
「彼女は、お母さんはね、それをナツキに知られたくないって。だから今まで会おうとしなかったの。強情な人でね。ここに連れてくるまで、苦労しちゃった・・・。でも、」
と美玖は言った。
「あたしは絶対に会わせたかったの。二人を。それで、こんな手の込んだことをしたのよ。それを、ナミちゃんにだけは、知ってて欲しかったの」
「訊いていいですか」
「うん」
と、美玖は頷いた。
「どうしてそこまで・・・。どうして、あなたはこんなことまでできるんですか」
「それは・・・」
美玖は腰に手を当てて背をそびやかした。そして奈美を優しく見つめ、こう言った。
「それはあんたと、ナミちゃんと一緒じゃないの。ナツキを愛してるから。ただ、それだけだよ」
立っているのが辛そうな老婦人を労わり、ピアノの前に座らせた。
「長い間、あなたのお母さんとずっと一緒だったの。でも、彼女は先に行ってしまったの。遠い国へ。わたしも、行かなくてはならないの。
でも、彼女から頼まれてた。一度だけ、あなたに弾いて聴かせてあげて欲しい、って。そのために、来たの」
老婦人は眩しそうに夏樹を見上げ、目を潤ませた。
夏樹にはもう、わかっていた。目の前の女性が、母であることを。
抱きしめた時の、匂いでわかった。風貌が衰えてしまったが、何故なのかは、どうでもいい。その女性は紛れもなく自分の母親だ。どんな理由かはわからないし、訊くつもりもない。全て母が望んだことなのだろうから。そして、母がそう言う以上、きっとこれが最後の・・・。
「あなたのことを、なんてお呼びすればいいですか」
「わたしは、マサコの、古い友達」
と、女性は答えた。
「さ、そこにお座りなさい。時間がないわ。わたしの先生から教わった曲、聴かせてあげる。わたしの先生は、ハンサムで、頭がよくて、ピアノの上手な人だった・・・」
雅子は洋介にそっくりの夏樹を見上げ、その美しい瞳を潤ませた。
ホールの中から、いつも夏樹が聴いていたラフマニノフの、あの甘い調べが聞こえて来た。夏樹をめぐって「姉妹」となった美玖と奈美は、ドア越しにそっと耳を澄ませた。




