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40 ショーダウン


「初めてお電話いたします。タダノと申します。ショージさんのケータイでよろしかったですか?」


 まだ若い、落ち着いた女性の声だった。声に勢いと張りがある。体育会系。そんな女性を想像した。


「はい。そうです。・・・あなたのことはナツキから聞いております」


 と答えた。


「今日、弁護士がショージさんを訪ねたと思います。そのことでお話させていただきたくてお電話しました」


「ミナミノという方が見えられました。お話も伺いましたが、正直言いますと、突然のことで、何のことやら・・・」


「そうですよね。あなたのお気持ちは理解しているつもりです」


 その女の言い方が気に障った。赤の他人になにがわかるのか、と。それで庄司も虚飾を捨てることにした。


「あの、失礼ですが、そもそもあなたはどういう方なのですか、ナツキがだいぶお世話になったようですが・・・。わたしたち家族になんの関係もない方に息子の名前を使って弁護士まで登場させて。あなたの目的は何ですか。いったい何をしようとしているんです」


 庄司は声を荒げたが、「わたしたち家族」という自分の言葉に一瞬だが怯んでしまった。そんな家族は書類の上だけのもので、実態はもう、とうになくなってしまっていた。


「あたしは、ナツキの友達です。それ以外に何もありません。突然弁護士を向かわせて驚かれたと思いますが、全てナツキも了承済みのことです。それに、ミナミノセンセが申し上げたかと思いますが、マサコさんにはもう、時間がないんです。それで、あなたに信用していただくために、彼に頼んで行ってもらったのです」


「ミナミノさんとはどういう関係なのですか」


「彼は・・・、彼も、友人です。彼の方ではそうは思ってないかもしれませんけど・・・」


 美玖は体調の悪い雅子を憚って外で電話をしていた。九州と言ってもこの時期、夜はかなり冷える。夏樹から聞いてはいたが、この男もどことなく粘着質系に思えた。なんとなく別れた夫を思い出させる。イラつく心を宥めるのに苦労した。だが、ここが辛抱の為所だと思い、耐えた。


「センセが申し上げたかと思いますが、あたしはナツキの友達として、あなたに彼を助けていただきたいのです。彼を取り巻いているいろいろな問題は複雑すぎて、まだ中学生の彼には解決できないんです。あなたしか、頼る人がいないんです。あたしじゃ無理なんです。


 単刀直入に言います。


 あなたのこだわりは、理解できます。自分の種じゃない子を数年も育てさせられた。その憤りは、理解できます。でも、そこを曲げて、助けていただけませんか。夏樹の母親であるマサコさんは、もう、あと幾許もないんです。ご病気で、ご病気なのにまともな治療を受けようともしないんです。食事もほとんど摂っていません。万が一には救急車で搬送しようと思ってます。ですが、以前も搬送された病院を無断で抜け出しているんです」


 電話の向こうは沈黙していた。だが、これ以上無駄な時間は費やせない。一気にまくしたてた。


「彼女は死のうとしています。自分の意思で死のうとしているんです。彼女の意思は固くて、それは、彼女の死はもう、避けることができないように思います。少なくともあたしには、彼女の意思を翻させるのは無理です。


 あたしはナツキの友達として最後にどうしても会わせたいんです。ナツキを彼の母親に、マサコさんに会わせたいんです。ですが彼女はそれさえも拒否しています。会おうとしないんです。自分のお腹を痛めて産んだ息子なのに・・・。


 助けてください。ナツキを母親に会わせてください。彼女が生きている間に、なんとか二人を会わせたいんです!」


 庄司はあまりにも切々と訴える美玖の言葉に困惑しつつも受話器を握り締めた。


「・・・いまさらわたしにどうしろというんですか。死にたいというなら死なせてやればいいんじゃないですか。息子にしても、いまさらマサコに会う必要はないと思います」


「それでいいんですか。あなたはそれでいいんですか?


 もしそうお考えなら、なぜ今までナツキがマサコさんのお兄さんの種であることを隠し続けて来たんです。なぜ、ナツキに知らせないように心を配ってこられたんですか。


 ナツキが可愛いからじゃないんですか」


 電話の声は、庄司の最も痛い所をついていた。


 電話の相手、只野という女性の言っていることは、庄司自身の心の声だったのだ。


「あなたはまだ、ナツキを愛しているんじゃないんですか。息子として。違いますか。


 この時を逃せば、もう取り返しはつきませんよ。ナツキの心に取り返しのつかない傷をつけることになりますよ。それでもいいんですか?


 ショージさん! ご決断ください。お父さん!」


 庄司は唇をギュッと引き結び、目を瞑った。








 あの暗い部屋とは違う、さんさんと秋の陽光が降り注ぐ病室に強引に雅子を移し、一息ついた。


 検査が終わり、バイタルを取り病室のセットアップをしていた看護師たちが退室すると、ベッドに横臥した雅子は歪んだ口元を開いた。


「こんな・・・、無駄なことを・・・」


「そうですね。死のうとしている方には、無駄なことをしたかもしれませんね。


 でも、あなたにとってムダなことでも、ナツキにとってはとても、とても大事なことなんです」


 美玖は淡々と言い放った。


 茶色のベストの胸ポケットの中でバイブにしていた携帯電話が唸った。


「はい・・・。あ、センセ。ちょっと待って・・・」


 美玖は病室を出て廊下を小走り玄関を出た。途中ナースステーションの前で看護師に目配せした。一人がすぐに廊下を逆に向かった。もちろん、雅子を監視してもらうためだ。また脱走されては全てがムダになってしまう。


「旦那さんから入金がありましたよ。とりあえず五十万。あなたのほうへ振り込んでおきましたからね。言うまでもないですが、領収書は取っておいてくださいよ」


「わかってるわよ。イチイチうるさいわね!」


「・・・でも、一体何に使うんですか」


「多分、説明してもセンセにはわかんないよ。それより、ダンナに頼んでくれた? 例の、あの件・・・」


「頼みましたよ。イチイチ言われなくてもね」


 相変わらず一言多い弁護士だ。危うく舌打ちするところだった。


「一週間後、十三日でいいんですね? それにしても、あの旦那さんを納得させるなんてね。少しだけ驚きました。一体どんな魔法を使ったんです。それに、こんなことをして、一体あなたは何をトクするっていうんですか」


「そういうセンセは、どうして引き受けてくれたの? こんなの、あんまり儲かる仕事じゃないでしょうに・・・」


 電話の向こうから鼻でフッと笑う感じが聞こえて来た。


「あなたには申し上げてませんでしたけどね、今月で廃業しようと思っていたんですよ」


「ハイギョウ? センセ、弁護士辞めちゃうの?」


「実家に帰ってリンゴ農園を手伝うことになったんです。資格は残りますから、余暇で行政書士のマネゴトするくらいになるでしょうかね・・・。


 でも、弁護士として活動するのはこの仕事が最後になります。それでね、最後ぐらい、関わった全員が幸せになる仕事をしたいなと、そう思ったんですよ。・・・ひいていえば、それが理由ですかね・・・」


 美玖は頬を緩めた。


「なんだ、センセ、悪徳弁護士じゃなくなるのか。・・・寂しいな」


「あなたにそんなに慕われていたとはオドロキですね」


「ねえ、センセ。『悪徳』の二文字は取ってあげるから、この件が片付いたら一杯やらない?」


「『悪徳』を取ってくれるだけで、十分ですよ」


 そういって「悪徳弁護士」もとい、「ただの弁護士」は電話の向こうで笑った。


 病院の玄関わきの花壇の下に、コンクリートのひび割れがあり、そこから健気にも一輪のコスモスが力いっぱい咲いて秋風に揺れていた。





 病室に戻り監視していた看護師と交代した。


 美玖が戻ったのを知ると、雅子はゆっくりと背を向け窓の方を向いた。まだ、怒っているみたいだった。


 給湯室にあった一輪挿しを拝借して摘んできたコスモスを生けて窓際に飾った。急須にお茶を入れて電気ポットからお湯を注いだ。お茶、召上がりますかと尋ねたが、返事はなかった。それでも、二つの湯飲みに茶を煎れて、サイドテーブルに置いた。傍らの丸椅子を引き寄せ、彼女の背中を見つめた。


「あたしも同じなんですよ」


 ズーっとお茶を啜った。


「高校の時、カレシがいるのに他の男と寝て、彼に見つかって、フラれました。あ、ちょっと言い方、おかしいですね。カレシを裏切っちゃいました。それだけなじゃいんですよ。夫のある身で、浮気して、まだ四つの息子がいたんですが取られて、離婚されました。全部、すべて、失っちゃいました。


 でも、ダンナなんかどうでもいいです。お金とかも、どうでもいいんです。息子に、息子から母親を奪ってしまったんですよ。それがあたしの罪です。でも、こうして生きてます。無様にも生きて、あなたにお節介してます。


 ナツキに出会って、あんなにも可愛い、素晴らしくて逞しい、あなたの息子に出会って、年甲斐もなく好きになって、彼のことを深く知って、なんとか彼の力になりたい、助けてあげたいと思ったんです。息子への罪滅ぼしみたいなもんなんでしょうね・・・」


 雅子の肩が少し震えた。


「あなたはカノウさんや旦那さんに悪いことをしたと言われました。


 でも、彼らは大人です。あなたが彼らにしたことは、悪いことかもしれませんが、罪にはなりません。


 本当の被害者は、ナツキです。あなたはナツキから母親を奪い、父親を奪いました。


 それは罪です。大きな、深い、重い罪です。


 あなたはその罪を償わねばなりません。この世にいる間に、です」


「あなたは、なにさま? 裁判官か何かなの」


 口調はきつかったが、声が、震えていた。やっと彼女と、雅子と対等に通じ合えたと思った。


「違います。ナツキを愛している、ただの、ミクという、一人の女です。


 あなたはきっと何もかも覚悟の上でヨースケさんを愛し、彼の子を身ごもり、ナツキをこの世に産み落としたのですよね。誰の理解も同情も要らない、と。


 だから、あなたには理解も同情もしません。それはたぶんあなたに失礼になるでしょうから。あたしはあなたのご意思を尊重します。


 ですが、ナツキを愛している一人の女として、あなたにはご自分がなさったことの責任を取っていただきます。どうか死ぬのは、その後になさってください。お願いします」

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