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34 女衒


 彼のことを美玖たち下級生は「モリオ先輩」と呼んでいた。名字は木本。同じ水泳部だけでなく同級生のほとんどから嫌われていたし、下級生からも警戒され嫌悪されていた。


 理由は性格の悪さ。下劣な人だと聞いた。どのように下劣で性格が悪いのか。具体的な事実を見たとか直接経験したわけではなかった。とにかく彼にはいつも悪い噂が立っていた。同級生や下級生の女子を手あたり次第に口説く。他校の女子を連れて飲み屋街にいた。ラブホテルに入って行ったのを見た。女から金を巻き上げてパチンコやマージャンばかりしている、等々。


 恵まれた体格を持ち、タイムも悪くなかったのに練習に身を入れず、二年の終わりぐらいから部活に来なくなり、三年にもなると校外の悪い連中と付き合いだしたと噂が流れ、学校にも来なくなり、最終的に三年の冬ごろ、退学した。


 美玖が彼、木本と接点を持ったのはそんな彼の退学寸前の秋ごろのことだった。それは年頃の女子によくあるワルに憧れるとか、そういうものではなく、ほんの些細なありふれた偶然の産物だった。


 夏が終わると二年生は新人戦に向けた活動が活発になってゆく。美玖も気合を入れて臨んだのだが、ほんの少しのタイムの差で個人戦の代表に洩れた。それでも団体戦で活躍する道は残されていたのに、気持ちがささくれてしまった。


 付き合っていた夏樹に愚痴を聞いてもらい、慰めて欲しかった。しかし、彼もまたバスケット部のレギュラーとして地区大会を控え、毎日遅くまで体育館の煌々とした灯りの下で汗を流していた。


 その日美玖は部活を休んで家で私服に着替えゲームセンターに行った。


 猛烈にむしゃくしゃしていた。そこにあるマシンを手当たり次第に攻めまくっていたところに声を掛けられた。


「おう! ミクじゃねえか」


 木本だった。





 彼は話しが上手かった。最初に抱いた警戒感も薄れ、ビリヤードに連れて行かれ、大人の雰囲気に酔い、初めて飲まされた甘いカクテルに酔いつぶれた。


 気がついたら、知らない部屋に連れ込まれていた。目の前が暗くなった。そしてそのまま、奪われてしまった。


「週一ぐらいなら、使ってやっから・・・。して欲しかったらまた来い」





 なぜ人は、それが過ちと知りつつ、同じことを繰り返してしまうのだろう。





 十七歳の美玖の性欲は、辛抱を知らなかった。


 最初に無理矢理された快感が忘れられず、なかなか会えない夏樹への欲求不満が嵩じて、一人で「モリオ先輩」にされたのを思い出して慰めた。でも、二日と持たず、どうしてももう一度その快感が欲しくて、自ら無理矢理されたはずの場所へ、夏樹には黙って再び「モリオ先輩」のアパートに行ってしまった。


「忙しいんだよ。週に一度っつったろ・・・」


 開いたドアの部屋の中の彼が素裸だったのにも驚いたが、彼の背後、薄暗い部屋の奥に目を凝らすと、すでに先客がいた。裸の女で、熱でもあるかのように上気して惚けた顔の目を恨みがましく突然の闖入者である美玖に向けていた。


「しょーがねえな。・・・コイツ終わったら相手してやっから、そこで見てろ」


 彼に「コイツ」と呼ばれたひとを、美玖は知っていた。


 部活は覚えていないが三年生で文化部系だったはず。だった、というのは夏休み明けに彼女が退学したからで、この目の前の男「モリオ先輩」のウワサ話に登場してきたので退学した事実を知っていたのだった。成績だってよかったのにと。それが何故・・・と。


 やっぱり、こういうことだったのか。その一人に自分もなるのか・・・。


「ねえ、早くぅ! 早くしてェ・・・」


 突然の来訪者、特に同性にこんな場面を見られたら普通なら恥ずかしくて悲鳴を上げる。自分ならそうする。でも、彼女は違った。急に悦楽を中断されて、怒っていた。同性のしかも下級生に見られているのにも意に介さず、中断された悦楽を再開してくれることのみを願っている。上級生としてのプライドとかそんなものは微塵もなかった。先輩はまるで木本の性欲を処理するための道具だった。


 すっごい・・・。逝っちゃってる・・・。


 それでさすがに美玖も、引いた。


 すぐにそこを離れればよかった。離れねばならなかった。「モリオ先輩」の部屋を出て、もう今後一切彼とは関りを持たなければ、引き返すことはできた。悪夢を不幸な事故として心の中に仕舞い込み、夏樹との純な恋愛に戻り、幸せな青春を謳歌することができた。


 でも、美玖はそうしなかった。


 あの無理矢理された行為を思い出し、自分の姿を彼女の痴態に重ね、余計に感じてしまっていた。こんなふうにされたら、自分も・・・。と。


「おい、ミク。何してる。服脱いどけよ。次相手してやっから」


 イヤらしい光景に度肝を抜かれ放心していた美玖だったが、これ以上ないくらいに昂奮していた。ドキドキが収まらず、心臓が口から飛び出しそうだった。これをしてもらいたかったのだ、と思った。これを待っていたのだ、と。だから、来たのだ、と。


「来いよ」


 木本は美玖を呼んだ。


 彼女がシャワーを浴びている間に、美玖もまた木本に抱かれた。


 下着をつけた彼女がバスルームから出て来た。彼女の髪は濡れていなかった。乾かすのに時間がかかるからだろう。こんな、木本の女同士の「バッティング」は初めてではないのだろう。もう何度も経験しているといった風情で、先ほどまで惚け乱れていたのがウソのように、落ち着いて服を着ていた。下級生の痴態にもさして驚かなかったどころか、その眼にはメラメラと嫉妬の炎さえ浮かべていた。


 あんたが来なかったら、もっとしてもらえたのに。もっと愉しめたのに・・・。


 そんな風に。


 バッグを取って出て行こうとする彼女の背中に、木本は声を掛けた。


「おい。何か忘れてねえか」


 先輩は立ち止まり、戻って来てポーチを開きベッドのそばの座卓の上に千円札を四枚置いた。


「・・・足りねえだろうがよ」


「今、それしかないの」


「だったら稼いで来いよ。コンビニでもウリでも。親のカネでもなんでも、稼ぐなり強請るなり盗むなりなんでもいいから金作ってこい。出来ねえなら、もう来んな」


「・・・必ず、持ってくるから。また、して! 捨てないでェ・・・」


 彼女は口を歪ませてウルウルと涙ぐんだ。


 ちっ! 


 彼は舌打ちすると、


「・・・たく、しょうがねえ。コイツの相手終わるまで待ってろ。今回は部屋の掃除とシーツの洗濯でカンベンしてやる。それまでそこで指咥えて見てるなりどっかで時間潰すなりして来い。今度はカネ掴んで持ってこい。そしたらまた抱いてやる。わかったか!」


 彼女は涙を拭きながら出て行った。


「お前もだ、ミク。オレに抱いて欲しかったら次からカネ持ってこい。いいな?」


 結局美玖も少ないながら「モリオ先輩」に貢いだ。全部で一万円にも満たなかったが。その程度の金額で済んだのは、夏樹に見つかったからだ。夏樹との仲は壊れた。だが、そのお陰で美玖も正気に戻ることができた。


「モリオ先輩」が退学になったのは、家のお金を盗んだ女が両親にバレ、事態に驚愕した親が学校に訴えたからだった。





 おぞましい記憶が蘇った。


 その記憶の、最大のおぞましさの源が目の前に座った。


「しばらくだな。お前も元気そうだ。・・・そうでもねえか。こんなとこで会うぐらいだからな」


 全身黒のレザースーツ。黒のタートルネック。


 モリオ先輩こと木本は、笑ってしまうぐらいにいかにもな格好でそこにいた。


 あの頃から鼻が大きくて、顎が盛り上がっていた。彼はその髭剃りあとの濃い顎で美玖が眺めていた通りを杓った。


「面接に来たのか。それとも終わってホッとしてんのか、あるいは不採用でガッカリ、とか。・・・まさかもう勤めてる? わけねえよな」


「・・・全部、見当違いもいいとこだけどね」


「おいおい。ずいぶん冷てェ言い方じゃねえか。もう昔のことになっちまったけど、オレと寝た仲だろ、ん?」


 思わずカッとなった。コップの水をぶっかけようかと思ったが、やめておいた。人生最大の汚点と無用にかかわり、さらに汚物に塗れることもないと。


「・・・あんたこそ、何してんの」


「人を待ってる。仕事なんでな」


「どんな? どうせロクなのじゃないんでしょ」


 どう見ても、こんな陽の高いうちに着て歩く格好ではない。まともな勤め人ではないだろう。それとも、この通りの店の一つも経営しているとか・・・。


 いや。経営者はないな、と思った。この男にはプライドというものがない。だからロクな仕事じゃないなどと言われても傷つかないのだ。平気な顔をしてヘラヘラしているのも、十年前とまったく変わらなかった。


「・・・まあな。おっしゃる通り、ロクなもんじゃねえよ」


 ゴツい金の指輪をした指先がコツコツとテーブルを叩いた。その音にまでムカつきを覚えた。


 と、木本の目線が美玖の肩の向こうに反れた。彼は片手を上げて、おう、と言った。


「時間あるだろ。すぐ済むからよ。この後メシでも食おうぜ。こんな故郷離れてよお、しかも偶然、久々に会ったんだ。それぐらい、いいだろがよ、な?」


 美玖が返事をする前に木本は二つ離れたテーブルに移った。振り返ると、ピンク色でラメの入った超のつくミニワンピースに白いファーのついたハーフコート。ほとんど太腿丸出しの彼女は、ヒールを鳴らして駆け寄って来て座った。まだ若い。二十歳になったかどうかというその女は、席に着くなり白いポーチから封筒を出した。木本が中をあらためている。そこから何枚かを引き抜いて女に戻した。その間、女は肩までの脱色した髪をずっと触り続けていた。


 そういうことか。「モリオ先輩」は十年前と同じように、女にタカって生活しているのだ。最低の、ゲス野郎だ。


 その「取引」が終わると彼は、もう行けとばかりに再び顎を杓る。女がゴネる。彼はさらに女にダメを押す。さらに女はゴネる。そしてすがろうとする。彼は席を立ち、こちらにやって来た。


「待たせたな。行くか」


 美玖は女の恨みがましい視線を感じながら席を立った。それも、十年前と同じだった。





 「モリオ先輩」の背中を追って色町を歩いた。


 血の涙が出そうなほど悔しくもおぞましいこの男。


 だがこの男について来たのは、あのコーヒーショップでの光景を見たからだ。もしあれを見なかったら、こんな汚物のような男とはとうに離れ、今頃CBに跨って帰路に着いていた。


 もしかしてこの男なら知っているかもしれない。夏樹の母のことを。


 それだけが、このおぞましい汚物についてゆく理由だった。


 木本は歩いている間も携帯電話を手放さなかった。声は聞こえなかったが、その様子から先ほどの女のような相手に次々と電話して指示するなり報告を受けるなりしているのだろうと察せられた。彼は橋を渡って中の島を離れ、渡った先の、島とは対照的な古い街並みに入ってゆき、小汚い中華料理屋の暖簾をくぐった。


 ちょうど昼時で、店内は肉体労働者やヨレヨレのコートを着たサラリーマンで埋まっていた。木本はこの店で顔らしく、水を運んでいた中年の女性に二三事話しかけると店の奥の油染みたアルミのドアを押して奥に行った。美玖も仕方なく彼を追った。


 そこは店の裏の路地で、人ひとりがやっと通れるぐらいの、足元をドブネズミが走り抜けそうなほど汚くて暗いところだった。その路地で彼は立ち止まり、美玖の後ろに目を凝らした。


 美玖が戸惑っていると、


「尾行けられると困るんでな」


 路地を出て、しばらく通りを歩いた。流しのタクシーを捕まえようとしているのだろう。


「誰かに追われてるの?」


「わるい人」


 と彼は笑った。


「キモトさん。あたし、ご飯はいい。ちょっと聞きたいことがあるんだけど。どこか落ち着いて話せるところないですか」


 彼は立ち止まった。そしてじっと美玖を見つめた。

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