33 悪夢
「ナツキが頑張ってるから、だからガマンしてんだよ。・・・でも、あたしだって、シタいんだよ・・・」
奈美の唇が夏樹のを食み、吸った。
「あ、そう・・・。そりゃ、気の毒にねえ・・・」
「コイツ・・・、くそアッタマきた! 生意気にジラしやがって・・・。もっとキツく抱いてよ!」
「あいかわらず、タカビー。信頼のナミ印・・・」
「うるさい、クソガキ! いいから、黙ってチューしてってば!」
その時、階下で物音がした。
「おい! 玄関、カギ閉めた?」
「・・・閉めた、と、思う・・・」
「じゃ、きっとオヤジだ!」
「ええっ!・・・ちょ、やあん・・・」
アタフタしているうちに、足音が階段を上がって来た。ドアがノックされるのと、なんとか服を整えた奈美がベッドに座るのとが一緒だった。でも雰囲気でバレそうだなとは思った。奈美の顔は、風呂上りみたいに真っ赤で今にも湯気が上がりそうだったからだ。
「入るぞ」
「うん」
しばらくぶりの父は、疲れた顔をしていた。
「・・・こんばんわ。おじゃましてます」
と奈美は父に挨拶した。
「いつもナツキが世話になってるね。ありがとうな、ナミちゃん。・・・あらためてお母さんにもお礼にあがらないとな」
「・・・いえ。・・・じゃ、あたし、これで」
「あ、戻る? 勉強見てくれてありがとな、ナミ」
我ながら白々し過ぎると思ったが、この際、仕方ない。
「あとで電話して。じゃ、失礼します」
カバンを持って、奈美はそそくさと部屋を出て行った。
あとに、気まずい空気が残った。
夏樹は何気に口を払った。奈美のよだれとかがついていないか、チェックする暇がなかったのだ。
「これ、遅くなったが、今週の分な」
父は前と同じ裸の三万円を机の上に置いた。
「ナミんちに世話になってるから、こんなにいらないよ」
と、一応は言ってみた。
「まあいい。あり過ぎて困るもんじゃない。それと、これな」
そう言って通帳と印鑑とカードをだして金の上に置いた。
「転勤になった。頻繁に来れなくなるから、置いて行く。暗証番号はお前の誕生日だ。1224」
「・・・うん」
「それと、この前のメールでお前が寄越した番号だが・・・」
「・・・うん」
「あれは、なんだ」
もう言ってもいいだろうと思った。訊かれたら答えようと思っていた。美玖もそれを覚悟の上で番号を伝えろと言ったのだろうから。
「ミクさんていう、女の人」
「・・・誰だ、それは」
「家出した時出会って、世話になった人」
「・・・どういう人なんだ」
「ミクさんは一人旅だった。それで、オレと・・・。スゴイ、いろいろ、助けてくれたんだ。それで、今も、お母さんを探すのを手伝ってくれてる」
「なに・・・」
「オレ、あの山の中の家に行った。お母さんは住民票を移して、いなくなってた。あの家も、銀行の持ち物になってた。移転先まで行った。瀬戸内海の、島。そこで、伯父さんは死んだ。死んでた」
夏樹は一歩も引かなかった。
「お母さんはそこにもいなかった。その行方を、ミクさんが今、探してくれてる」
「赤の他人がか!」
「赤の他人でも!」
夏樹は一歩、父の前に進み出た。
「赤の他人でも、実の父親より、家族なんだよ、オレにとっては!」
噴火直前の活火山。
父にそんな印象を受けた。
普通、夏樹ぐらいの年頃の少年ならば、父親に対してそんなに冷静に観察できる方が珍しい。多くは反抗して無視するか、無口になるか、暴れるか。あるいはまれにフレンドリーな関係を構築するか。いずれにしても、近親者だから。ポジティヴかネガティヴかはあれど、クールにはなかなかなれない。
夏樹は活火山を前にして地質学者のような冷静な目で観察した。大噴火するか、このまま鎮静化するのか。
ふっ。
父は鼻で笑った。
「家族か・・・」
「なにがおかしいの?」
その問いに、父は答えなかった。
「あなたのケータイの番号も、ミクさんに伝えました」
「・・・そうか」
と父は言った。
「・・・他に何か、困っていることはないか。保護者宛のプリントとか、学校に払わなきゃならんものがあるとか・・・」
「今は、ないです」
「そうか・・・」
父は手帳を取り出して何かを書きなぐり、ページを切り取って通帳の上に置いた。
「オレの赴任先とアパートの住所だ。ナミちゃんちに挨拶して帰る。身体に、気を付けるんだぞ。じゃあな」
そう言って、父は部屋を、家を出て行った。
パソコンとピアノを片付け、奈美の家に行った。
玄関の上がり口で奈美が仁王立ちになって腕組みして何故かウンウンと頷いてた。奈美の母が一瞬だけ複雑な顔をしたがすぐに、
「汚れ物持ってきた? 先にお風呂入っちゃいなさい。ご飯はその後でいいわね」
そういってパタパタ台所に行ってしまった。何故かエプロンの端で顔を拭いていた。
「そういうわけだから、早くフロ入ってきな」
やはり奈美はウンウン頷きながら腕組みしたままだった。
夕食の後、奈美は母親と、ちょうど帰って来た父親に向かって宣言した。
「あたし、今日はナツキと一緒に寝る。エッチなんかしないよ。今のナツキにはそれが必要だから。いいよね?」
「ナミ! お前・・・」
奈美の父は目を白黒させて驚いていたが、母がそれを制した。
「いいの。あたしに任せて。
ナミ。後でナツキをあんたの部屋に連れて行ってあげなさい。ママね、あんたを信頼してるから。ママは、どこまでも、あんたとナツキの味方だから。
ナミ。その言葉の意味、重さ。・・・よ~く、肝に銘じなさいよ」
奈美は大きく頷くと、夏樹を促した。
「ナツキ。・・・風呂入ってきな」
夕食の後、奈美に促されて彼女の部屋に行った。パジャマ姿の奈美のデカいケツを追って階段を登り、部屋に入った。奈美はすぐにベッドカバーをまくり上げて上掛けをめくった。
「もう寝な」
言われた通りに奈美のベッドに入ると、灯りを消した奈美が隣に来て夏樹を抱きしめた。
「あたし、どこまでも、あんたと一緒だから」
と、奈美は言った。
彼女は、夏樹の母はたしかにこの街に、このネオンの眩い色町に来ていた。それだけは確実だ。だが今のところそれだけが、ここに来た収穫だ。
だが、この先どうしたらいいのか。
うまい考えが浮かばないまま、昨日訪れたあのソープ街に来ていた。華やかな店先の連なる通りを一望できるコーヒーショップで、なにをどうするあてもなく、漠然と窓の外を眺めた。
やがて嬢たちの出勤時刻が来て、地下鉄やタクシーからそれらしき人影が色町へ向かってゆく。彼女たちの服はごくありふれたものだ。普通のOLと変わらない。違うのは出勤時刻の差だけだ。
夕刻になるとキャバクラやバーやナイトクラブに勤める女たちが華々しい衣装とヘアで出勤してくる。それから小一時間すると、ソープ嬢たちの、それも比較的年嵩の女たちの退勤時刻になる。
ダメ元でもう一度彼女たちに目を凝らした。
面長。タマゴ型。富士額。色白。目元は切れ長で、落ち着いた和風の美人顔。
そんな顔を探した。
あの、一見人のいい店長が言う通り、少なくともこの界隈にはいないのかもしれない。でも、いまの美玖にはどうしたらいいのか、わからなかった。
このままこの街に滞在していても埒が明かないなら、一度、帰ろうか。そろそろ、スポットにしても仕事をしなければならない。美玖が生きる街は、ここではないのだから。
そう思って、冷えたエスプレッソの残りを啜り、席を立とうとした時、
「おい! ミクじゃねえか」
あまりにも古い、そしてイヤな記憶が一瞬でよみがえった。
彼は、十年以上も前の、いかがわしく、下卑た笑顔のまま、そこにいた。これはきっと悪夢だ。美玖はそう思うことで心の安定を保とうとした。




