03 夏樹の出発
女のくせに奈美の手は大きくてごつかった。
去年、中学に入って入部する部活の見学に体育館に行った。三年生になっていたジャージのズボンにTシャツの奈美がすぐに夏樹を見つけ、
「夏樹じゃん、へっへっへ・・・」
お前はオッサンか、と言いたくなるほどイヤらしいっぽく笑いながら近づいてきた。一緒に行った同じ小学校から来たツレが、
「・・・デケェ女」と絶句していた。
「ねえ、バスケにしなよ。面白いよォ」
あの大きなバスケットボールを、奈美は片手で掴んで持ち上げて見せた。
そんな手で鍛えられては、刺激に強くなるのも当たり前だった。
「あんた、なかなかイカなくなったね」
と、奈美はボヤいた。夏樹は文字通り奈美の「手」で大人の男になる準備を済ませたと言ってもいい。
「ねえ、そこに寝て」
言われるまま絨毯の上に寝転がった。
すると、奈美がすかさず夏樹の側に添い寝した。彼女からはどことなく懐かしい匂いがした。こんなに近くで奈美の匂いを嗅ぐのは久しぶりのような気がする。
「・・・覚えてる? 一緒にお風呂に入ってた頃。よく押し入れに入って遊んだよね」
よく覚えている。あれは二人とも小学生のころだ。どっちの家だったか忘れたが、風呂上がりで押し入れの中に入って遊んでいた。何をして遊んだかは忘れたが、せっかく汗を流したのにわざわざ暑苦しい所に潜り込んでまた汗だくになっていた。夢中で遊んでいるうちに、身体が変なふうに重なった。お互いに「あ」と思ったが、奈美が何も言わなかったのでじっとしていた。どこか、何か、へんな気分になった。その時は不思議だったけど、今はもう、どうして奈美がこんなことをするのか薄々わかるようになっていた。
奈美がガバッと起き上がりごつい手が夏樹の両腕を抑え込んだ。
「なにすんだよ・・・」
「したくなったの」
「何をだよ・・・」
奈美は答えなかった。真剣なまなざしで夏樹を抑え込み、見下ろしている。なんだか妖しい雰囲気になった。こんなことをされるとイヤでも股間が反応してしまう。
「・・・どうせカレシにはしないんだろ」
「当たり前じゃん。・・・絶対しないよ、こんなこと。あんたにだけだよ」
「酷ェよ。オレのことなんだと思ってるんだよ。お前のオモチャじゃねえんだぞ。オレが大切なんじゃなかったのかよ!
なあ。・・・セックスってさ、・・・気持ちいいのか」
「黙ってて! 」
なんだか知らないが、奈美は頬を赤く上気させていた。その風情がなんだかとてもエロくて、可愛いく思えた。萌えって、こういうことか?
奈美のずっしりした身体が覆い被さり、夏樹を抱きしめた。
「あんた、絶対あたしに無断で行っちゃうよね。行っちゃうんだよね、きっと・・・。あんた、そういうイコジなとこあるから・・・」
イコジ? それを言うなら「芯が通った」とか「意志が強い」とか言って欲しかった。奈美の成績がイマイチ残念なのも頷けた。こいつは明らかに、ボキャ貧だ。
「いつ、どうするか知らないけど、忘れないでね。あたしはいつもあんたの味方だから」
そう言って奈美はぐりぐり頬を擦り付けた。まるでクマがナワバリの木に身体を擦り付けて匂いをマーキングするみたいに。そして熱い唇をくれた。あまりの柔らかさと甘さに、全身から力が抜けた。
奈美が帰ってしまうと、入れ替わりに継母が部屋に上がって来た。
窓を開けて換気はしたのだが、部屋にはまだ、奈美の女の匂いが篭っていたかもしれない。でも、継母のドギツイ香水のほうがはるかにクサかった。それにかなりハデな赤系の花柄の服を着ていた。少し顔を顰めると鼻をクンクン鳴らし、
「臭うわね」
と言った。キツい香水振りまいててよくわかるなと思った。だいぶ前からこの女のことは無視することにしたから、もうどうでもよかったけれど。
「あたし、あの子キライ。これからはもう家に連れ込まないでね」
この女なりに嫌われているのがわかるのかもしれない。それにきっと奈美もこの女から好かれていないと知って喜ぶに違いない。
「・・・何か、用ですか」
「これから出かけるから。帰りは明日の夜になる。お父さんも明日まで帰ってこないから。ご飯とか、一人で大丈夫よね」
「・・・はい」
「明日は塾だけでしょ。出掛ける時は戸締りよろしくね」
言いたいことを言ってしまうと継母は出て行った。
背後でドアが閉まると、夏樹は思わずガッツポーズをとった。
よっしゃー、チャンスだ! チャンスが向こうから転がり込んできた!
このチャンスを逃す手はない。絶対に、ない。
準備に時間がかかる。その上で脱出する。その後も、出来るだけ家を出たのに気付かれるまで時間を稼ぎたかった。直感だが、決行は今を置いて他にはないと確信した。
準備に二三時間かかる。今からでは行動が夜になる。夜ウロウロしていては、目立つ。だから出発は早朝。そして出来るだけ一気に遠くへ行ってしまうことだ。そして夜になるまでに人目に付かないところに身を隠す。ホテルでも、山の中でもいい。
漠然とだが、そんな行動イメージを描いた。
今から誰もいなくなるということは夜一杯準備をしてたっぷりと睡眠をとることができるということだ。コソコソしないで堂々と準備できるのはありがたい。
そしてツイていることに明日は土曜日だ。リュックを背負った子供が一人でいても誰も怪しまない。
ああ、神様。ありがとうございます。こんなチャンスをくれるなんて・・・。
そうと決まったら、行動あるのみだ。
夏樹は引き出しからかねて用意していた備品リストを書いたノートを取り出し、もう一度項目ごとにチェックを始めた。今ある所持金と、この事あるのを見越して早めに銀行からおろしておいたお年玉やらを貯め込んだお金。そして父母の部屋に忍び込んでいつもポケットの現金をおいてある棚の小皿やらを物色し、金を数えた。五万円と少しにはなった。必要な電車賃を計算してゆくと、目的地へたどり着くのに必要な十倍近くの金であることを知り少し安心した。
すべての準備が終わると目覚まし時計をかけてベッドに入った。起床は四時。五時の始発に乗るには充分な時間だ。
ところがいざ寝ようと思うとなかなか寝られない。ドキドキして目が冴えるばかりだった。
ひと月ほど前。
夏休み明けの実力テストのために少し根詰めて頑張っていた夜のことだった。
コーヒーが飲みたくなって階下に降りると、もう一時を回ったというのにまだ灯りが点いていた。このまま降りて行けば、まだ起きてるのか、もう寝なさい、寝る前にコーヒー飲んだら眠れなくなる、とかなんとかいろいろ煩いだろうと思い、降りたついでにトイレに行こうか、それとも引き返して大人しく寝るか悩んでいた。すると、父とあの女の話し声が聞くとはなしに聞こえてしまった。
「・・・ナツキはもう寝たか」
「わかんない。あの子、あたしのことキライみたいだから、あんまり接触しないようにしてるの」
「まあ、そういう年頃だからなあ・・・。いちいち目くじら立てんなよ」
「だあってー・・・。ねえ、それより、いつ籍入れてくれるの? もういいんじゃないのォ?」
「もう少し待ってろ。今アイツの籍抜くわけには行かねえんだ。ここまで待ったのが水の泡になっちまう。どうせアイツも身動き出来ねえんだから。焦るこたねえよ」
「今どこにいるんだっけ」
「アイツの兄貴んとこだ。向こうが言い出して来たんだぞ。一度距離を置かせてください、面倒見ますってさ」
「じゃあ、願ったり叶ったりじゃないの。あんな女、サッサと離婚して厄介払いしちゃえば・・・」
「それがな、急いては事を仕損じるんだな」
「なにそれ、どういうこと?」
「あの兄貴な、もうすぐ逝っちまうらしいんだ、これが」
「ええっ、じゃあなおさら・・・」
「金持ってるんだと。他にも山やらなんやら。それにあの兄貴も独身でアイツしか身寄りがない。ここまで言えばわかるだろ?」
「どゆこと?」
「・・・ちっ。いいか? 金持ってるやつが死ぬ。すると相続する権利のあるヤツのとこに金が行く。そいつがまた死んだら、どうなる?」
「ああー! そういうことか。じゃ、奥さんも調子悪いの?」
「なんだか知らんが、兄妹揃って病気らしいんだ。呪われてンだ、アイツの家は」
「じゃ、あの女を離婚しないで待ってればそのうちお金がタンマリ入って来るってこと?」
「そういうこと」
「・・・でもさあ、あたしもうあの子と一緒に暮らすの、ヤなのよ。早く何とかしてヨォ」
「まあ焦るなって。ナツキが高校に入るまでガマンしろ。全寮制の学校に入れるから。そうすりゃ晴れてお前と二人きりになれる。もう少し辛抱しろよ・・・」
母が生きている。
それを知ってしまったら、夏樹にはもう進むべき道は一つしかなかった。どんな手段を使っても、もう一度母に会いたい。会ってこれからは一緒に暮らす。もうこの家にはいたくない。
情の薄い男だとは思ったが、あんな金の亡者のような父とは思わなかった。どんな理由で離れて暮らしているのかは知らないが、実の息子に「母はもう死んだ」なんてウソ吐くなんて。その上財産を掠め取ろうとするなんて。鬼畜より劣る。あの女も大嫌いだ。もううんざりだ。コイツらと一緒にこれからも暮らしてくなんてありえない!
そう思って、この一か月ずっと耐えてきた。奈美にだけは胸の内を曝け出して来た。もうこの家に居たくないと。
枕もとの棚に置いてあるポータブルのCDプレーヤーを出してイヤホンをつけ、PLAYボタンを押す。三つの音に続いて甘美なアルペジオが流れ出すと夏樹は目を閉じた。
ラフマニノフの交響曲第二番、第三楽章。そのピアノ独奏アレンジ版だ。
母がいなくなってから、唯一残されたこのCDを、夏樹はこれまで飽くことなく聴き続けて来た。
市販のものではない。透明なケースに入ったただの真っ白なCDに細いサインペンで曲名が書かれていた。その曲名の下は何故か黒く塗りつぶされていた。何かが書いてあったのだとは思うが、透かしてもどうしても、読み取ることはできなかった。
辛いとき、奈美もそばにいないとき、気弱になって母を思う度にこの曲を聴いた。いつもこの曲で慰められてきた。この曲に浸るとそのたった十数分の演奏の間だけ、あの優しかった母の面影が目の前に現れる。凍えた心が癒された。
ふと奈美の顔が浮かんだ。
奈美に電話しようか・・・。奈美からはかかってこない。かけられない。夏樹は携帯電話を持っていない。夏樹の継母を嫌っているから固定電話にはかけて来ない。だから電話するなら夏樹からしなければならない。
いや、それはダメだ。
決心が鈍るかもしれないし、アイツはちょっと抜けたところがあるから大騒ぎしてせっかくのチャンスがフイになってしまうかもしれない。それに夏樹が真実を知ってしまったのを知れば、父と継母が何をしてくるかわからない。ここは忍の一時あるのみだ。
昼間出したばかりなのに、奈美のことを考えただけで、夏樹のそこはもうビンビンに張り切って腹につきそうなほど反り返っていた。奈美の白い太腿と白いぱんつの中のもののことを思うだけで・・・。
「カレシのと同じくらいだよ、コレ・・・」
奈美はそう言った。
その言葉で、奈美がもう経験をしているのを知った。無性にハラが立った。ちきしょー、奈美のヤツ! そして奈美が欲しくなった。
あの冷たくてすべすべの真っ白な太腿の間の奈美のそこ。その中に這入ることを想像した。切に切に、思った。幾晩も寝床の中で奈美を思ったが、今夜のはとびきりだ。とびきり、奈美が欲しい。だが、我慢した。欲望よりも使命の方が、勝った。我慢して、自分で思いきり慰めた。