29 母の絵葉書
夏樹がテーブルの上で手を差し伸べて来た。握ってやると「冷たい・・・」と握り返してくる。
「会いたかった。・・・オレ、ずっと、ミクさんに会いたかったんだ」
大人になりかけの手で小さな美玖の手を温めてくれた。
「ナツキ・・・」
彼の手の温もりが、嬉しかった。立ち寄ってよかったと思った。
だが、感傷に浸る前に、大人の務めを果たさねばならない。タンクバッグから、二葉の葉書を出してテーブルの上に置いた。どちらもモノクロームの、ネコのイラストの絵葉書だった。
「これが、収穫。少なくとも二か月前まで、あんたのお母さんはここにいた」
美玖は片方の葉書の消印部分を指した。日付は9月25日。九州の北の大都市の局の名前がスタンプされていた。
叶は片手をこめかみに当てじっと目を瞑っていた。
何時間でも待つつもりだった。自分のためならこんな手間はかけないし、忍耐しない。
夏樹のためだから。全ては夏樹のため。愛しい夏樹の将来がかかっているから、だから待った。
オンザロックの氷が融け、再びカランと音を立てた。
ふいに叶がつ、と席を立ち、クローゼットを開けて中の小引き出しから二葉の葉書を出して来た。
「わたしは子供を産んだことがない。でも、あなたはあるんでしょう。なら、わかるわよね。母親なら、子供に見せられない。見せたくないものもあるって」
彼女は二葉の葉書をテーブルに置いた。
「母親なら、わかるわよね。自分のお腹を痛めた子を手放すのがどんなに辛いか。その辛さを受け入れてまで、子供に知らせたくないものを抱える苦痛が」
美玖はその葉書を手に取った。どちらも、モノクロームのネコのイラストが描いてあった。一葉は三毛の母猫が子猫たちに乳を与える姿。もう一葉は子猫を従えて凛と澄ましている母猫の姿。
「お金がなかったの。山荘を抵当に入れても、足りなかった。銀行からは山林では金は貸せないと。それでマサコは働きに出たの。でも、それだけでは到底不足分を満たせなかった。だから彼女は、春を鬻いだ。県を跨いでまでしてね。そんな状況で、息子を手元に置けると思う?」
美玖は目を閉じた。
これで夏樹の母が彼を夫の元に残さざるを得なかった謎が解けた。
脳裏に楽し気に公園を走り回る大樹の姿が浮かんだ。シーソーやブランコで笑う大樹が。そして、義母の手に抱えられ泣き叫ぶ大樹が・・・。
同じ女としてそこまで身を窶さねばならなかった境遇を思った。
「馬鹿よ、あの子は。他にいくらでもやりようはあったのに。誰にも、親友のわたしにまで内緒にして。わたしが気づいた時には、もう、他にどうしようもなくなっていたの。
そして、ヨースケは、そしてあの子は・・・」
叶は再び顔を覆った。
オーディオは、今時珍しいLPレコードのプレーヤーとアンプだった。第四楽章が終わり、ターンテーブルの針は自動的にアームレストに戻り、テーブルの回転が止まった。
「もし仮に」
と美玖は言った。
「もし、あなただったらどうしましたか。あなたがマサコさんの立場だったなら、どうしましたか」
「自分に生命保険をかけて受取人を息子にして全てを信託財産にして弁護士に委ねて、自殺するわ」
毅然とした眼で、彼女は言い切った。
「あんな・・・、あんな遠くまで行ってほとんど他人みたいな親戚の手を煩わせるより、ヨースケと一緒にあの山荘でこの土地で死ぬ方を選ぶ。現にヨースケは自殺した。彼はずっと、マサコに負担をかけるのを気に病んでいたのよ。わたしにさえ打ち明けずにずっと。たった一人で抱え込んで。あの山荘で全てを終えるのが、あの二人にとっては一番よかったのよ!」
「ナツキを残してですか」
叶は沈黙した。
「でも、マサコさんは違った。
大変僭越ですが、亡くなったヨースケさんがあなたではなくマサコさんを選んだ理由が、今、なんとなくわかったような気がします。
マサコさんは、生きる方を選んだ。最後まで、たとえどんなに汚れても、傷ついても、少しでも生きられる道を見つけたかったんじゃないんですか。ヨースケさんを守ろうとしたからじゃないんですか。ヨースケさんは、それにすがったのでしょう・・・」
「・・・あなたに何がわかるの」
「結果的に彼に絶望させてしまったとしても、それはあなたの言う通り、ヨースケさんがこれ以上マサコさんに負担をかけるに忍びなかったからだとおもいます。
でも、繰り返しますが、マサコさんは最後まで彼を見捨てなかった。
そしてヨースケさんを失った今も、遠くからナツキの幸せを願っているはずなんです。あたしには、そう思えるんです。今、この絵ハガキを見て確信しました。
あたしは、マサコさんには深く同情しています。それだけに、あたしは是が非でもマサコさんを見つけ、ナツキにひき会わせたいんです」
「それだけはやめて!」
テーブルに置かれたグラスの中の酒が跳ねてこぼれた。
「マサコに子供を会せないで、あの子のここまでの努力を無駄にする気? 一生会わない方がいいのよ。あんなになってしまったあの子に息子を会せるなんて、残酷すぎるわ」
「わかってます。あなたのお気持ちも。わかっているつもりです」
美玖もグラスを置いた。
「それでも、やっぱり、会うべきだと思うんです。会わせるべきだと。ナツキは知ってしまったんです。お母さんが生きていることを。
先にあたしだけで会います。彼女の話を聞いて、会わせるのは、ナツキに知らせるのはその後にします。
それで、いかがですか」
叶は深く頭を垂れた。
「それと、もう一点だけ。
もしかして、マサコさんご自身も、病気ではないんですか? そのことについて、ご存じのことがあれば、教えてください」
子猫たちに乳を与える母猫の添え書きには、
「ヨースケが亡くなりました。ごめんなさい。
いつもヨーコとナツキのことを思っています。メーワクかけて、ごめんなさい」
とだけあり、差出人はあの瀬戸内海の島の住所で庄司雅子となっていた。ヨーコというのが叶の名前なのだろう。叶は自殺のことまで知っていたから、この時点では相互の連絡が取れていたのだと思われる。
が、もう一葉の、子猫を従え凛と澄ました母猫のイラストの方は差出人の名前も住所もなかった。しかし、同じ筆跡で、
「私は生きています。これからもずっと、遠くから夏樹を見守り続けます。ごめんなさい」
とあった。唯一信じる親友にこんなことを書いてくる母親が、息子に会いたくないわけがないと思った。
夏樹は二葉の葉書の添え書きに指を触れ、宛名面とイラストとを何度も裏返しながら見続けた。
「あの町で、お母さんの親友という人に会えた。これはね、その人から預かって来たの。
ごめんね。成果は、これだけだったの・・・。それに、これ」
汚れた楽譜をテーブルに置いた。
「あたし譜面が読めない。だけどたぶんこれ、あんたがいつも聴いてるやつじゃないの?」
その楽譜は五線紙に鉛筆で書いてある。手書きのものだった。
「あんたが持ってるべきものだと思ったから・・・」
「・・・充分だよ」
テーブルの上に差し伸べられた手を、再び取って温めてやった。
「ありがと、ありがとう、ミクさん!」
夏樹の流した涙を見て、この数日の全てが報われたような気がした。
「これで最後のツメが出来る。今、金稼いで貯めてるんだ。貯まったらオレ、また探しに行く」
「ダメよ」
美玖は幾分冷酷に見えるほどキッパリと諫めた。
「まず、あたしが行く。お母さんを探し当てたら、あんたを呼ぶ」
「・・・なんで? なんでだよ!」
途端に夏樹は激高した。席を立ちあがって吼えた夏樹は店内の注目を浴び、静寂を呼んでしまった。
「落ち着きなさい。もう一度、座りなさい。・・・ナツキ」
しばらくにらめっこを続けたが、やがて夏樹が折れ、席に着いた。それで店内の喧騒が復活した。
「考えてごらん。どうして七年もの間、お母さんが姿を隠していたと思う? 」
「どうして?」
「あたしにもわからない」
「はあ?」
「わからないけど、なにかわけがあるんだよ。深いわけが。そうでなければ、母親がお腹を痛めた子供をほったらかして消えたりしない」
二通目の葉書を夏樹に示した。
「ごらん、ナツキ。
『これからもずっと、ナツキを見守り続けます』そう書いてある。
あんたに宛てたものじゃない。直接あんたには伝えられなかったんだよ。でも親友という人にはちゃんとあんたへの思いを伝えてきたの。
そこには、何かわけがあるんだよ。直接あんたに伝えられない、だけど深い思いが。
あんたが行くより、あたしが行った方がいい。そのほうが、あんたがお母さんに会える可能性が高くなると思う。あんたがいきなり直接行ったりすれば、もしかすると彼女はまた姿を消してしまうかも。そうなってしまったら、今度こそ本当に二度と会えなくなっちゃうかもよ。
わかる?
あんたに会いたくないんじゃない。ホントは狂おしいぐらい、会いたいのよ。でも何か理由があって、会えないの。あたしは、それを探りに行こうと思うの」
少年はキッと前を向いた。電話で感じた通り、彼はずっと逞しく、男らしい面構えになっていた。その姿に、胸の奥がジン、となった。
「・・・わかった。ごめんね、ミクさん。・・・でもさ、ここまでしてもらって、オレ、ミクさんに何も・・・」
「何度も言ったでしょ、もう・・・」
美玖は微笑んだ。
「あんたが好きだからやってるんだって。もう二度と言わないこと。いいね、ナツキ」
「ミクさん・・・」
「出ようか」
ファミレスを出て、駐車場まで一緒に歩いた。美玖がタンクバッグを括りつけるのを夏樹は黙って見守った。
「ナツキ・・・」
美玖は夏樹を呼んだ。
「あんたのお父さんのケー番、くれないかな」
「え?」
「あたしのケー番もお父さんに伝えておいて。
たぶん、それが必要になってくると思うの。これからは公衆電話はいらない。直接かけてきていいし、あんたのに直接かける」
「・・・ミクさん」
夏樹は美玖の携帯電話のアドレス帳に番号を入力した。
「ありがと。・・・おいで、ナツキ」
懐かしい、美玖の匂い。美玖の柔らかな身体を抱きしめ、その感触をしっかり味わった。
「気持ちはわかる。けど、焦っちゃダメ。必ずお母さんを見つけるから。ガマンして待ってて」
駐車場を照らすライトの灯りに、美玖の美しい相貌がオレンジ色に浮かぶ。奈美のとも恵美とも違う、成熟した女のキスだった。そのしっとりとした柔らかな甘い唇は再び夏樹に生きる勇気をくれた。
「・・・わかった。ありがと、ミクさん」
「耐えるのよ。ガンバレ、ナツキ。・・・大好きだよ」




