24 再び、探偵ごっこ
翌朝、番号調べではまたしてもお届けがありませんだったので直接出向くことにした。住宅地図で場所を調べてCB750を乗り付けると、そこは平屋の棟がいくつか並んだ市営住宅の中の一軒だった。
サドルバッグからアルバムを取り出してインターホンを押した。音はならなかった。玄関の引き戸の汚れた摺りガラスにはひびが入り、赤いビニールテープで下手くそな補修がしてあった。中には何週間も何か月も前の黄ばんだ新聞紙や広告が挟まっているのが見えた。
もう一度押してみた。しかし、反応はなかった。引き戸に手をかけると、それはガタピシ、開いた。
「ごめん下さい」
それにも反応はなかった。やや声を励ましてもう一度呼ばわった。その隣の家の若い主婦が脱色した髪にヘアカーラーを巻いたままの姿で現れた。
「その家のおばあさん、耳が遠いから。縁側から呼ばないとわかんないよ」
その女の子供なのだろう、やはり脱色したような金髪の、まだ幼稚園に上がる前のような子供が追ってきて母親の脚にしがみついた。
「ありがとうございます」
勧めに従って、駐めてあるくすんだ白の軽自動車の横を通って庭に出た。ひしゃげた段ボール箱や空のペットボトル。雨が弾いた泥が跳ねた洗濯機のボディーの横に液体洗剤のボトルが転がり、潰れた子供の赤いボールが散乱する縁側。その、少し開いたサッシの隙間からもう一度、ごめんください、と呼ばわった。
「はあーい・・・」
酒灼けだろうか、しわがれた年寄りの女の声が返って来た。
「朝早くすみません。タダノと言いますが、こちらヒクマさんのお宅でしょうか」
「は?」
「あの、こちらにヒクマキョウコさんがいらっしゃると伺いまして」
隙間から散らかった部屋の中が見えた。
その少し肥えた老女は脚が悪いのか汚れた畳の上を擦るようにして窓際に出て来た。ツーンと饐えた匂いが鼻をついた。
「キョウコの知り合いの人かい?」
「人伝にキョウコさんを知りまして。キョウコさんにお伺いしたいことがあってお邪魔したんです。いらっしゃいますか」
老女はそのまま何も言わずに奥へ引っ込んだ。
さっき案内してくれた女が怪訝そうにこちらを伺っていた。ゴロゴロ動く薄汚れた小さな消防車に跨った小さな子供の遊び相手をしながら。スラムという言葉が浮かんだ。
「なに? あんた誰?」
先刻の老女よりは若い、五十を過ぎているかと思われるような中年の女性がサッシの隙間に立っていた。くたびれた青いジャージの上下を着て、毛玉のたくさんついた汚れた靴下を履いていた。
「タダノと言います。こちらにお住いのヒクマキョウコさんに・・・」
「あたし」
とてもあの叶というアルバムを貸してくれた女性と同い年とは思えない老け方だった。
美玖は覚悟を決めて口を開いた。
「ある方から伺ったのですが、ミナガワマサコさん、覚えておいでですか」
「ミナガワマサコー?」
「高校時代の同級生だったと伺ってます」
「はあ?」
「ここにアルバムがあります。これ、あなたですよね」
美玖が開いたアルバムの個所、卒業生の顔写真が並ぶ一点を、彼女はしばらく凝視していた。
「ああ。思い出した。・・・ふふ。あんたさ、こんなのどこから持ってきたの。こんな、・・・古い・・・」
マニキュアのはげかけた皴だらけの手で腹のあたりを掻きながら、ヒクマキョウコは飽くことなくアルバムに魅入り続けた。
「ミナガワマサコさんを探しているんです。七年ほど前にご実家に帰られたんですが、一年ほど前にまたどこかへ引っ越されたようなんです」
転居先は知っている。このヒクマという女がどの程度の情報を持っているのか知りたかったのだ。
「ああ。いたね。同じクラスだった。そう。ミナガワっていったっけ。あの子、帰って来てたんだ。ふ~ん」
「・・・お友達ではなかったんですか」
「友達ぃ? んなわけないでしょう。・・・あんた、タバコ喫う人? 持ってる?」
以前夏樹との旅で買ったものがまだジャンパーの中に入っていた。それをパッケージごと彼女に渡した。ヒクマは嬉しそうに受け取るとポケットのライターで火を点けた。
え、全部いいの? 悪いね。そう言って美味しそうに深く吸い込むと、煙と共に吐き出した。
「友達どころか、話もしたことないね」
「・・・お弁当ご一緒に食べたとか、じゃないんですか」
「弁当なんて・・・」
彼女は奥に居てTVを観ているらしい老いた母親に向かって煙を吐き出した。
「ねえあんた、あたしにいっぺんだって弁当なんか作ったことあったっけ。ないよね! ああ? ・・・ごめんね、そういうことなんだ。ああいう母親なの。昼はいっつも売店で買ったパン食ってたからさ、一人で、屋上でね」
彼女はアルバムを返してくれた。それを、閉じた。
「・・・そうですか。
あの、確認ですが、ミナガワさんとはお友達ではなかったんですね」
「なんの縁もなかったね」
「他に彼女と仲の良かった方はいましたか?」
「さあね。しょっちゅう学校フケてたから。あんなけったくそ悪い学校さあ・・・」
「そうですか・・・」
「他になんか用?」
「いいえ。お忙しい所、ありがとうございました」
「イヤミ?」
低い下卑た笑いだった。
「見ての通り、親の年金とナマポもらって生きてるご身分だよ。忙しいわけないでしょうが・・・。あんた、あの女と一緒だね」
「あの女?」
「こんな落ちぶれたのを、しつこく同窓会に来てとかさあ・・・。どうせみんなで笑いものにする気だろうに。誰もあたしなんかに会いたいなんて思ってないくせにね。あたしなんかにさあ・・・。ちょっと頭よくてピアノが上手いからって、偉そうに。上から目線でさあ・・・。
ま、あんたには関係ない話だったね」
あの女性。叶のことだ。
きっと高校時代から忌み嫌っていたのだろう。それにしても酷いねじれ方だ。この人に何があったのかは知らない。だが、人間とはこんなにまで捻じれて醜くなってしまうものなのか。
ヒクマは瞬く間に一本目を吸い終わり、吸殻を庭に投げ捨てると二本目に火を点けた。
「ま、でも、あんたのおかげで見たくもないアルバム見て久々にクソみたいな昔思い出したし。タバコも吸えたし・・・。どこの誰か知らないけど、ありがとね。そのアルバム、卒業生の誰かのでしょ。ソイツにも礼言っといて」
街の中を流れる川の堤防の上にバイクを止め、遥か北アルプスを眺めた。頂上にうっすらと冠雪しているのが見える。清らかな美しい山脈。さっきのヒクマという女性も、夏樹の母も、そしてあの叶という女性も、かつてはこの美しい景色を眺めながら学校に通ったことだろう。
叶は、ウソを吐いた。
何故だろう。なぜウソを吐いて自分を騙したのだろう。
美玖はしばし思考を巡らせた。
マンションのエントランスでの彼女との会話をもう一度思い出してみた。同窓会の万年幹事。会計事務所。隣町の、ホテルのバー・・・。そして・・・。
そう。さっきあのヒクマという女が教えてくれた。
両手をぐっと握り締めた。
切れていた糸が、またつながる予感がした。
マンションのエントランスで待っていると、彼女は帰って来た。
ソファーの美玖に気づくとハッと身体を固くしたが、やがて諦めたようにヒールを鳴らして傍に来た。
「アルバムをお返しにあがりました」
「・・・せっかくだからあがって。コーヒーでも飲んでいって」
広いリビング。南には街の灯りが、北側には陽の落ちかけた山々の腹にうっすらとリフトの鉄柱が連なっているのが見える。あとひと月ほどでスキーリゾートのシーズンが始まれば、夜にはライトアップされたゲレンデが見えるのだろう。
「いいところでしょ。バブルの時に作られたリゾートマンションだったらしいの。都会の金持ちの道楽用にね。それが弾けて再建機関の手に渡って、今じゃ入居者の半数がこの町の人になっちゃった」
仕事用の髪を解き部屋着に着かえた叶が穏やかにカップを置いた。香ばしいコーヒーの香りが漂う。向かいの一人掛けのソファーに座った彼女から、やっと生身の女の、生活の匂いが漂ってきた。この世で女独りが生きるためには数々の鎧をまとわねばならない。美玖も独りになってからはなんとなくそれがわかった。
「ごめんなさい。あなたを揶揄うつもりも、ばかにするつもりもなかったの。
もう、あの子に関わって欲しくなかったの」
彼女はカップを手に取り、両手で抱えた。
「アルバムの部活紹介のところ。コーラス部ってあるでしょ」
言われた通り、中ほどのページを開いた。文化部の下の段にその写真があった。
「ピアノの前にいるのがわたし」
体育館の舞台袖だろう。グランドピアノの前に整列した女子高生の一番端。ピアノに手をかけている彼女を見つけた。美玖と違っていかにも勉強のできそうな、才気の溢れる女の子。この女子高生の二十年後がすぐ目の前にいる。
しかし、整列した女子高生の中に夏樹の母はいなかった。
「マサコも一緒に写るはずだった。ホントはね。でもその写真を撮ったころにはもう、あの子はこの町から出て行ってしまっていたの」
つ、と席を立った彼女は壁際のアップライトピアノを開き、フェルトカバーを外した。椅子に座って目を閉じた。
夏樹が繰り返し聴いていたあの曲。ラフマニノフの交響曲第二番。第三楽章の郷愁を誘う優しく美しい旋律が流れ出した。
単に美しい音楽に対する感動だけではない、切れてしまった糸が完全に繋がった驚きと深い達成感が美玖を揺さぶった。あの夏樹との長いタンデム。あの瀬戸内海の島で見たこと聞いたこと。そして彼が飽くことなく聴いていたピアノ曲。それらが全てここで繋がった。あの旅はけっしてムダではなかった。
その調べが主題の後の転調に入って、止まった。
「あなたの目的は何? 昔世話になった。ただそれだけで、あの家の、ヒクマのおばあさんや、彼女と話したの? 汚くてイヤだったでしょう。よく相手出来たわね」
「もしかして、あれは嫌がらせだったんですか」
「あんな女と友達だった。それだけで、嫌になるでしょう。諦めて帰ってくれればよかったのに。でも・・・、ムダだったみたいね」
「・・・どうしてそこまで」
「さっきも言ったわ。もう、あの子に、マサコに関わって欲しくないの」
「何故ですか」
「あなた、どこまで知ってるの? そもそも、あなたとマサコの関係って、なんなの」
美玖は言った。
「マサコさんには中学二年生の息子さんがいます。
ナツキは七年前に突然いなくなった母親を探しています。彼は、あたしの友達なんです」
叶はじっと美玖を見つめていた。
「どうしても知りたいんです。夏樹のために、彼の母を探すために、どうしても、知っておかなければならないんです。夏樹の出生の秘密を」
彼女は、手のひらの上に顔を伏せた。




