02 美玖の出発
不動産屋は混んでいた。
べつにこの街で部屋を探すのでもない。ただ借りているガレージのカギを返すだけなのに。くだらないことで待たされるのも今日で最後だと思い我慢した。
「お待たせしました、長谷部様・・・」
やっと順番が来たが、三十秒で済む要件だ。
「お借りしていたカギを返しに来ました。それじゃ・・・」
「お待ちください、長谷部様」
「・・・なんでしょう」
「もうガレージの中には何も・・・」
「ええ。大方昨日のうちに業者が引き取りましたし、あとはあたしの私物でこの足で行って持って出ます。後には何も残ってませんよ」
「と、いうことは、今現在施錠されていないということで・・・」
こういうタイプを市役所や税務署で見たなあというような、粘着質の回りくどそうなタイプの男の営業に呼び止められた。
「そうなりますよね。でも、何も取られるものなんかないですから」
「・・・はい、ごもっともなんですが、カギをお返しになるということは、お部屋の管理権をお返しになるとうことで。施錠せずにお返しになるということは今この瞬間、あのガレージの管理権が空白になるということで、それについて・・・」
「一体何が言いたいの!」
店内がシーンと静まり返るほどの大声を上げていたのに気付き、ごめんなさい、と頭を下げた。
「ごめんなさい。あたしもう、この街を出ます。申し訳ないけど、あとはお願いできますか」
「・・・は、はい、・・・ありがとうございました・・・」
美玖の迫力にドギマギする男性社員が哀れだった。
もう一度礼を言い不動産屋を出た。
ガレージには大型の真っ赤なオートバイが一台残っていた。
CB750。
六年の結婚生活で手元に残ったのはこれだけだった。
昨日夫、もう元夫だったが、彼から連絡が来て、私物をガレージに運んでおいた。ガレージも今月中に解約するから早めに中のものを処分して欲しいと言われた。撤去したらカギを不動産屋へ返してと。元夫にとって、美玖の私物はすでに処分の対象でしかなくなっていたのを聞いて、感じるものがあった。
もちろん、何も言わなかった。夫とはあのホテルの一件の後、弁護士事務所で一度会っただけだった。息子の大樹は一緒ではなかった。このところもうずっと彼の実家で世話をしているということだった。あの日、大樹を幼稚園に送って行った直後に、夫と弁護士と彼の両親とが幼稚園へ行き、大樹を連れ出して三百キロも離れた彼の実家に連れて行ったのだそうだ。
全ての手続きが終わった後、弁護士事務所を後にするときに、
「今までありがとうございました。お元気で」と型どおりのあいさつはした。
だからだろう。不動産屋の手続きが済んだことを電話したときの彼は素っ気なかった。
「これで全部終わりね」
美玖がいうと、
「そのようだな。じゃ、これで」
それで電話は切れた。大樹のこれからのことやなんかを頼みたかったのだけれど、そんな心配は無用だし、君にはその資格はないだろ、と言われそうで、やめた。
六年の結婚生活の最後がその一言だった。
自分は自ら家族を捨てたのだ。もうなにも言うまい・・・。
あらかじめ頼んでおいた廃棄物業者が全てを持って行ってくれた。金を取られるだけだろうと思っていたら、私物の小物入れやアクセサリーや持っていた服の何着かがプレミアものだったらしく多少の値がついて、差し引きで千円ほど儲けが出た。処理業者が申し訳なさそうに差し出した千円札を受け取り、
「お手数かけました」と礼を言った。
打ちっぱなしの冷たいコンクリートの上で着ていたワンピースを脱ぎ、チェックのシャツを着た。靴とストッキングを脱ぎ裸足でジーンズに穿き替える。素足にコンクリートが冷たい。ソックスを着けて厚手の革のライディングブーツを履いた。ガレージの片隅に振り分け式のロングツーリングに使う分の厚い皮製のサドルバッグがあった。それを後ろのシートにかけ、バックルで留めた。ガソリンタンクの上に置く式のバッグを据え付けると、オートバイの他にはもう、何もなくなった。
街の出口のコンビニでとりあえずの水やパンやコーヒーやら卓上コンロのガスボンベやらを買い込み、脱いだものを入れた紙袋をごみ箱に捨てた。店員と目が合ったが無視した。もうこの街にも来ることもないだろう。
出口には東西にハイウェイが伸びていた。陽は頭の上にあった。道端に落ちていた木切れを拾い、真っすぐに立てて、指を離した。木切れはほぼ真北に倒れたがわずかに西を指しているように見えた。
これから西に向かうと太陽を追うことになる。オートバイに跨り、ヘルメットを被った。ジャンパーのポケットからサングラスを出して掛けた。そしてジーンズの尻のポケットに突っ込んでいた、廃品業者から貰った千円札を出して、しげしげと広げた。この後の旅には要らないものだ。宙にかざして指を離すと千円札はヒラヒラとどこかへ飛んで行った。
信号が青になって、ギアを一速にいれるとガコンという大きな音がした。アクセルをゆっくりと開きクラッチをつなぐ。左に、西に進路を取り、美玖は空冷4ストロークDOCH4バルブ、直列4気筒七十五馬力の赤い馬にムチをくれた。
皮肉なことに、夫とはオートバイが縁で知り合った。
大学を出て小さなデザイン事務所に入りたてだったころ、オートバイの雑誌を通じてあるツーリングサークルを知り仲間に入れてもらった。故郷からも大学からも遠く離れた街に一人で来て寂しかったのもある。車を運転していては絶対に得られない、景色、風、そして、自由・・・。その虜になってしまっていて、出来るなら大勢でワイワイ走りたかった。まだ若かったのもある。
最初は250CCに乗っていたが、
「一度乗ってみてごらん。世界変わるよ」
その先輩のハーレーダビッドソンにタンデムで乗せてもらった。
圧倒的な安定感と万能感、そしてそのエンジンの鼓動に、シビレた。
「な、いいだろう?」
何度かハーレーの後ろにタンデムして、そのまま教会へ、そして夫婦の新居へと向かって行った。
結婚して、息子の大樹が生まれても結婚生活という帆船の帆は満帆に風を孕んでいた。転機があったとすれば、美玖が限定解除の試験に受かり、750CCの大排気量のオートバイに乗るようになってからかもしれない。いや、もしかするとそれは直接の原因ではなかったかもしれない。しばらくすると夫が愛車のハーレーを手放した。その時からかもしれない。
「仕事が忙しくてさ、それに、もう卒業してもいいんじゃないか?」
そのワイルドさに惚れて一緒になったのに、夫は次第にこざっぱりと、一般の女性受けする男に変わっていった。
上ったハシゴを外されるとはこのことか。だが美玖は屋根から降りたかったわけではなかった。出来るならずっと登っていたかった。それほどまでに、大型バイクの魅力は美玖を惹きつけて已まなかった。タンデムの後ろに乗っていては味わえないような解放感と自由は何物にも代え難かった。
息子の世話があるからロングツーリングには出られなくとも、一日のうちのたった一時間、三十分でもバイクを駆った。夫が帰宅すると大樹の面倒を頼んで走りに出た。
きっとその時からだ。
満帆だった帆は次第に風を失ってたわみ、夫婦の間に少しずつ別の風、隙間風が吹き込み始めた。
仕事は続けていたが、育児休暇を貰っていた。忘れられると困るので、週に一度は大樹を連れて事務所に顔を出した。事務所は美玖の穴を何人かのフリーランスのデザイナーで埋めてくれていた。そのうちの一人を紹介された。
「いい男だろう? それにいい仕事をするんだ。旦那持ちには毒かな?」
事務所のボスが冗談めかしてそういうと、男はニヤと笑った。
一緒にお茶するだけ。ランチだけ。ちょっと遊ぶだけ・・・。
大樹が幼稚園に通い始めれば育児休業は終わるはずだった。預かり保育に大樹を預けて仕事に復帰し、しばらくは早めに上がって大樹を迎えに行く。そういう予定まで考えていた。でもなんだかんだ理由をつけて引き延ばした。それが、悪かった。
事務所には当然バレた。ウソを吐いて育児休業を引き延ばしていたこと。出入りのフリーランスと社会倫理上好ましくない関係をもっていたこと。美玖は事務所に居場所がなくなった。男の方はフリーランスだから、もしかすると今まで通りあの事務所と付き合っていくかもしれない。神経さえ図太ければ、そうするだろう。
大樹はまだ年中の年頃だ。今日はどうだった? 美玖のいない食卓で夫に訊かれることもあったろう。
ママと遊びたい。ママと一緒にいたい・・・。それなのに、ママはいつもいない・・・。
そんな年頃の息子がいながら情事にうつつを抜かす母親は失格だ。もしこれが他人事だったら美玖でもそう思う。まだ小さすぎる息子が母親の邪な行動を忖度してウソをついてくれるなどありえようはずもない。
大樹の栗色のやわらかな髪はいずれ年月が経ち、ゴワゴワした男の髪になってゆくのだろう。その移り変わりの間に、いろんなドラマがあることだろう。息子の傍で、そのドラマを助演する権利がたしかに美玖にはあった。が、それを自ら放棄してしまった。
だが、裁判所というところは、もしかするとネグレクトで子供を殺してしまいかねない、酒浸りで男に狂っているロクでもないような母親にも簡単に親権を与える。法律とはそういうものだ。夫の弁護士は特にそこを考慮して万全の対策を講じたのだろう。美玖には付け入るスキはまったくなかった。
そう・・・。
美玖は家族を捨てた。それは言い訳のしようのない、疑いのない事実だった。最初から捨てる目的で息子を産んだわけではなかったが、それでも、この世ではそうなってしまうのだ。
なんとなく幹線道路を外れ、山奥に向かった。
どこに行く宛もない。足の向くまま気の向くまま、気ままな一人旅だ。
都会の喧騒の中にだけは居たくなかった。その中で、人の倫に外れた自分を思い知らされるのだけは、もう止めて欲しかった。
いずれ一度は実家に帰り、事の顛末を説明しなければならないだろう。だが、今はまだ行きたくない。心の整理がついていなかった。携帯の電源もOFFのままだ。冬が近づいて、風が冷たくなったらいろいろ始めなくてはならなくなるだろうと思っていた。
とりあえず今日は、どこか終バスの終わった後の停留所でも見つけて、その屋根を借り、寝袋を出して潜り込もう。明日のことは、また明日、考えよう。