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18 Let`s roll! 美玖の場合


 美玖は二つのことを夏樹に言わなかった。


 一つはあの老農婦の言った、「兄妹同士で」という言葉。


 それを老農婦に問いただすのは憚られた。遠縁とはいえほとんど接触の無かった人が、そんな公序良俗に反した、人倫に悖る話を、しかもそのことで隣近所から後ろ指を指されるのを恐れている人が誠意をもって答えてくれるとは思えなかった。


 だが、そのことが原因で夏樹の母は兄との同居を拒まれ、あのアパートでしばらくの間一人で暮らした。実際にそういう行為があったか、そういう行為を疑われるかして。兄の自殺という恐ろしい事件は、恐らくそのことに関係しているのではないか。外聞を憚って自ら決済してしまったのではないか、と。


 仮に、もしそうだとするなら夏樹の父が母を追い出した原因も、夏樹の伯父が母を引き取ったという理由も、おぼろげながら見えてくる。彼に母が死んだと偽った父親にしても、幼い子供には母は死んだという方がわからせやすかったろうし、そもそも幼い子に説明不能だっただろうし、説明してはいけない。説明すべきでない。自分が不貞を犯して離婚されただけに、美玖はそんなイメージを掃うことができなかった。


 まだ、ただ一つの言葉しかない。確たる証拠の無い話だ。そんな不確かな情報と想像をそのまま夏樹に伝えることはできなかった。もしそんなことをすれば彼は混乱し心労し、どんな行動に走るか予測できない。


 そしてもう一つは、あの風俗情報誌のこと。


 あれが他の住人のものではなく、伯父のものではなかった場合、考えられる結論は一つだろう。夏樹の母は生活の糧を得るためにあの雑誌の情報を必要としていた。少なくとも、検討していた。表紙しか見なかったが、「九州」の文字が目に残っていた。


 その二つだけは夏樹には言えなかった。


 それを確かめるのは、夏樹という少年と関わりを持ち、愛し、契った女として、大人である自分の役目だと美玖は思った。


 だが、一つだけ心配なことがある。


 夏樹の父親だ。


 もし、全ての事実が美玖の想像通りだったら。


 夏樹の母と伯父が近親同士で関係をしていたら。それが夏樹の父との不和の原因だったとしたら。彼の父は今回の夏樹の非行を詰り、彼の母を追い出した真相を夏樹に暴露するかもしれない。


 そうだ・・・。もう一つある。


 彼の母と伯父の関係はいつからのことだったのか。


 もしかすると、夏樹の本当の父親は・・・。


 考えれば考えるほど、目の前が暗くなった。





 すこし若ハゲ気味の悪徳弁護士は仏頂面で美玖を睨みつけていた。


「これでも忙しいんですよ。法律相談なら、市役所で無料でできるじゃないですか」


「それだと何週間も待たなきゃならないし、弁護士の知り合いって、センセしかいないんだもん」


 追い返すよりも相手してやる方が手っ取り早いと思ったのだろう。彼は書類のファイルをデスクにトンと突いて溜息をついた。


「三十分だけ。無料でご相談に応じましょう。あくまで一般的な法律相談。そうですよね?」


 美玖はニンマリと笑い、例の請求書と山林を管轄する法務局に寄って閲覧した謄本の写しを取り出した。


「この話の登場人物は中学生の男の子。それと、彼の両親、母方の伯父、そして、父親の愛人です・・・」


 固有名詞を出さずに、要点のみをかいつまんで、美玖は話した。


 しばらくメモを取りながら美玖の話に耳を傾けていた悪徳弁護士は、広げたノートの上に鉛筆を置き、両手を組んだ。


「ご相談のポイントは、その男の子の虐待の問題。それに行方不明の母親と父親の婚姻関係。それから相続の問題、そういうことですね?」


 彼は卒なくもっとも単純な案件から順番に取り掛かった。


「まず、相続の件ですが、その男の子の亡くなった伯父という方にはご両親も配偶者もお子さんもいない、そうですね? 血縁関係は男の子の母親と甥にあたる男の子だけ、と。


 その場合、法定相続では100パーセント、故人の妹さんに当たる男の子の母親が相続します。もし仮に、その行方不明の母親が見つからなかったら家庭裁判所に不在者財産管理人の選任申し立てをします」


「誰が?」


「この場合はその男の子ですね。ただし未成年ですから父親がその代行をすることになりますね」


「父親には相続権はありませんよね」


「もちろん、ありません。ですが、親権のなかに財産管理権というものがありますからね。子供の法律関係の手続きを父親が代行するわけです。父親が親権者なんですよね。


 それに、仮に行方不明の妹さんが何年も見つからなかったり、あるいはお気の毒ですが亡くなっていたという場合も大体同じようなことになります」


「どんな風に?」


「まずその被相続人、この場合は男の子の伯父さんの妹さん、男の子のお母さんが亡くなっていた場合にはその男の子が代襲相続で100パーセント相続することになります」


「だいしゅうそうぞく?」


「お母さんに代わって相続するという意味です。


 ただし、その場合は男の子が未成年ですから、さきほどの親権のなかの財産管理権を行使して事実上父親が相続の全てを取り仕切ることになるかもしれませんね」


「じゃあ、虐待する親が子供の財産を横取りできるってこと?」


「落ち着いてください」


 ハゲの悪徳弁護士は言った。


「民法の規定で虐待親の親権を停止できる制度もあります。最長2年間ですが」


「たった2年か・・・」


「今14才だそうですね。ですから2年経ってもまだ16才。成人ではありませんのでこのケースではあまり意味がないかもしれませんね。それに虐待の事実を証明しなくてはいけません」


「大変ね・・・」


「それが法律ですから」


 と悪徳弁護士は言った。


「ですが、そういう場合はその男の子が特別代理人を立てることも出来ますけどね。弁護士に依頼するなどして。このケースですと、まず相続の前にその男の子の親権について整理してからの方がいいかもしれませんね・・・」


「この子の母親が相続の前に離婚しちゃえばいいのよね。その子の親権を取って」


「う~ん。でも、現在その男の子を養育しているのは父親なんですよね。難しいですね、親権を獲るのは。しかも今現在行方がわからないわけですし・・・」


 考えてみれば、美玖から大樹の親権を奪う手助けをしたのはこの悪徳弁護士なのだ。なんだかちょっと居住まいが悪かったが、あくまでもこれは美玖のケースとは全く違う、別件だ。


「要はね、この子と母親にちゃんと財産が行くようにしたいの。この父親ってのがとんでもないヤツなの。母親を追い出して愛人を家に連れ込んでるの。その愛人と二人でその子を虐待してるんだから」


「タダノさんがそんなに不倫関係に峻厳な方だとは存じませんでした」


 ハゲの悪徳弁護士はニヤ、と笑った。イヤミか、この野郎! 絞め殺してやろうかと思った。


「あたしはこの男の子と母親が幸せに暮らせるようにしたいだけなの! ゲスの勘ぐりはやめて」


「そうですか。・・・ご相談は以上ですか?」


「ちなみにこの土地っていくらぐらいの価値のものなの?」


 やっぱり、狙いはそこか・・・。弁護士はビンゴ!、とでも言いたげな笑みを美玖に向けた。


「誤解しないでよ。横取りしようって言うんじゃないんだから」


「別に、何も申し上げてませんよ」


 ハゲは眼鏡を少し上げて冷たく言い放った。


「実勢価格は正確にはわかりませんが、この税額から推測しますと、そうですね・・・。総額で四五百万ってとこじゃないですか。それでも多いぐらいかな。」


「そんなに安いんだ・・・。結構広そうだったのにな」


「山ですよね。林業の盛んだった昔なら知りませんが、特に木材に関係する仕事じゃないなら、今は持ってるだけで損ですよ。現物納付する人も多いですしね。固定資産税は地方税ですが、国税である所得税が払えなくなって現物納付して国有林になっている山は多いですよ。この総額なら争うこともないような気がしますね。代理人立てたり訴訟を起こしたりする費用で赤字になりそうですし・・・」





 弁護士の事務所を辞して、美玖は思った。


 物は考えようだ、と。


 あの悪徳弁護士が言ったことが事実なら、夏樹の父親は相続の問題に固執しないだろう。


 それなら美玖も少し安心できる。まだ中学生なのに、実の父親と相続争いせねばならないなんて、と思っていたからだ。


 だがこれで一段落は終えた。夏樹のことはひとまず置いて、美玖はやっと自分の人生に向き合うことにした。





 想像した通り、実家の敷居は跨がせてもらえた。


 しかし、その向こうは針のむしろどころではなく、ピラニアの生け簀だった。


「恥ずかしい!」


「ご近所になって言えばいいの!」


「お前の兄であることがこんなに後ろめたいことになるとは・・・」


「これで孫にも会えなくなってしまった・・・。この親不孝者がっ!・・・」


 およそ考えられうるありとあらゆる罵詈雑言を、夏樹との楽しい旅を脳裏に描いて耐えた。


 思えば、中学高校のころからこの人たちはこんな感じだった。


 何かにつけて兄と比べられた。


「お兄ちゃんはもっとできた」


「お兄ちゃんはなんにも困らせなかったのに、お前は問題ばかり起こす」


 お兄ちゃんは、お兄ちゃんだったら、お兄ちゃんに比べて・・・。


 何かにつけて兄と比較をしないと娘の状況や成否や善悪が判断できなかったらしい。美玖がどう思うかではなく、世間的に見て、兄と比較してどうであるか。いつもそんな風にしか評価されなかった。出来のいい兄は世間に誇れるが出来の悪い娘のことは隠そうとした。


 当然、与えられるものも全部兄と比較して粗末なものだった。学校の用具、笛とか書写用の筆とかのお下がりだけならまだ許せる。おもちゃ、ランドセル、服まで。女なのに、この仕打ちはキツかった。そのたびに抗議はしたがききれられるはずもなく、それでも家族に愛されたかったからガマンをした。


 そんななかで高校生で夏樹と出会い、恋をして、オートバイを知った。


 初めて自分を認めてくれる存在。自分が自分でいられる相棒をみつけた。


 免許を取ることと中古のオートバイだけは必死に強請った。足りない分はバイトして稼いだ。当然反対された。女だてらに、オートバイだなんて、と。


「だったらいい。身体を売ってでも稼いで買う」


 当然父親に殴られたがそれでも怯まなかった。ご飯も食べずに強情を張った結果、三日目に許してくれた。娘に栄養失調になられたり「エンコー」されたりすれば世間的にマズいと思ったのだろう。それよりは我儘を通させた方がいい。どうせ「中古」だし・・・。


 美玖のことを考えてのことではない。あくまでも世間体。散々そういう仕打ちを受けて来た。


 その自分を、唯一認めて必要としてくれていた高校時代の一番目の夏樹。


 その彼を、美玖は自ら裏切ってしまった。つくづく、バカなことをしたと思う。それが無ければ、この両親や兄たちとの関係も、今ほどひどいものではなかったはずだ。


 そんな流れが今も続いていた。


「わかりました」


 と、美玖は言った。


「住民票の移転先がここになってるの。部屋が見つかるまでは置いてくれる? 部屋が見つかり次第すぐ出ていくから。


 それとね、親子の縁、兄弟の縁を切りたいって言うなら、それでもいい。


 でもね、もしそうなったら、そこから先はもう、あたしが何やってもあなたたちにはもう何の関係もないってことでいいよね! あたしがどういうことになろうと、あんたたちには一切関わりないって・・・」


 一方的に散々にこれでもかと言われまくったあと、満を持してそんな感じに吐き捨てたら、みんな黙ってしまった。疲れてもいたので、そのままかつての自分の部屋、今では物置になってしまった自分の部屋に潜り込み、シュラフにくるまって寝た。山の中も実家も、大して変わらない過ごし方に少し、笑えた。


 もしかすると、二番目の夏樹という名の少年が気になるのは同じ匂いを持っているからなのかな・・・。家族に疎外され、虐げられたものだけが持つ、匂い。そんなことを思ったりもした。





 新しい部屋は次の日に決めた。


 敷金礼金無し。その日から住めるというので、その日当たりの悪すぎるワンルームに決めた。どうせ昼間はいない。それにオートバイのガレージもちゃんとセキュリティーしてくれるのも気に入った。


 次の日には居心地の悪い実家を出てそこへ移った。最後になるかもしれないから両親にはちゃんと頭を下げた。


「お世話になりました。またいつ会えるかわかんないけど、お兄ちゃんがいるからいいよね。・・・元気でね」


 意外にもすぐに出ていく娘にホッとしたような顔をしている両親に思うところもあったし言いたいこともあったが、昔からこういう人たちだからと止めておいた。


 ほとんど身一つで移ってくると、何もない部屋になぜか落ち着いた気持ちになり絨毯の上に大の字になった。最低限、ベッドと言わない、マットレスに小さな座卓と冷蔵庫。それにパソコンがあればいいかな。食器などはキャンプ用のがあるから、しばらくはそれで足りる。


 ただし、仕事の方は上手く見つからなかった。


 まずハローワークに離職票を提出し求職手続きをした。そうしておいてとりあえずかつての知り合いを通じて同業他社を当たってみた。


 一口にデザインの仕事と言っても色々だ。美玖の場合は専門学校を卒業してチラシやPOPなどを作る小さな事務所で会社のマッキントッシュを使っていたレベルだったので人脈もさほどあるわけでもなく、売りと言えばパソコンでの作画が多少できる程度。そんな程度の人間は掃いて捨てるほどいる。


 徒労感に襲われながら、部屋でパソコンに向かい、かつての同業他社に頭を下げてもらってきた日銭稼ぎのPOP広告を描いていると虚しさが忍び寄って来る。


「悪いけどウチは美大出てる子が三人もいるんだよね」


「一件ごとの契約ならいいよ。パソコン貸してあげるから」


 とりあえず単発で三件ほどの仕事は貰った。しかし、その先は不透明だ。出来れば正社員として働きたい。自分のスキルが無さ過ぎ、ポテンシャルが低すぎるのに泣きそうになる。


 最後の恩情だったのか、息子を取り上げた負い目があったのか、元夫は財産分与無しで済ませてくれたから自分が稼いだ分の貯金は残った。が、それも無職のままではいずれ底をつく。年は越せそうだが、かなりの緊縮生活を強いられそうだ。


 ああ。


 夏樹とタンデムした日々が恋しい。少年との日々が愛しい。


 彼はどうしているだろうか。元気にやっているだろうか。父と継母との関係にうまく耐えられているのだろうか。気がつくと携帯電話の着信をチェックしていた。


 本来なら旅先の行き連りの少年よりも実の息子を思わねばならないのに・・・。


 こういう女だから倫を踏み外したりしたのだな・・・。


 ふと思い立ってパソコンに戻り検索エンジンで「九州 風俗」と入力してみた。たったそれだけで、数えきれないほどのサイトが出て来た。


 風俗といっても色々あるのを知った。ツーリング仲間の男たちと接触があったおかげで、いわゆる男性向きのそうした店のことは知識としては聞いていた。しかし、ひとつひとつクリックして出てくるそれらは実に様々な種類がある。ソープランドからはじまり、キャバクラ、おさわりをさせるパブ。ファッションヘルスという名の口と手で男性にサービスする店。ホテルの部屋や男性の部屋に出張して同じことをする派遣型の店・・・。


 店によっては嬢の顔半分を掲載しているのもあった。美玖よりもはるかに若い子がほとんどだったが、中には所謂『熟女』好き向きのもあり、明らかに美玖よりも年上と思われる女性たちの写真も載っていた。これならもし勤めていれば見つかるかも。


 そこでハタと、肝心のことに気づいた。


 美玖はまだ夏樹の母親の顔を知らなかった。彼は写真を持っていなかったのだ。彼にこのサイトたちを検索させれば一番手っ取り早いのだが、そんなことは絶対にさせられない。


「お前の母親は風俗で働いているかもしれない」


 そんなこと、言えるわけがない。なんとか写真だけは貰えないかな。そうすれば・・・。


 夏樹は今、どうしているだろうか。


 ふと思い出してサービスが開始されたばかりの動画配信サイトを開き「ラフマニノフ」と入力してみた。ピアノ版はなかったが、夏樹が聴いていた交響曲第二番の第三楽章がズラリと出て来た。イヤホンを着けてそのうちの一つをクリックしてみた。


 ヴァイオリンの美しい、懐かしい調べが流れ始めた。


 しばし目を閉じ、その日までの些末なことどもを美しい音で全部洗い流した。




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