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17 またお会いできてうれしいですと言いたい


 朝になった。最後の朝だ。


 夏樹の家まで、二時間も走れば着いてしまう。


 この先どうなるかはわからない。だが、二人とも、ひとまずはこの旅を終えねばならない。


 美玖との名残は尽きなかった。いつまでもその柔らかな身体を抱いていたかったし、その匂いに包まれていたかった。だが、終わらせなければ。前に進むために。


 ようやく夏樹も納得した。


 テントを出る前に深いキスをした。


 シュラフを広げてロープにかけて乾かし、コーヒーを沸かし、パンを齧り、スクランブルエッグをフライパンから直接分け合って食べた。


 後片付けをしてテントを畳み、荷造りを終えて、もう一度キスをした。


「行こうか・・・」


「・・・うん」


 CB750に跨り、二人はこの旅の最後のタンデムに入った。





 美玖のいい匂いのする柔らかな腰につかまりながら、夏樹はもう一度おさらいをした。


 伯父の家に行ったこと。住民票の閲覧をして母が生きていることと、伯父と母が瀬戸内海の島に転居したことを知った。その島で、伯父はすでに亡くなり、現在は母も転出届を出さないまま行方不明になっていること。


 夏樹が父に話す事実はこの三点だけにする。


 美玖との出会い。そして現在も名義上伯父の所有になっている山林については言わない。それについては美玖が法務局で登記の閲覧をし、その相続と夏樹の保護について弁護士に相談する。それが終わるまでは絶対に黙っておく。


 もし、父が強引に伯父の財産の調査を進め、それをわが手にしようとするなら、すぐに美玖に電話する。その上でしかるべきところに父の所業を告発する。実の母と婚姻関係にありながらこれを別居し、子供には死んだと言い、内縁の妻を家に住まわせていること。


 そして夏樹は正式に児童相談所に保護を申し立てる。それが通るか通らないかは別として、アクションを起こすと。


「相続に邪魔だからという理由で、父に殺されるかもしれない」


 そう訴えるぞ、と。





 夏樹の住む街に入った。


 この居心地の悪いサドルバッグの上ともお別れだ。そう思うといまさらのように愛着がわいてくる。それももう、終わる。夏樹は美玖の肩を叩いた。


 赤いオートバイが住宅地の路側帯に寄る。そして止まった。


 夏樹はオートバイを降りた。ヘルメットを、取った。美玖のキャメルのグラブがその乱れた髪を直した。


「さ。もう行きな。ドアの中に入るまで、見てる」


「いいよ。行ってよ」


 美玖は首を振った。


「ちゃんと帰るから」


 そう言ってヘルメットを美玖に返した。


「必ず電話するのよ」


「うん。・・・ミクさん!」


「・・・うん」


「・・・ありがと。大好きだよ」





 そう言って、夏樹は歩いていった。


 彼の姿が指先ほどになった。ある家のエントランスを登り、玄関ドアの前でインターフォンを押す彼を見守った。


 ドアが開くのを待つ間、彼は真っすぐにドアを見ていた。長い時間に思えたが、実際には三十秒もなかったと思う。ドアが開いて若作りした中年の女が出て来た。彼の姿がドアの中に吸い込まれた。ドアが閉まった。


 がんばれ、夏樹!


 夏樹の青いヘルメットをサイドに留め、美玖はオートバイをスタートさせた。


 通り過ぎざま、チラと家を見上げた。窓に彼の姿はなかった。


 そうして美玖は、あの山荘のある町を目指した。





 思ったほど、継母は傲慢ではなかった。


 心配して憔悴したような感じはなかったが、少なくとも怒ってはいなかった。終始バツの悪そうな顔をしてキッチンとリビングの間を行ったり来たりして、オロオロしていた。自分のしたことを悔いている、というよりは、問題が大きくなることを恐れているように、夏樹には見えた。


「用がないなら、部屋に行っていいですか」


「今、お父さんに電話したから。すぐ戻るって言ってたわ・・・」


「そうですか。ハラが減ったんですが、お昼は頂けますか?」


 ほぼ一週間ぶりに自分の部屋に入った。


 一見して部屋を出る前と同じに見えるが、ビミョーに違和感を感じた。


 例えば机の引き出し。例えばクローゼットのドアの開き具合。例えば椅子の傾き。例えば本棚の、埃の積もり具合・・・。


 出ていく前にビミョーに引き出しを開け、クローゼットのドアにビミョーにスキマを作り、椅子は真横に、本棚の埃を壊さないようにしていった。その情景をしっかり記憶してから行ったのだ。彼らが家探しをするだろうと思ったから。果たして、全てがピッタリと閉じられ、埃はきれいに掃除されていた。彼らは夏樹の予想の通りに行動してくれたわけだ。何処へ行ったのか、手がかりを掴もうとはしたのだろうな。


 クローゼットを開き、下着を取り出した。いつもは空っぽの引き出しにはリュックに入れて持って行ったもの以外の下着や洋服がきちんと畳まれて収められていた。こんなことは今まで、なかった。


 リュックから汚れ物を取り出してバスルームに行った。汚れ物と着ているものを全部洗濯機に突っ込み、セットしてシャワーを浴びた。


 夏樹に来客がある時は頼みもしないのに飲み物なんかを持って来るくせに、普段は服の洗濯もしてくれないのだ。だからいつも自分で回していた。外見と外面にだけは気を遣う、浅はかな女だ。美玖とは大違いだ。


「あんたの勝手にいじると叱られると思って・・・」


 この女は一事が万事、そんななのだ。


 今も夏樹のシャワー中に部屋に行ってリュックをあら捜ししているのだろう。


 でも、残念だったね。大事な書類は美玖に預けて来た。持ってきたのは住民票の写しだけだ。母が今も生きている証拠を目にしてどんな顔をするのか楽しみだ。


 ゆっくりとシャワーを浴びて、ジャージのズボンとTシャツでリビングに戻ると美味そうな匂いがしていた。ミートソースのスパゲッティーがダイニングのテーブルの上に用意されていた。どうせ、レトルトのだろう。


「急だったからそんなものしかなくて・・・」


「食っていいですか」


「どうぞ・・・」


「じゃ、いただきます」


 継母は夏樹がそれを盛大に音を立てて啜るのをオドオドしながら見ている。


「あの、もし出来たら洗濯機の中のヤツ干してくれると助かるんですが・・・」


「あ、・・・そうだわね。気が付かなくて、ごめんなさい」


 バカに従順だな。きっと父から目を離すなとでも言われているのだろう。いろいろやりやすくなって結構だと夏樹は思った。


 夏樹がそのレトルトの不味いスパゲッティーを平らげかけたとき、玄関先に車の止まる音がした。いよいよ正念場だ。ここが肝心だぞ。自分に言いきかせた。


「ナツキ!」


 ドスドスとダイニングに駆け込んできた父はテーブルの脇に仁王立ちになっている。昂奮していた。息が上がっている。まだ四十代の前半だから、体力でも敵わないだろう。威圧感がハンパなかったがこれは予測の内だ。そもそも、父とやりあうつもりなどさらさらない。


「・・・ナツキ!」


「・・・どうも」


 殴られることもあるだろうとは予想していた。わざと軽めに流してやった。


「どういうつもりだっ。今までどこに行っていた!」


「まあ、結果的に家出になるのかもしれませんが、お母さんを探しに行ってました。ある程度のことがわかったので、帰りました」


「ある程度のことってなんだ」


「知ってるんじゃないんですか?」


「質問に答えろ!」


「むやみにそういう威圧感を与えて恐怖を植え付けようとするのは虐待になりますよ」


「なにをっ!・・・」


 夏樹はスパゲッティーを最後まで平らげて麦茶を飲んだ。


「あなたはオレに嘘をついていた。お母さんは死んだと。七年にもわたって、ウソを吐き続けていた。あなたとお母さんはまだ夫婦です。それなのにお母さんを追い出して別の女を家に入れた。それがジジツですよね」


「子供がわかったような口を利くな」


「ジジツですよね」


 もう一度ハッキリと繰り返した。


「最初の質問に答えろ。今までどこに行ってたんだ」


「まあ、座ってください。落ち着いて話しましょう」


「どこに行っていたんだっ!」


「おばさん」


 継母はシンクの脇に黙って立っていたが急に呼びかけられて驚いたようだ。


「は、ハイっ!」


「御代わり貰えますか」


「・・・父親を無視するのか」


 父はスーツのジャケットを脱いでやっと真正面に座った。顔色が黒い。どす黒い。ここで負けてはいけない。美玖の裸の胸と美玖の中の素晴らしい気持ちよさを思い出し、落ち着きを維持した。


「あなただって無視してきましたよね、オレを。


 長い間、ずっと、無視し続けてきましたよね。もちろん、毎朝毎晩、一人でメシ作って食ってたことを言ってるんじゃありません。この人と何泊もデートを重ねて家に戻らなかったことも、いまさら何も言う気ありませんし、気にしてません。もう過ぎたことですからね」


 じゃあなにを・・・。そう言いかけた父を制して、夏樹は言った。


「お母さんの命日は? お墓はどこなの?


 何度も聞きましたよ。それなのに、あなたはオレを無視し続けた。子供だからって軽く見てたんですよね。いつからか面倒になって質問しなくなりましたけど。


 質問に質問を返して申し訳ないですが、もう一度訊きます。


 お母さんの命日はいつですか? お墓はどこにあるんですか?」


 麦茶のコップをトンと置いた。


「お母さんは生きています。死んでません」


 父はやっと夏樹を睨むのをやめた。テーブルの上に顔を落とした。


 これでいい。夏樹は立ち上がった。


「これから学校に行きます」


「今日は日曜日だ」


「部活はやってます。担任のキムラ先生も、顧問だから学校にいます。無断で欠席したことを謝罪してきます。送ってください」


「・・・その必要はない」


「何故ですか。一人で行ってもいいですが、どうせ保護者はどうしたと訊かれますよ」


「病欠にしてある。明日学校に行って、届けを書けばいい」


「・・・そうですか。体面ですか。家出したといえば、恥ずかしいですからね。ということは、捜索願も出していないんですね。オレの心配よりも、世間や会社の中での体面の方が大事だったってことですね」


「・・・そのへんで止めておけ」


「反論できないからですか」


「何も知らん小僧が生意気を言うな!」


 父が立ち上がって腕を振りかざした。振りかざした腕のやり場に困っているようだった。


 夏樹は正面から彼を睨み据えた。


「・・・殴りますか。殴って解決すると思っているんですか。そう思うなら、いいですよ。どうぞ、殴ってください」


 全然かまわなかった。きっと美玖のビンタより痛いものじゃないだろうと思っていた。あのビンタほど痛いものはないと思った。頬ではなく、心が痛かった。その痛さを知ったから、父の鉄拳など怖くはなかった。心のこもらない暴力は単なる暴力に過ぎない。


 美玖が、そう教えてくれたのだ。単なる暴力に屈するわけにはいかない。


 父は、手を下ろした。


 夏樹は席を立った。


「おばさん。御代わりはもういいです。奈美の家に行って来ます。あなたが行ったせいで心配かけたようですから。奈美のおばさんとおじさんにお詫びしてきます。それと・・・」


 父が顔を上げた。やって来た時の土気色の顔が少し蒼ざめていた。継母は終始うつむいたままだった。


「・・・なんだ」


 と、父が問いかけた。


「オレにケータイ持たせてください。その方がいいでしょう。


 今回、結局オレはお母さんには会えませんでした。でも、首に縄付けられるか、家に監禁されるかされないんだったら、オレはまたいつかお母さんを探しに行きます。どんなことをしてでも。


 そうなったら、まったく連絡取れない。どこにいるのかもわからない。そうなるよりも、持たせる方がいいんじゃないですか? 体面的に」


 ゆっくり階段を上がって自分の部屋に戻り、ドアを閉めた。


 ふうーっと力が抜け、ドアに凭れてへたり込んだ。


「ミクさん。オレ、やったよ・・・。勝ったよ」

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