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16 エキドナの夜


 器用な子だ。


 美玖にはまったく仕組みが理解できなかったが、夏樹は自分のCDプレーヤーをそのラブホテル備え付けのオーディオシステムに繋いで聴けるようにしてしまった。


「あとからちゃんと元通りにできるのよね」


「・・・大丈夫」


「ならいいけど・・・」


 壁と天井のスピーカーからあの美しいラフマニノフのピアノの旋律が流れ出すと、夏樹は壁に背を凭れて膝を抱えた。


 なんと言葉を掛ければいいのかわからない。


 そっとしておいてやろう。とりあえずは、美玖にはそれしかできなかった。


 絶対に事故は起こさない。それには夜の走行は極力避けた方がいい。ましてや夜のタンデムは危険だ。しかも夏樹はまだ未成年で・・・。


 陽が落ちてからでは開いている宿も見つからなかった。そこでやむなく入った宿泊施設だったが、傍から見れば「未成年の少年をラブホテルに連れ込んだ女」になってしまうのだろうな・・・。


 男女混合のツーリング仲間とワイワイやっていたころにはそんなものはごく普通のことだった。あらかじめ宿を予約もしていない、行き当たりばったりの旅ばかりだった。行った先に適当な宿泊先がなければしばしば数人で一室のラブホテルを利用した。もちろんセックスなどしない。そのまま酔いつぶれるまで飲んで雑魚寝。そして朝シャワーを浴びて出発。そんな旅が、楽しかった。


 美玖にはそういう感覚だったが、夏樹にはショックだったのか。


 いや。それは違う。そんなことじゃない。


 彼の落ち込みはもちろんこの部屋についてのことではない。むしろ昨日までの夏樹なら「ラブホテルに泊まる」と言っただけで鼻の穴を膨らませて昂奮したはずだ。


 バッグから書類を出してテーブルの上に広げた。


 その書類が、はるばる数百キロをかけて美玖と夏樹が手にした唯一の成果だった。


 これがあの悪徳弁護士の言っていた固定資産税の請求書だ。実家を出て結婚してから賃貸住まいだった美玖はその請求書の綴りを初めて見た。


 名義は皆川洋介。夏樹の伯父の名前だ。税金の請求書がこうして来ている、ということは、名義上まだ山林の所有者は故人ではあるが伯父であるということだ。相続の問題が宙に浮いていた。





 あの親戚の農家を辞してから教えられたアパートにも行ってみた。


 木造の、元々はピンクだったと思われる色褪せたモルタルの壁にはいくつものひびが入っていた。二階建て六世帯ほどの半数が入居しているように見えた。鉄製の階段の下、一階の真ん中が母親が住んでいた部屋らしかった。ドアの隣には埃が雨の飛沫を浴びて斑点模様になった洗濯機が放置されていた。


 ドアの郵便受けには数十枚のチラシが突っ込まれて飛び出し、今にも吐き出されてきそうなほどだった。もちろんドアは施錠されていた。風を受けてピラピラするチラシたちを引き抜き、蓋から中を覗いてみた。暗くてわからなかったが黴臭い匂いが漂い出て来た。


「切れちゃったね、糸が・・・」


 美玖の言葉にも反応せず、夏樹はただ茫然と立っていた。


 ふとドアの脇に紙ひもで縛った雑誌が積まれているのが眼に留まった。引っ越しの時に処分し忘れて残ったものだろうか。彼の母がどんなものを読んでいたのか、気になったからしゃがみこんで見た。雑誌の束は、美玖が手に取ろうとしたとたんに紐が切れてばらけた。数か月の間風雨にさらされたからだろう。埃だらけの古雑誌を上からパラパラとめくると、女性の一人暮らしなら本来ありえないものが出て来た。


 風俗情報誌だ。


「?」


 このアパートの住人が空き部屋の前に勝手に置いて行ったのか。それとも夏樹の母の兄という人物の趣味か。いや、もしかすると・・・。


 美玖はすぐに雑誌を元に戻した。





 あの雑誌は夏樹には美玖の背中越しで見られてはいないはずだ。それにあの老農婦の言葉も。夏樹の耳には入らなかったはずだ。


 美玖は言った。


「もう一度、あの山荘のあった町の法務局に行ってみよう。この請求書の持ち主を確認して、あとはプロに頼もう。法律のね。ナツキ、聞いてる?」


 反応はなかった。相変わらず膝を抱えて空中の一点を見つめたまま身じろぎもしなかった。


 それまで優しかった、優しそうに見えた人が急に豹変し鬼になる。親し気に話しかけられて気を許していたら財布を盗むスリ。職務とはいえ家出人の彼を優しそうな声音でしつこく尋問し、交番へ連れ去ろうとする警官。


 美玖だけが彼の保護者で、このままずっとオートバイの旅を続けていきたかったのかもしれない。だから、旅を終わらせたくなくて一度は行くのをためらった。それでも、勇気を奮って会いに行った。


 それなのに・・・・


 美玖には彼の気持ちがよくわかった。


「あんたはもう、家に戻りなさい。そしてここまでのことをお父さんに話をして、あとはお父さんに任せなさい。あのアパートのことだって、まだお母さんと夫婦のままならお父さんに後始末をする義務がある。あの農家のお宅にもそれ相応のお詫びをしなくちゃいけないしね・・・」


「・・・いやだ」


「あんたはよくやったよ。でもね、今のあんたにこれ以上お母さんを探す力はない。事態を解決する力もない。無理なの、もう・・・」


「絶対、いやだ!」


 席を立ち、彼のそばに座った。彼の手を取り、その骨ばった少年の身体を抱きしめた。これから青年になろうとしている少年の、涙の混じった汗の匂いを嗅いだ。


「・・・大丈夫。あんたならできる。正々堂々、お父さんに立ち向かいなさい。オレは知ってるぞ、って。あんたのしてることは、間違ってるって。それでもお父さんが不埒を言うなら、その時は連絡してきなさい。一緒にお母さんを探そう。そういう順番が必要なんだよ」


「嘘だ。もう、どうしようもなくなったから、逃げる気だろう。怖くなったんだ」


 美玖は思いきり夏樹の頬を張った。


 驚いたように頬を抑え見つめてくる夏樹に、美玖は言った。


「前に一度別れたよね。あんたはあたしに嘘ついて家に帰らなかった。勝手にまた出てきて、財布掏られて、困ってあたしを呼び出して・・・。それでもあたしは来たよ。逃げる気ならいつでも逃げられたし、そもそもあんたのことなんて放って置いた。こうなるかもしれないって、見つけ出すことは難しいだろうってことも予想してた。それでも、来た。


 あんたを放って置けなかったから。だからここにいる。


 ナツキ。あんたが好きだから。好きになっちゃったからなんだよ」


 彼の頬を包んだ。


「痛かったでしょ。大人の男はそんなこと言わない。あんたはまだ子供だから。だから打たれたんだよ。あんたのお母さんの代わりに打ってあげたんだよ。


 大人になりなさい、夏樹。あんたが本当にお母さんを探したければ。


 お母さんに、会いたければ」


 美玖は彼の頬に唇を寄せた。そして、キスした。そして、シャツ越しに彼の胸を抑えた。


「男はね、いつでも、どんなに苦しい時でも、ここに熱いものを持って生きなきゃダメ。そうでないと女にモテないよ。お母さんだって探せない。あんたのお母さんなんだから、あんたが自分でケリをつけなさい。わかる? ナツキ。


 大人になりたい? お父さんと戦う勇気が欲しい?」


 今触れた美玖の唇。その感触。少しタバコの香りがした。大人の香りだ。


 夏樹は、それがもっと欲しいと思った。だから、自分から彼女の唇を求めた。


 奈美がしていたように、奈美にしてやったように、大人のキスをしたかった。ガツガツと彼女の唇を吸い、彼女の唇を舐った。


 美玖は夏樹の稚拙なキスに優しく応えてくれた。


 奈美とのとは比べ物にならない、本当の、大人の官能を揺さぶるような、キス。


 美玖は夏樹の中に熱いものを植え付けたのを見届け、名残惜しそうにゆっくりと唇を離していった。


「ナツキ。あんたを本当の男にしてあげる。服、脱ぎなさい」


 どうしてこんなことをしているのか。それは美玖にもよくわからなかった。


 夏樹のためなのか、自分のため、自分の欲望がそれを求めていたからか。


 だが、あの浮気の時とは全く違う。快感を貪るだけだったあの時とは違う。


 美玖は夏樹の母をしてやりたかった。夏樹には母をしてやる必要があるからだ。だけど二人は赤の他人の男と女で、男は新しく母を迎えるには成長しすぎていて、母なしに戦うには幼すぎた。女は少年の母になるには若すぎ、それなしに力を与えるには歳を取り過ぎていた。何よりも女は、男が求めているものを、知っていた。


 夏樹が愛しい。愛し過ぎた。きっと、そのせいだ。


 夏樹は服を脱いだ。素裸で立った。美玖も、少年の目の前で服を脱いだ。彼の身体に添い、肌を合わせた。美玖の深いキスを受けながら、夏樹は大量の樹液を美玖の中に注ぎ込んだ。あまりの深い快感に、しばらく動けず、そのまま何度か間欠と痙攣を繰り返した。


 一瞬だけれど、奇妙なイメージに襲われた。


 学校の図書館で読んだギリシャ神話に出てくる神様だか怪物だかの姿だった。


 エキドナは上半身が美しい豊満な女性で下半身が蛇。何人もの怪物と契り、わが子のオルトロスという怪物とも契った。


 何故そんなイメージを思い出したのか、夏樹にもよくわからなかった。





 あれは、たまらなかった・・・。


 夏樹は美玖とひとつになった。何度も美玖の名前を呼び、大好きだ、と言った。


 その感触をリフレインして浸りきっていると、美玖に怒鳴られた。


「ナツキっ! 何回思い出せば気が済むの! ちゃんとつかまってないと危ないって言ったじゃんっ!」


 二人は再びタンデムで東に向かっていた。


 途中大きな街により美玖のシュラフと繋ぎ合わせることができるヤツを一つと小さなテントを買った。荷物を夏樹に持たせた美玖は、


「今晩またしよ。だからそれまではマジメに大人しく掴まってなさい」


 途中何度も寄り道した。その度にたくさん写真を撮った。その土地の旨いものを食べながらゆっくりと走りまた停まっては食べた。ずっと運転している美玖の肩も揉んでやった。美玖の嬉しそうな顔を見て、夏樹も喜んだ。


 ホテルには泊まらなかった。姫路を過ぎると神戸や大阪を迂回する道をとった。三時を過ぎると手近なスーパーやコンビニに入り食料を調達して山の中に入り名もない川のそばに野営した。


 テントを張り、焚火を起こして山の間に見える満天の星空の下でインスタントばかりの粗末な夕食を摂った。それまでに食べたどんな料理もその夕餉には敵わなかった。最高に、旨かった。食事の後、二人でコーヒーを飲みながら、なんとなく肩を寄せ合い、キスをした。


 奈美との初体験はなにしろお互い初めてだからどこかぎこちなかったし、どこか義務感みたいなものがあって、落ち着かなかった。


 だけど美玖とは全てが自然だった。めちゃくちゃ気持ちよかったし、気持ちよくしてやりたかったし、とにかく気持ちよかった。なによりも美玖を何度も満足させたことが大きな自信になった。それなのにもう、夏樹はしたくなっていた。


「ミクさんっ!」


「ナツキ・・・」


 小さな灯りに照らされた可愛い彼の顔を見ているだけで気持ちが抑えられず、胸にかき抱いてしまう。


 元夫などとは全く違う。あのデザイン事務所の浮気相手とも、高校時代のワル先輩とも違う。激しい気持ちをぶつけてくるのに、夏樹が激しければ激しいほど温かな気持ちが溢れてきて愛しさの奔流の中に溺れ幸せな満足を迎えてしまう。男の子にとって母親は最初の恋人だという。それに関係しているのかどうか、母親にとって息子は、もしかするとパートナーよりも愛しい恋人なのかもしれない。


 実の息子は手放した美玖だったが、代わりに別の可愛い息子を手に入れたのだ。


 美玖の感じている幸福は、きっと息子を迎え入れている幸福なのなのかもしれない。





 若いオスは、ようやく静まった。


 美玖は夏樹にキスをした。


「いよいよ、明日だね」


「・・・うん」


 この子はわかりやすい。さっきまでの高揚した顔が瞬く間に沈んだ。


 家に帰りたくない・・・。その気持ちはよくわかる。


 だが、彼は帰らねばならない。そうしなければ、彼の未来が作れない。美玖もまた、自分の生活を立て直すために夏樹と別れて歩きはじめねばならない。旅はいつかは終わる。終わるから旅という。終わらなければ単なる放浪になってしまう。美玖はいいが、夏樹を放浪させてはいけない。これ以上、夏樹の若い身体に溺れてはいけない。


「ナツキ、ナミちゃんって子に、感謝しなよ」


「・・・なんで、今・・・」


「何でだと思う」


「わからないから、きいてるじゃん」


 別れたくないのに別れなくてはいけない。それは夏樹もわかっている。わかってはいるが、気持ちのやり場が無いから駄々をこねている。美玖にはそれがよくわかっていた。


「それを虐待というかどうかは、人それぞれだと思うの」


 と美玖は言った。


「・・・え?」


「ひっぱたかれれば虐待。今日の夕飯は抜き! ってご飯を貰えなければ虐待。車の中に放置されれば虐待。毎日毎日クドクド文句を言われまくられれば、虐待・・・。


 そういうのを全部虐待というかどうかは人それぞれだと思う」


「・・・もしかして、オレのこと疑ってるの。あの女と父親に酷いことされたなんてウソだって・・・」


「疑ってないよ。これっぽっちも」


「じゃあ、なんで・・・」


「あのね、ナツキ・・・」


 美玖は夏樹の身体を抱き寄せた。


「あたしこれでも一人子供産んでるの。とても他人様には誇れないけど、四歳になるまで、その子を育てた」


「・・・」


 夏樹は急に威勢を失った。


「初めて母親になるから、これでもいろいろ勉強したの。子育てについて、あれこれ。親の虐待てのも、調べて、こういう親にはならないようにしようって、思った」


 可愛い夏樹の顔を挟む。愛し過ぎて、どうしようもなくなる。でも抑えねばならない。


「そこに子供への愛情があって、子供が日々その愛情を感じて自分はここにいてもいいんだ。必要とされてるんだって思えて、人を信じること、人を愛することを学び、そうして毎日を過ごし、立派に大人に成長できて、パートナーを見つけて、その子供に同じような愛情を注ぐことができれば、仮に親にひっぱたかれたした記憶があったとしても、そこに虐待はないのよ」


「だから、なに言ってんだよ! 疑ってんじゃんか・・・」


「違うって・・・」


 夏樹を抱き寄せ、抱きしめ、彼の耳元で、美玖は呟いた。


「たしかに、あんたは虐待されたかもしれない。いいえ、虐待されたんでしょう。


 でもね、あんたには、その痕がない」


 夏樹の目を覗き込んだ。小さな灯りに目元の潤いが光っていた。瞳の中に、美玖がいた。だから、甘いキスをあげた。


「虐待を受けた子にはね、いろんな痕がある。


 人を怖がる。人の目を見ない。言葉がうまく出ない。むやみに反抗的になる。急に衝動的になって人を傷つけ物を壊す。虫や小動物をむやみに殺す。自分を大切にしない。人も尊敬しない。社会の中で義務を果たそうという気持ちもない・・・。


 でも、あんたには、そういう痕がない。


 きっと、それはナミちゃんのおかげだと思うの」


 と、美玖は言った。


「ナミちゃんがあんたのお母さんの代わりにあんたにたくさん愛情を注いでいつも傍にいてくれてたから。あんたを認めて、あんたを守って、あんたを愛してくれてたから。


 お父さんやその継母さんから酷い仕打ちを受けたかもしれないけど、ナミちゃんだけは信じてるんでしょう。それに初対面のあたしのこともちゃんと正面から見てくれた。あたしに興味を持ってくれて、あたしを抱きたいって思ってくれた。


 それは全部ナミちゃんのおかげだと思うの。ナミちゃんに愛されてたからだと思うの。


 早く大人になって。そしてナミちゃんを幸せにする。


 それがあんたの義務。ナミちゃんへの恩返しだよ。


 ナミちゃんのためにも、あんたは帰らなきゃ」


 美玖はそう繰り返してもう一度キスをした。


「もう寝よう。明日は、早いよ」


 小さな灯りが消された。

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