15 Born to be wild
バイク屋のオヤジに取り付けてもらったシーシーバーは快適だった。ワインディングが続く山道ではなく、一直線に伸びるような道路では適度に身体が離れていた方が運転も同乗もラクだ。美玖は夏樹に自分のジーンズのベルトを握らせ、もう片方の手でシーシーバーのアームを掴ませて背もたれさせた。
そうして、ほぼ制限速度で国道二号線を西に向かった。
「どう? ナツキー!」
「気ー持ちいいっすーぅー!」
所々で左手に海が開ける。潮風が心地よく後方へ流れて行く。
「ナツキってさー、血液型、何型ー?」
「Bですー!」
「あたしもBー」
「やったー!」
「でも、あたしとナツキ、恋愛はいいけど結婚はダメなやつだー!」
「そうなんすかー」
「そうらしいよー」
こんなバカな会話を大声でやりあいながら走っていてもほとんど誰にも聞こえない。バカバカしくて最高に気分がいい。
海に突き出た漁港の堤防。海に面した公園。そんなところがあるとバイクを止めて休んだ。太平洋に比べ、瀬戸内海の波は穏やかで優しい感じがする。秋の陽光を浴びて煌めく波を蹴立てて大小の意外に多くの船が行きかうのを眺めた。
ブーツを脱いで砂浜に降りて行く石段に腰かけ足の指を開いたり閉じたりした。
「ナツキのお母さんてさ、どんな人?」
夏樹は膝を抱えて海の向こう、遠く霞む四国の山々を眺めていたが、母の話を振ると顔を伏せた。
「居なくなってからもう、六年、七年か。どんな人って言われても、困っちゃうよね。ごめんね」
「いえ・・・」
きっと大樹もこのまま会わずに何年かすれば、誰かに同じような質問をされて今の夏樹と同じように、それ以上に戸惑うことになるのかもしれない。もし彼のように継母を迎えたりすれば、もしその継母が優しいお母さんだったら、きっといつしか美玖のことは忘れてしまうのだろう・・・。
「優しい人だったんだろうとは思います。手を引かれて幼稚園に通った記憶ぐらいしかありませんけど。だから、どんな人だったか、いまどんな暮らしをしてるのかを知りたくて会いに行く。この旅にはそういう部分もあるのかもしれません」
オレ様が入ってるくせに泣き虫で、寂しがり屋のくせにとても強い芯を持った子だ。しかも、こんなふうに時折、とても大人びたクールでタフな話し方をすることもある。
「ナツキってさあ、学校の成績、いい方でしょう」
「・・・大したことないです。フツーですよ」
「ううん。あたしの中学生のころとは全然違うもん。優等生って感じがする」
そこでやっと彼は相好を崩した。
「ねえ、美玖さんのこと教えてくださいよ。初彼のこととか・・・」
「イヤ」
「あのさー、それじゃ話終わっちゃうじゃん」
「あんたがその、ナミちゃんのこと教えてくれたら教える」
「ちっ! また交換条件かよ・・・」
「てかさ、あたしが先に訊いたんだよ、昨日。教えてくれないんだもん。どうだった? 初めての女の、カ・ラ・ダ」
「それエロ過ぎー。なんか中年のオバハンみたい」
「・・・オバハンだもん。ナミちゃんてどんな子? かわいい?」
「う・・・ん」
「なんでそこで詰まるの」
「・・・年上なんです」
「へえ。高校生?」
「はい。・・・昔からの、腐れ縁みたいなやつ」
優等生が猛烈に照れている。こいつ、めっちゃ、可愛い・・・。イジメたくなるのは止むを得ない。
「大体アレだよね。中二で毎日自分でしちゃうって、早い方だよね。初めてしたの早かったでしょ」
「あの、キレイな海見ながらする話じゃないですよね」
「大事なことよ。それにあんたから振って来たんだから。さ、ナツキの初体験の様子を聞いたら、出発することにしようかな、っと」
「まいったなあ、もう・・・」
夏樹は、奈美に弄られて初めて精通したことを話した。同時に、母がいなくなってからいつもなにかとそばにいてくれて慰められていたことも。
「大事な存在なんだね、ナミちゃんは。そういう子は大事にしなきゃ。もうミクさんとはエッチなことしちゃいけないね」
「え? あ・・・、そうなっちゃうんだ」
「なるでしょ、フツー」
「それは・・・、困るな」
「なんで困るのよ」
途中、美玖は元気づけにと言って道路際の売店でキビダンゴを買い、桃太郎のハチマキを夏樹のヘルメットに巻いてくれた。人に頼んでインスタントカメラで記念写真も撮ってもらった。もちろん、バイクと瀬戸内海をバックにして。
その一つ一つのシーンが、ショットが、夏樹の心の中に収められ綴られていった。まるで母との空白の時間を埋めて行くように。いつしかあの峠越えの軽自動車を運転していた母の笑顔や、湧水で顔を洗っていた母の顔が薄れゆき、それらが全て美玖の顔に置き換えられてゆくような、そんな錯覚を覚えた。
目的地までの行程。最後の休憩を小高い丘の上にある公園でとった。美玖は売店に飲み物を買いに行った。
そういえば、家を出てからずっと音楽を聴いていなかった。
リュックの底を漁ってCDウォークマンを引っ張り出した。イヤホンを着けPLAYボタンを押すと、美しい旋律が流れ出した。
美玖が戻ってきた。夏樹が耳にしていたCDウォークマンに目を留めた。
「何聴いてるの」
「ラフマニノフ」
と夏樹は言った。
「そういう曲なんだ」
「ラフマニノフはロシアの作曲家」
イヤホンの片方を美玖に渡した。代わりに冷たいコーラの缶を受け取ってプルリングを引いた。イヤホンのコードは短いから、自然に美玖の香りが漂う距離に、美玖のジャンパーの肩が夏樹のそれに触れるほどの近くに、美玖は座った。
「ピアノかあ、・・・いいね。なんて曲?」
「交響曲第二番、第三楽章アダージョのピアノアレンジ」
オリジナルのオーケストラならバイオリンの甘い旋律に続いてクラリネットとバズーンの優しいソロの部分が、郷愁を誘うようなセピア色のピアノの音色で詠われていた。
「なんか、いいわ。沁みいるね・・・。ここいらの風景に合うよ。ナツキってこういうの好きなんだね」
「母が残して行ったものらしいんです。気がついたら聴いてました。この曲を聴くと、母を思い出すんです。美玖さんと初めて会ったあの峠のバス停に登るときも聴いてたんだ」
と、夏樹は言った。
「そう・・・。きっとお母さんがいつも聴いてた、思い出の曲なのかもね」
イヤホンで繋がれた夏樹の顔が近い。若いが凛々しい、精悍な顔立ちだ。初めてあのバス停で会ったときよりもずっと。
美玖は尋ねた。
「流行りの曲は聴かないの?」
「あの女がTVの歌番組で聞いてる曲は全部キライになった」
と、夏樹は言った。
あの女・・・。夏樹の言う「継母」のことだろう。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。そういう言葉がある。
その継母はよほど嫌われたんだな。彼がまだ、大樹のように十分に幼ければ、刷り込みなおす機会もあったかもしれない。だが、残念がら彼の前に登場するのが遅かった。だから夏樹はこのように育ったのだろう。
軽く溜息をつき、音に集中し、そして顔を上げて瀬戸内海の美しい景色に魅入った。
曲が、終わった。
「ありがと。いい曲聴かせてもらった」
そう言って美玖はイヤホンを返した。
「ここね、前にも来たことあるんだよ。ツーリングでね。また来ることになるとは思わなかったけど・・・。有名なとこだもんね。映画のロケや小説の舞台にもなったしね」
「へえ・・・。知らなかった。・・・そうだったんだ・・・」
「ここから北に山に向かって行ったの。ワイナリーがあったり牧場があったりね。ツーリング向きの気持ちのいい道だったなあ・・・。でも、あたしたちは南に行くけどね」
夏樹の顔が少し険しくなった。
「島伝いに海を渡って四国につながる道路がある。どうも、最終目的地はその途中の島らしいね。たぶん、この島だよ」
そう言って美玖はロードマップの一か所を指で示しながらコーラを飲んだ。
夏樹はその示された地図の上の島を、実際の風景に求めようとした。
「そろそろ、行こうか」
そうして二人は、最後の行程に向かった。
潮風のそよぐ海の上の橋を渡ると収穫前の蜜柑畑が延々と続き、午後の穏やかな陽光が緑とオレンジの風景を撫でていた。道の方々に軽トラックが止まっていて、農家の人々が収穫した蜜柑の籠を荷台に積み込んだりしていた。
コンビニがあったのでそこで住宅地図を借りその家の個所をコピーさせてもらった。どうやら目指す家は次の島の畑の中にある農家らしいことがわかった。
「おじいちゃんの実家だから、住んでるのはおじいちゃんの兄弟かその子供の世代だろうね」
タンクの上のバッグにロードマップを縛り、コピーした地図から読み取ったその大体の位置にペンで印をつけた。
「・・・オレ、やっぱ、行くの止めようかな」
青いヘルメットを抱えたまま、夏樹がつぶやいた。
「なによここまで来て。・・・どうしたの」
「なんか、怖くなっちゃった。・・・わかんないけど」
美玖も一度被ったヘルメットを脱いだ。
オートバイの隣のスペースに黒い軽自動車が止まり、母親らしき金髪の女が助手席のチャイルドシートのベルトを解き、ちょうど大樹くらいの小さな子供を抱えて降りてきた。だぶだぶのTシャツにホットパンツの足元はビーチサンダルで、爪先にはドギツイ赤のペディキュアがしてあった。
彼女は美玖たちと目が合うと小さな男の子を下ろしその手を引いた。
「さ、ゆうくんアイス買おうね。何アイスがいい?」
「ガリガリ」
「ガリガリかあ。あるかな、ガリガリ・・・」
二人は手をつないでコンビニの店内に入って行った。
夏樹を顧みた。その頼りなげな表情に、自然に笑いかけた。
「行くんでも、帰るんでも、どっちでもいいよ。あたしは、ナツキに従う。ナツキが決めな」
彼はしばらく店内に消えた母子を見つめていたが、やがて美玖に笑いかけた。
「ごめん。・・・やっぱ、行く。ミクさん。お願いします」
ホッと息を吐き、ヘルメットを被った。そして、シートに跨った。
「・・・乗んな、ナツキ」
タンデムの赤いCB750が再び海を渡った。
右手に誰もいない午後の海水浴場を見て島の南側に回り込んだ。最初の島よりももっと多くの蜜柑畑の間を縫うようにして、オートバイは走った。
一度だけ止まり、住宅地図と照らし合わせた。小高くなった山の斜面一面の蜜柑の木。そのわき道を入って蜜柑畑の間を登った上が目的の家らしい。
「ここだよ」
と、美玖は言った。
道の途中に軽トラックが一台、蜜柑を満載した籠を載せていた。
オートバイをとめて、ヘルメットを脱いだ。
「こんにちは」
年老いた夫婦が収穫の手を止めて南国の蜜柑のような笑顔で美玖たちを迎えた。振り返って夏樹を見た。不安げな中にもどこかきらきらしい輝きを浮かべていた。
彼がみずからすすみ出た。
「あの、ショージナツキと言います。母に、母のショージマサコがここに転居してきたと聞いて、会いに来たんですが・・・。」
「お母さん?・・・あ、ああ・・・。そうかね・・・」
夏樹が身分を明かした途端、その農家の夫婦はそれまでの笑顔を一変させた。一瞬で醜悪な表情になった。収穫という農繁期を邪魔したからではないのは明らかだった。それはなにか忌むべきもの、穢れたもの、関わり合いになりたくないものへ触れたという態度だった。
主人の方は話すのもごめんだというように作業に戻っていった。奥さんの方が、同じく関わりたくはないものの、いつかは誰かが訪ねて来ることを予期していたかのように、母屋まで美玖たちを案内した。玄関にも入れてもらえず、玄関先で応対された。
「近所の人に見られるから。裏の方に回って」
母屋の陰でその老農婦は言った。
「兄貴の方はね、もう死んだよ。ここに来てからすぐにね。この子はあの女の息子かい・・・」
あの女の息子・・・。そう、言った。
「あの女はここには住まわしてなかった。本道にもどって少し東に行ったところに駐在所がある。その北側にアパートがあってそこに住んでた。兄貴が死んだ後、遺骨を持ってどこかへ消えちゃったよ」
「住まわして、なかった・・・」
泣き叫ぶ大樹を美玖から遠ざけた元義母の顔も醜悪だったが、あまりな態度の急変ぶりにさすがの美玖も動揺した。
「出来ないでしょ、それは・・・」
「・・・どういうことですか」
「あんたは? どういう関係のひと?」
「この子の父親から頼まれまして・・・」
咄嗟に上手い嘘が思いつかなかったが、友達ではマズかろうと思った。
「父親? 父親ねえ・・・。どうだかね。本当のことを知ったら・・・」
「本当のこと? ・・・それは、どういう意味でしょうか」
それには答えず、老婦は一度母屋の中に入ると一束の書類を持って出て来た。
「誰だか知らないけどね、早く何とかしてくれないかね。こういうもんが送られてくる。ウチには関係ないんだから。こんなもん払う義理なんかないんだからさ。あの女がちゃんと始末もしないでいなくなったせいで迷惑してるんだから」
「ちょ、ちょっと待ってください。仰る意味がわからないんですが、この子の母親とそのお兄さんは一年前ここへ転居していらした。それは間違いないのですよね」
「最初は他に行くところがないっていうからね。兄貴の方は病気だっていうし・・・。だけど縁も薄いのにね。おじいさんの兄弟ってなら従弟だからまだわかるけどあんた、そのまた従弟だっていうじゃないかね。それに畑でも手伝うってならまだいいけど。寝たきりでしょう・・・。
それに、あんた・・・」
老農婦は美玖だけに耳打ちした。
「迷惑したんだよ、ウチは。あんな、兄妹同士で・・・。近所でウワサになって困ってさ。」
「兄妹同士?・・・」
「そうなんだよ・・・。それで兄貴の方は病気だし入院してもらって、あの女の方は家から出したんだよ。それからすぐに兄貴が死んでね。しかもあんた、病院でジサツだよ」
「ジサツ・・・」
思わず夏樹を顧みた。彼の不安気な表情も気になったが、話を聞かないわけには行かない。
「ちゃんと手続きしてくれればいいのに、葬式も出さない、ご遺体焼いたらわたしらになんの挨拶もなくさ、黙ってどっか行っちゃったんだよ。でさ、あっちの地所のもほったらかしだったんだよね。ちゃんと手続きしないでいたからこうやって送られてくるんだよ。あんた、関係あるなら何とかしてくれないかね。迷惑料で半分くれるってならまだわかるけどさ、ねえ?・・・」
「その・・・」
あまりな情況と自分の立場と夏樹の心象への配慮とがうまく処理できない。
どうすればいいのか・・・。
「その、彼のお母さんですが、そういう状況ですとお心あたりは・・・」
「こっちが聞きたいね。病院の入院費だけは払って行ったみたいだけど、アパートそのままなんだよ。不動産屋からガス屋から電力会社やらみんなこっちが被って後始末したんだから・・・」




