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13 再会


 あらかじめ現金は小分けにしておくんだったと思ったが、後の祭りだ。それに買ったばかりのテレフォンカードも財布の中だ。どうしよう・・・。


 たった一人。


 今まではそれが夏樹を守っていたのに、逆に、その事実が彼に重くのしかかった。前の「たった一人」の時は山の中の自然の暗闇が相手だったが、今度は赤の他人だらけの都会だ。その中で無一文になってしまってはもうどこにも行けない。しかも今まで生活していた場から遠く離れた土地。孤立無援。絶体絶命。


 最悪交番に助けを求めることはできる。だから、死ぬことはない。しかし、警察の手に身を委ねれば家に送り返され、またあの暗黒の継母と最低の父親との生活に逆戻り。そしていずれ寮付きの高校へ。もちろん母を探すなどはもう無理だろう。


 ここで断念か・・・。


 悔し涙が出そうになった。


 ふとジーンズのポケットの中の固いものに触れた。手を突っ込んでみると、硬貨だった。奈美に電話した時のあまりの百円玉が一個だけ、ポケットに残っていた。


 このたった一個の百円玉で、何ができるか。夏樹は揺れる電車の中で脳を振り絞って考え抜いた。そして、次の駅に電車が止まると駅に降りた。


 奈美の携帯電話の着信記録をスクロールしておいて、よかった。


 たった一個の、この百円玉。残しておいて、よかった・・・。





「聞いたぞ。お前、浮気して離婚されたんだってな」


 初めて乗ったのと同じようなトレール車のチェーンを交換する作業の傍ら、馴染みのバイク屋のオヤジは美玖に笑いかけた。


 彼とは高校生のころ中古のバイクを売りつけられてからだからもう十年以上の付き合いになる。美玖は何年経っても飾らない人柄のこのオヤジが好きだった。バイクメーカーのロゴの入ったキャップを庇を逆に被っている。キャップの下の髪に少し白いものが混じり始めていた。


「誰から聞いたのォ? あのさあ、笑い事じゃないんだからね。子供も取られちゃったし、これから実家も行かなきゃだし。あーもうサイアクー。憂鬱だよお・・・」


「そりゃあ、しかたねえよな。何事も順番てもんがある。亭主と別れる前に間男作っちゃイカンだろうが・・・」


「ふん。自分だってオートバイのレースに夢中になりすぎて女房に逃げられたくせに・・・」


 そのへんにしておいた。彼は今でも別れた奥さんに未練たらたらなのを知っていたからだ。


 エンジンオイルと新品のタイヤのゴムの匂いの中にいると落ち着く。


 コーヒーカップの中を覗きながら、美玖は愚痴をこぼした。彼女が誰にも言えない自分の恥部を曝け出せるのは、今はもうこのオヤジを除いては他にいなかった。


「子供にね、会いに行っちゃったんだよ。いろいろ手続きすっ飛ばして、勝手にね。どうしても会いたくなっちゃってさ。でも、抱っこもしてやれずに、向こうの親に追い返されちゃった・・・」


「・・・そうか」


 オヤジはレンチをコンクリートの床にコロンと転がし、モータードライバーに持ち替えた。


「元気だったか、子供・・・」


「まあね・・・。でも、しばらくあの顔が夢に出てくるんだろうなあ・・・。ママ、ママって、ギャンギャン泣かれてさあ・・・」


「・・・ダンナと縁り戻せる可能性は、ないのか」


「てか、戻したくない。こっちからお断り。男見る目無かったんだ、あたし・・・」


 オヤジはヤレヤレという眼で美玖を見つめながらポケットのタバコを取り出し、爪の間がオイルで黒ずんだ指で使い捨てライターを点けた。


「そう言えばよォ、お前、高校ン時も同じようなことやらかしてたじゃねえか。なんてった、あのボーズ。ナツキって言ったか。・・・ったく、進歩のねえやつだな」


「よく覚えてるねェ・・・。あれだね、オヤジさんはきっと死ぬまでボケとは無縁だろうね。なんていうの、人の過去の古傷を忘れたフリしてやる優しさは、ないのかしら・・・」


 深刻な情況もオヤジと話すと取るに足りないことのように思われ気分が上がって来る。どうせ深刻な顔をしたところでどうしようもないのだから。美玖が実家に帰る前にそこに寄ったのはそれを期待したからだった。たぶん敷居は跨がせてはくれるだろうが、その向こうは針のむしろのはず。両親はすぐに近所に住む兄夫婦を呼ぶだろう。家族総出で美玖を、不肖の娘を袋叩きにするに違いない。それに耐えるために勇気をもらいたかったのだ。


 ジージャンのポケットの中で携帯電話が鳴っている。表示には公衆電話と出ている。そんなところからかけて来る知り合いなんてほとんどいない。


 もしかして・・・。


 脈拍が上がるのを感じた。


「・・・もしもし」


「ミクさん? オレ、ナツキ・・・」


 その遠い声が、胸の奥を揺さぶった。





 改札のそばに緑の公衆電話が三台並んでいる。その右端のヤツの受話器を、夏樹は手が白くなるほど握り締めていた。その一本の電話線が、夏樹を救ってくれる相手と繋がっているたった一本の命綱だった。イヤでも力がはいる。別れてからたった二晩。それなのに、もしもし、という落ち着いた声を聞いただけで懐かしさが込み上げてきて、言葉が出なくなった。


 だが、通話できるのは数十秒しかない。感傷に浸る暇はない。声を振り絞って、話した。


「・・・助けて。財布掏られて文無しになっちゃった。ミクさんしか頼れる人いないんだ。今○○って駅にいる。神戸の先の。・・・お願い・・・」


 唇に残る美玖のキスの感触に触れた。


「・・・たぶん四五時間ぐらいかかる。・・・待てる?」


「・・・うん」


「必ず行く。待ってて」


「うん」


 助かった・・・。


 ツーツーと音を立てる受話器をかけ、握りこぶしに力を込めた。





 美玖は通話の切れた携帯電話を見つめた。


 あの子が助けを求めている。一文無しで都会の喧騒の中にたった一人放り出されて心細い思いをしているのだろう。美玖の目の前で義母に捕まり泣きわめく息子と夏樹の顔がオーバーラップした。


 すぐに行ってやらねば。


 会いたい。たまらなく、会いたい。あの可愛い男の子に会いたい。もう実家なんか、どうでもいい・・・。


「オヤジさん!」


 携帯電話を閉じて、美玖は言った。


「あ?」


「あたしのバイクにアレつけて、背もたれ」


「シーシーバーか。そんな急に言われても、お前のに合うやつだと取り寄せないとねえぞ・・・」


「何でもいいからテキトーに着けて。出来るでしょ、そのぐらい。急ぐの! 三十分で仕上げて。ホラ、早く! それとその後ろにテント付けるアタッチメントも要る。バンドでもいい。


 ねえ、い・そ・い・で!」


「ちっ! 突然来やがったと思えば、グチ垂れ放題、言いたい放題、我儘放題言いやがって。相変わらずだな、お前は・・・」


 オヤジさんをせっついてサドルの下のフレームにアーク溶接でシーシーバーという背もたれを取りつけさせクッションも付けさせた。シーシーバーの後ろ側には畳んだテントも載せられるように台も溶接してもらった。


「ちくしょー。高ェぞ、これ!」


 額の汗をツナギの袖で拭いながら、オヤジさんは怒鳴った。


「つけといて。あんがと、オヤジさん♡」


 すぐに店を出て、そのまま環状道路に登り西に向かうハイウェーに乗った。


 待ってて夏樹。必ず助けてあげる・・・。


 自然にアクセルを握る腕に力が入った。





 駅の周辺でウロウロするのは目立つ。公園もダメだ。改札を出て駅の建物のなかをゆっくりぶらぶらしていると周辺の案内図が掲示してあった。北側に図書館がある。あと三四時間。時間を潰すには丁度いい。そう思い、その図書館までやってきた。


 こういう時の時間は思いきりノロノロしているくせに、確実に経つ。


 気になっていたコンピュータ関係の本と、好きな作家の新刊が書架にあったからこの際だとじっくりと読んでいたらもう閉館時刻が来てしまった。


 まだ少し早いがノロノロ歩いて駅に戻る。どうかお巡りさんに会いませんように。もし遭ったらどうするか。


 キミ、名前は? ハセベナツキ。歳は? キミこの辺の子ォやないなあ。喋りでわかるで・・・。


 ちきしょう、ここは関西だ。


 夏樹はそのことをこの不慮の下車でイヤというほど思い知らされた。観光や仕事ならいい。だが地元の人間でない者が身を隠すとなるとこれほど困る土地もない。もしこれが東京なら、北海道や東北、東海北陸関西中国、四国に九州。どこの出身であろうが元々が雑多な人間が寄せ集まった土地だからあまり目立たない。東京のど真ん中でコテコテの関西弁を聴くのは珍しくもない。だがここは違う。関西という土地の特徴は関西人とそうでない人間がくっきりと区別されることなのだ。夏樹は目立つのだ。ましてや未成年。それに制服じゃなくて私服。しかもリュック持ち。


 いっそのこと、


「オレは家出してきましたーっ! なんか文句ありますかぁーっ!」


 と大声上げて叫びだしたくなる。イカン。自分はイライラしている。平常心でないと、目立つ。ヘンに下を向いていても、目立つ。


 都会でも秋の陽は早く落ちる。どうせなら真っ暗になればいい。そうすれば、遠目からは目立たずに済む。だが、制服警官でなくてもマズイのはいる。


 キミ、これから塾か? たいへんやな。この中参考書とか入っとるん? ちっと見して。なんでダメなん? ワシな、子供がアブナイ目ェに遭わんように見回りしとるモンやねん。キミ、あんま喋らんな。ここいらの子ォやないんちゃう。どっから来たん?・・・


 ここではそんな感じになるんだろうか。


 駅に着いてしまった。夕方の帰宅ラッシュが始まっているようだ。夏樹の前後左右を足早に通り過ぎて行く他人の群れ。その中ではゆっくり歩くのも目立つ。自然足が速くなる。美玖の姿を探して辺りを見回す。それも目立ちそうだ。


 駅ビルの前の舗道の手すりに何人かの若い男女がいる。待ち合わせなのだろう。なんとなくその人たちの傍に行き、同じように手すりに尻を預ける。


「ごめん、待った?」


「今来たとこ。ほな、行こか」


 せっかく同じような人待ちがいても、皆夏樹より先に誰かとどこかへ消えてしまう。一人になるのが、怖い。千円でもあれば、通りの向こうのファミレスかハンバーガーショップの中からここを見張りながら優雅に待てるのに。コンビニはちょっと遠い。美玖が来た時にわからないかもしれない。


 風は冷たくなってゆくのに、冷や汗が出てくる。そういうのも、目立つのだろうなあ・・・。


 とにかく、落ち着こう。


 音楽でも聴こうとCDプレーヤーを取り出そうとしてリュックをごそもそしていると声を掛けられた。


「キミ、どないしたん。誰か待っとんの?」


 咄嗟にリュックを閉じた。目を上げると制服の警察官が立っていた。


 三十代ぐらいかそれより少し若い感じの男の警官だ。優しそうに笑いかけて来る。それが、とても、怖い。


 夏樹は最大級の危機が到来したのを知った。予想はしていて、受け答えの想定もしていたのに、実際にそれが来ると案外固まってしまうものだ。顔を引きつらせないように注意した。そういう時は無理やり口角を上げる。リラックスしているように見せるのが大事。それも家出のノウハウのサイトにあった。家出少年にとっては、警察も、敵なのだ。


「・・・はい」


 そう言うしかない。少なくても、美玖を待っているから間違いじゃない。


「そか。エライ重そうな荷物やな。・・・ふうん。誰待っとるの?」


「あ、姉です」


「そか。ボクな、そこの交番のお巡りさんやねん。あれや。赤いライト見えるやろ。毎日な、困っとる人おらんかな、てここら見回りしとんねん。そんでな、これな、ボクも役目やから訊くんやけどな、このリュック、中見せてもろてもええ?」


「・・・はい」


「あのな、お巡りさんが勝手に開けるわけにいかんねん。開けてもろてもええ?」


「・・・」


 入っているのは着替えと時刻表、洗面用具セットにメモ帳・・・。その程度だ。それぐらいなら見せてもいい。だがポケットにはあの住民票の写しがある。それはたぶん、マズイだろう。


 リュックを開けて開き、中を見せる。警官はフラッシュライトを点けて中を見た。


「ごめんな。ちょっとだけ、そのセーター出してもろてもええ?」


「・・・」


 言われた通りにグリーンの既製品のセーターを引っ張り出した。周りの通行人たちがチラ、チラと一瞥してゆくのがウザい。


「ふーん。もうええよ。ごめんなあ。ありがとうな。・・・で、キミ泊りのセット持ってこれからどこ行くねん。お姉さんは何で来る? 車か」


「えーと、たしか西の方だったとおもいます。姉はたぶん、オートバイで・・・」


「お姉ちゃんがオートバイかいな。ゴッツイなあ」


 その警官はガハハと笑った。


「質問ばっかりで悪いなあ。キミこの辺の子ォやないやろ。どこから来たん?」


「名古屋です」


「で、ここでお姉ちゃんと待ち合わせか。ふ~ん・・・」


「ー」が「~」になって「・・・」が長くなった。怪しんでいるのが夏樹にもわかる。これは家出だと。それを無理に弁解したり慌てたりしないことだ。心臓のバクバクを悟られないように、微笑みを崩さないように。


「キミ三十分ぐらいここで待っとるやろ。お姉ちゃん、遅いな。何時の約束なん?」


「五時なんですけど。昔から時間にルーズなんです、姉・・・」


「そか。もし、よかったらやけどあの交番で待っててもろてもええよ。暗なってからこんなとこおると、悪いヤツに絡まれるかもしらん。ここいら最近ようけおんねん、悪いヤツ。キミ、ケータイ持ってないな? お姉ちゃんは持っとるやろ。交番の電話使うたらええやん。はよ来いや、いつまで待たすねんボケ!いうて。な? あ、キミは関西弁やないなあ、あははは・・・」


 努めてアットホームに、夏樹をリラックスさせようとしてくるのが、さらにウザい。


「まあ、でももう少しここで待ってみます」


 そこは少し強く押した。


「こんな寒いとこでかあ。交番温ぬくいでェ。コーヒー出したるさかい。なんやったらジュースもあるで」


「でも、ほんとうに、いいです。もう来る頃だと思いますから」


 警官はいよいよ怪しんだようだった。


「お姉ちゃんと待ち合わせして、何しに行くねん。ま、お巡りさんにはカンケーないやろけどな」


「単身の、父が単身赴任で、・・・そこに行くんです」


 喉がカラカラになっていた。額からも汗が出ていた。警官はそこを怪しんでいるのだろう。でも、警察官に質問ばかりされて怖くなる人だっているのだ。そういう体に見えるように、祈った。


「お父さんはどこにおんねん」


「だから、西の方で・・・。ぼくは知らなくて、姉が知ってます」


「街の名前とか、県ぐらいわかるやろ」


 掌の汗がしたたり落ちそうになっていた。


「お巡りさん!」


 夏樹の背後から、心強い女性の声が響いた。重低音のエンジンの響きと共に。


「ここ、駐停車禁止なの?」


 その時の美玖の姿はあまりにも神々しすぎて、眩し過ぎて、夏樹は泣き出してしまいそうなのを懸命に堪えた。


 美玖の免許証を一通り確認し、夏樹の話と彼女の話が同じであることを知り、その警官はやっと二人を解放した。


「いろいろ訊いて悪かったな。気ぃ付けてな。お姉ちゃんも安全運転でたのむで」


 美玖の後ろに乗って振り向くと、その警官は敬礼をしていた。それが少し、笑えた。美玖の存在が笑える余裕をくれた。あったかい美玖の背中にしがみついた。自然に涙が出て来た。


 そこからしばらく走って国道二号線に出る手前で美玖はバイクを止めた。夏樹が降り、彼女も降りた。ヘルメットを取って、髪を夜風になびかせた。


「ばか!」


 と美玖は言った。そして呆然としている夏樹に飛びつき、力いっぱい抱きしめた。


 ヘルメットのまま、夏樹もまた美玖の震える肩を抱いた。ジャケット越しだけれど、美玖の柔らかい身体と懐かしい匂いを嗅いで、やっと震えが来た。


 そこは駅からも離れて人通りも少なかった。夏樹は、泣いた。


「ミクさあん、うわーん!、ああーん!」


「・・・もう泣くな、ばか。男だろう・・・」


 そんなことを言われても泣けてくるものは仕方なかった。

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