01 終わりと始まり
2005年四月から道路交通法が改正され高速道路上で自動二輪車の二人乗りの規制が緩和され通行可能となった。
これはそれ以前の話。
ひと月に一度が週に一度になり、二度になりウィークデーの午前中は全てになるのにさほど時間はかからなかった。
夫の好きだった腰まであった長い髪も邪魔になって切った。多少は不平を言うかと思ったがさほど怒られなかった。今にして思えば、その頃にはもう感づかれて証拠を積み上げられていたのだろう。虎視眈々と絶好の機会を待っていたのだと思う。
その日、美玖はいつものように息子を幼稚園に送った後、ショッピングモールの巨大な立体駐車場に車を潜め、そのどこかにやって来るはずの青い車がパッシングで合図をするのを待っていた。
B棟の二階。車は西向きに駐める。
じっと辺りに目を凝らし続けるのも疲れる。何気に肩のあたりに手を伸ばすが、もうそこまであった髪は切ってしまった。今だに髪が長かったころの癖が抜けないとは。それに外出するときは必ず履いていたストッキングも履かなくなった。
「ガーターベルトで留めるヤツにすればいいのに」
相手にはそう言われたが、そんなものを家に置き、洗濯していると夫に感づかれてしまう。極力普段と変わらないようにするのも疲れる。そんな疲れることばかりしなくてはならないにもかかわらず、美玖はやめられなかった。
相手に愛はない。ただの快楽をもたらすだけの機械だ。それは動かない。愛しているのは夫であり今幼稚園でお遊戯かお絵かきか園庭を思いきり駆け回っているだろう息子だ。それも動かない。
「お前は愛する人を裏切って平気なのか。それが愛と言えるのか」
仮にそう言われても、愛しているのは事実だから仕方がない。極端に言えば、誘拐犯に夫と息子が攫われたら喜んで身代わりになる。殺されてもいいぐらい、愛している。
でも、どうしても疼く。身体が欲しがる。欲しくて仕方がない。それを夫がくれるなら、こんなことはしていない。美玖はセックスが好きだ。それも動かない。
連絡も携帯は使っていない。公衆電話から相手にかけ、都合がよければ会う。悪ければ、我慢する。
「今からならいいよ。いつもの場所で。三十分後」
日中に時間が取れる都合のいい相手。美玖が欲しいだけくれる便利な相手。今美玖が待っているのはそういう男だ。
来た。
二列向こう側の車列からパッシングがある。場所は覚えた。車を出てそこへ向かう。
プレーンな白いブラウスにベージュのスカート。履きやすいローヒールの靴。ナチュラルメイク。いつも幼稚園に送り迎えする格好そのまま。身体の外はごく普通でも、身体の中が熱く燃えている。電話をしてからもう止まらなくなってしまっていた。自然、歩調が逸る。
ドアに手をかけるとすぐに乗り込み、いきなり運転席の男に抱きつく。唇をむさぼる。
「おいー。落ち着けったら。ホテルまで我慢しろよもー・・・」
「だったら早く出して!」
無精ひげがじょりじょりと痛い。それでも気にならないぐらい、気持ちを持って行かれている自分がいる。これだけは、どうしようもない。
ホテルに着き、部屋に入ると待ちきれないように抱きつく。すぐに求め合う。
「おいー。相変わらず、飢えてるなー」
いつの間にか男にはすっかり上に立たれてしまった。それでも構わない。気持ちよくしてくれて、身体の疼きを静めてくれるのなら、上でも下でもどっちでもいい。
「・・・スゴイね・・・」
「ああん、やあっ・・・」
「すげえ、エロい匂い。朝からたまんなかったんじゃねえのォ・・・。じゃ、オレが満たしてやっからな。エロい奥さんを・・・」
束の間のひと時。美玖は全てを忘れて非現実の悦楽の中で獣になった。
二時間ほどで部屋を出た。一階の駐車場に二人で降り、男の車でショッピングモールの駐車場に戻る。毎回同じルーティン。そして今日も現実に戻り、明日もまた男に電話するのだろう。そして束の間の非現実を味わい、また現実に戻る・・・。
いつまでもそのルーティンが続くのだろう、と思う自分がいる一方で、こんなことはいつかはバレ、身の破滅に繋がると警告する自分がいる。もうずっとその二つの相克の間で揺れていた。
車がホテルの出口に向けて動く。センサーが車を感知して青いパトライトが回る。それもいつもと同じだった。同じでなかったのは、公道に出る寸前に、車の前に四五人の男性が立ちはだかったことだった。
こんなことはいつかは終わる。そう覚悟をして来たから、美玖はあまり驚かなかった。驚いたのは、男の方だった。
「おわっ! 何だこいつら・・・」
「一番左の人以外はあたしも知らない」
「・・・え?」
「一番左の人、あたしの旦那」
さっきまで美玖を思うさま蹂躙して彼女の支配者だった男は急に委縮して、頭を抱え込んだ。
夫は容赦なくやるだろう。性格的にそういう人だ。その場合、離婚だけでは済まないだろうという予測もしていた。でも、たった一人の息子とも別れねばならなくなるのだけは受け入れがたかった。それだけは想像するのさえ拒んできた。
美玖は息子を、大樹を愛している。誰にも渡したくない、自分のお腹を痛めて産んだ子供だ。それだけは・・・。
しかし、自信たっぷりに美玖の乗った車に歩み寄って来る夫の顔には、彼女の願いを聞き入れる余地は一厘もないように思えた。
「夏樹・・・」
机に並んで座っていた奈美は、じゅうたんの上に腰を下ろして夏樹を呼んだ。
制服のスカートのまま緩い体育座りをしているから、夏樹が同じようにじゅうたんの上に座ると股間の白い布が見えてしまう。奈美がワザとそうするのを夏樹は知っている。ワザと見せつけて夏樹の股間が反応するのを愉しんでいるのだ。
「人んちだってのに、お前いつも大胆だな」
「いいから。ねえ、もっとこっちに来なよ」
ときに夏樹にはこの二つ年上の二軒隣の家に住む幼馴染が悪魔のように思えてしまう。彼女は後ろに手をつき、さらに脚を開いてバッチリとそこを見せつけて来る。夏樹も伸び盛りであと少しで170センチに届くが、奈美はすでにそれを軽くクリアしている。いつまで経っても彼女を追い越せないもどかしさをずっと抱え込んだままでいる。中学に引き続き今年入学した高校でもバスケット部に入った。きっとさらにデカくなるに違いない。
この、クソアマ・・・。
仕方なく奈美の傍に寄り脚を開いて互い違いにお互いの股に脚を差し入れる。バミューダショーツの夏樹の脚と奈美の太腿が触れ合う。彼女の白い太腿が眩しい。肌が冷たい。
「・・・昂奮した?」
おっとりとした古風な美人顔に小悪魔のような薄笑いを浮かべるこの幼馴染はいつも夏樹をオモチャにして揶揄い、楽しんでいる。でも、憎めないヤツでもある。心から信頼している友達でもある。
まだ彼が小学校に上がる前から、奈美はいつも彼の傍に居た。
「なーつき君!」
毎朝、迎えに来る奈美の声を合図にランドセルを背負っていた。
二年生の時、優しかった母が死んだと知らされた時には毎晩のように来て抱きしめてくれた。頭を撫でて一緒に風呂に入って添い寝までしてくれた。父のいない夜は奈美の家で彼女の家族と一緒に夕飯を食べ、姉弟同然に過ごしてきた。それは奈美の胸が膨らみ始めるまで続いた。
長じるにつれ、夏樹にもだんだんわかって来た。死んだと聞かされた母の遺影はあるが位牌もなければ線香も焚いたことがない。命日という存在を知ってからは母のはいつなのかと何度か父に訊いた。その度に父は視線を外し、はぐらかされ、お墓参りは? お墓はどこなのと聞いてもなしのつぶて。いよいよおかしいと思うようになった。
これは何かある。子ども心にも異常を感じたころに家に乗り込んできたのが継母だった。
初対面から、夏樹はこのキツネ目の女が嫌いだった。
「ナツキ君、これから仲良くしてね」
もうお菓子を貰って喜ぶ歳じゃない。笑顔が真実か演技かぐらい見分けられるようにもなっていた。ただ、まだ心中のホンネを隠せるほどの大人ではない。夏樹の本意に気づくや、継母も演技をやめた。
そのころ奈美はもう中学生になっていたが、いつも夏樹の気持ちに寄り添ってくれ、愚痴を聞いてくれ一緒に泣いてもくれて彼の継母や父への怒りに同調してくれた。
奈美は、彼にとっては単なる幼馴染という存在を超えた心から信頼できる姉であり、同士でもあった。
奈美は奈美で、夏樹をいいように利用した。
夏樹が大人の男としての機能に目覚めたのも奈美の手によってだった。それは彼女の自分への好意や愛情からと思い込んだが、実は面白半分だったことが分かったときは恨んだ。
しかし、そのおかげで性的な目覚めが同級生たちより早かった。
「うわー、出たね。初めてでしょ。ね、どんな感じ?」
「どんなって・・・、頭の後ろが熱くなってゾクゾクして、お尻の穴とかも熱い感じ、脚とか足の裏にまでシビれが来て、でも、滅茶苦茶気持ちかった・・・」
「女と一緒だね」
「奈美も白いの出すのか?」
「出さないよ。あんたの出したのは赤ちゃんの素だよ。学校で習わなかった? 女は出せない。その代わりあんたのを受け入れやすくするために、濡れて来るんだよ、穴がね。男はその白いのを女の中に発射するの。すると赤ちゃんができる」
「見せてよ」
「見せるわけないだろ。調子に乗るなよ、小坊・・・」
「なんだよ。オレのは散々見て触ってるくせに」
一度快感を覚えると病みつきになった。奈美は時折襲いに来ては夏樹の成長に頬を緩めていく。
「おっきくなったね、コレ」
その奈美が、今も目の前にいる。
「ヤリたくてタマんないんじゃないのォ」
「・・・うるせーよ」
「やせ我慢しちゃって、ホントはヤリたくてしかたないくせに・・・」
「じゃ、ヤラしてくれんのかよ。てか、いい加減にヤラせろよ」
「ヤラせるわけないでしょ。バカじゃないの?」
そうして夏樹が怒るのを見て愉しんでいる。とてつもなくイジワルな女でもある。
きっと奈美は夏樹を実験台にして知り得た性の知識を、自分のカレシとそういうことをするときの参考にしているんだと思った。奈美がそう言ったからだ。カレシがいる、と。部活も忙しいはずなのに、ヒマさえあればこうして遊びに来て夏樹を揶揄って帰ってゆく。継母の目があるので、机の上には数学の教科書が開いたままにしてあるが、今まで奈美から勉強を教わったことは一度もなかった。その必要もなかった。ハッキリ言って、奈美とは違い、夏樹は学校の成績だけは良かった。多分高校は彼女とは別のところに行くことになるだろうとぼんやりと思っていた。
「ねえねえ、それよりさ・・・」
と奈美は言った。
「なんだよ」
「あんた、本当にやるの?」
夏樹は黙った。
「やめときなよ。大学入っちゃうまでの辛抱だって。そんな、家出なんかしても何にもいいことないって・・・」
奈美は夏樹の頬に掌を寄せ、撫でた。
夏樹はその手を振り払った。
「ほっといてくれ。もう決めたんだ」
「せめてあと二年ガマンしなよ。高校入りゃ違うって。年上の言うことは聞くもんだよ」
「ヤラせてくれるなら、考えてもいい」
「・・・ったく。いつからこんなナマイキ言うようになっちゃったかなあ・・・」
奈美はスッと唇を寄せ夏樹の赤い唇を軽く食んだ。たったそれだけで、中学二年生の男子は甘美な快感を刺激され恍惚とした表情を浮かべた。
「もし、その日が決まったら、必ずあたしに言うんだよ。いいね? ケー番、わかるよね」
「・・・でもおれ、ケータイ持ってないし・・・」
奈美の腕が伸びてきて夏樹はギューッと抱きしめられた。
「いままで上手く言葉にできなかったけどさ・・・。あたしには大切なの、あんたが。わかる? 弟じゃない、だけど、弟以上なんだよ。あたしには大事な存在なの・・・」
「カレシよりもかよ」
奈美の頬ずりは、何年ぶりだろうか。シャンプーかリンスの香りに混じって、奈美の自然の匂いがした。太腿は冷たかったのに、頬はとても熱かった。
「・・・とにかく、あたしに無断、無言で行くのはなし。いいね? これだけは約束して。絶対だよ」
何故家出なんてしようとしているのか。
もう、耐えられないからだ。
継母と、彼女にいいように操られている父との生活に心底ウンザリしていた。
それに、夏樹は知ってしまった。
母が、死んだのではないことを。今もまだ、生きていることを・・・。