Trip My Home
今日は珍しく教室に残っていた。
教室は誰もいないおかげで静かだった。みんなすぐに帰るなり部活に行くなりしたのだろう。
私はぼんやりと机に置いたノートを開いた。一枚一枚めくっても、あまり代わり映えしない四角い図形たちが描いてあった。
もう一枚めくって、真新しい真っ白のページ。
私は机から筆箱と定規を取り出した。
と、鉛筆を手に取ろうとする前に教室に侵入者が現れた。
「あ、あったあった! 体育館ばき」
そのクラスメイトは足早に前から2列目の席に駆け寄ると袋をとった。
彼女は踵を返してさっさと出て行く……いや、行こうとした。しかし、扉に手をかけたところで、彼女は何かに呼び止められたように立ち止まる。当然私が呼び止めたわけではない。
彼女はゆっくり歩いて席に戻って、そのまま椅子に座ってぐったりと机に伏せた。
私は声をかけるわけでも、手を動かすわけでもなく、その背中を見ていた。
彼女はこのクラスにいれば誰もが知っている。名前は稲生 明香里さん……だったはず。学級委員でいつも明るく、教室では必ず誰かと一緒にいるタイプ。
――私とは住む世界が違う。
そう思う。
稲生さんは座ったまま「んーっ」と声を出しながら大きく背伸びをすると、吐き出すように呟いた。私と彼女しかいない教室で、その小さな声はたしかに私に届いた。
「疲れちゃったなぁ」
彼女はそう言って、教室をぐるっと見渡した。ぐるっと見渡して――
「うわぁっ!!」
椅子を勢いよく倒して立ち上がった。
ガタガタン!大きな音に私も思わず身を竦めた。
恐る恐る見ると、彼女も目を丸くして、私のことを見ていた。
「わ、わ、鷲谷さん! な、なんでいるの!?」
「え……えっと、ごめん」
「いや、えっと別にいるのは悪いんじゃないけど……。今日、なんか特別な職員会議だって、部活禁止で強制下校だよ……?」
「そうだったんだ」
私は納得がいった。通りで普段練習している体育会系の部活の声が聞こえないわけだ。
自分の名前を覚えられていたのは、少し意外だった。
「鷲谷さんはどうして教室に?」
「ずっといただけ」
「そうなんだ……鷲谷さんはいつも自由だね」
そうかな、と思う。ただ、先生の話もろくに聞かないで自分の席にいただけだ。いや、他人はそういうのを自由というのかもしれない。
そうこう考えている間に、稲生さんは遠路はるばる教室の一番隅にある私の席まで来ていた。
「ずっと教室にいて、何していたの?」
「何も」
「何もせず?」
「あぁ……えっと……」
本当に何もしていなかったというと少し嘘になる。ただ言ってもわかってもらえないだろう。困った私は視線を稲生さんから机の上に移した。
ノートが一冊置かれている。
「……見ていい?」
短く切られた横髪が、重力に従って素直に落ちて彼女の横顔をカーテンのように覆い隠す。稲生さんの言葉は、優しさとか楽しさとかそういうのではなく……なぜか寂しさを感じさせた。
私はその言葉に胸の奥でなにかが共鳴したように感じた。気がつけば、黙って頷いて、ノートをめくっていた。
四角い図形が描かれたページ。大きな四角い図形の中にはまた別の四角が描き込まれて、いくつかの文字。
――キッチン
――トイレ
――玄関
「家?」
「そう。私の家」
「私。この家に行っていた」
私はそっと指でノートに描かれた図面をなぞる。一番大きい……それでも十二分に小さい、リビングの置かれた机を指した。
「この机でぼんやり考えごとしていた」
稲生さんは案の定不思議そうな顔をして、そして、意外なことにいつもの彼女のような笑顔になった。
「そっか。ふふふ。楽しそう」
彼女は私の前の席に座った。机を挟んで向き合う2人。すっと彼女の腕が動く。
「私も行っていい? 鷲谷さんの家」
そう言った彼女の人差し指が、机にいる私の指の近くにそっと添えられた。ノートの上でも、2人は机を挟んで向き合っていた。
――瞬間
今までいた現実の教室は幻のように消え去り、2人は図面のはずの家の中にいた。少し薄暗い家の中で2人は向き合っていた。
「この家に人が来るなんて考えてもみなかった……」
「そうなんだ。じゃあ、私がお客さん第一号だ」
「そう。あ、でもちょっと待って。この机1人用だから、もっと大きいのにするね」
私は小さい机をパッと消して、長方形の机と椅子を用意した。
「せっかくだし、テーブルクロスもひいておこう」
稲生さんがそう言うと、白いテーブルクロスがふわっと机に被せられる。
「あ、この部屋ちょっと暗いかな」
「窓を大きくしたら?」
それまで牢屋のように小さかった窓が大きく広がっていく。日の光が部屋に差し込みけど、少し足りない。
「照明……スタンドだけじゃ物足りないよね」
「うん。シャンデリアとかつけちゃう?」
「うーん。でも、それはちょっと落ち着かないかも。間接照明……とか?」
「ふふふ。そうだね。鷲谷さんらしいや」
彼女は嬉しそうに部屋を見渡す。
「キッチンは元から大きいんだね」
「料理は好きだから」
「へー。なんだか意外かも……あ、そうだ。せっかく窓大きくしたし、お庭とかあったら綺麗じゃない?」
「庭……? 庭……ありかも」
私は窓の外に半円状の小さな庭を作った。植物は詳しくないから適当に見たことあるようなないような花を咲かせる。
「おー可愛いっ」
「ちょっとスペース不足かな……次は庭の分を最初からとっておこう」
「ふふふ。庭のアイデア気にいってくれた?」
「うん。この家、アパートだと思っていたから、庭を作ろうっていう発想自体なかった……」
私が少し庭の物を増やしている時、彼女がある扉を指差した。
「ここはどこと繋がっているの?」
「そこは地下室への扉」
気がつけば私たちはリビングの光が少しだけ差し込む、薄暗い廊下に立っていた。
私はドアの取っ手に少し手をかけて、しかし躊躇わず新しく鍵をつけた。
ガチャン!!と重厚な金属音が廊下に響く。
「いれさせてはくれないんだ」
稲生さんが少し寂しそうに言った。
「この先は、本当に私の……私だけの場所であってほしいから……」
私は鉛筆を置いた。それは稲生さんになにを言われてもこの先は変えないという意思表示だった。夢のような世界から、私たちは人の気配がない教室に戻る。ノートの上にはいつの間にか消しゴムのカスが散らばり、私たちがいた家の図面にはいくつかの描き足しがあった。
「稲生さんにもある? 安心できる場所で1人になって過ごしたい……そんな気持ちになること」
「うん。……あるよ」
そして、少しの間、不思議な静寂が私たちを包んだ。
「ごめんね。鷲谷さんの家にいきなり口出ししちゃって。本当はこの家全部が、鷲谷さんにとってそういう場所だったんじゃない?」
「……そうかもしれない。でも、正直嬉しかった。誰かが家に来てくれたの……ごめん。うまく言えないけど。来てくれて、ありがとう」
「そっか。なら……良かった」
彼女は消えてしまいそうな笑顔で微笑んだ。そして、私たちは疲れたようにふぅと息を吐いた。そのタイミングがぴったり合って、私たちは思わず笑ってしまった。
「ふふふ面白いね。鷲谷さん本当にこの家にいるみたいに話すんだもん。のめり込んじゃった」
「私はいつもそう……感じている……と思う」
「そうだよ。そうなんだよね。そうじゃなきゃ『ここ暗い』なんて思わないもんね」
「そうなのかな?」
私は再びノートを見ようとしたけれど、ふと彼女からの視線を感じた。目線を上げると、やっぱり彼女と目と目が合った。
また彼女はどこか哀愁を感じさせる表情を浮かべている。
私は心臓がすこし早くなっている感じがする。
「ねぇ」
彼女の唇が、動く。
「私の家も描いてくれる?」
私は戸惑った。それは他人の家を描いたことなんてなかったから。それよりも、不思議とそう言われることを知っているような――いいや。そう言われることを、ずっと待っていた気がしたからだった。
「私が――稲生さんの――」
私が返事をしようとした時、その声はもっと圧のある声にかき消された。
「おい」
稲生さんが振り返り、私は肩がビクッとなって身を小さくした。
教室の入り口には担任の間崎先生が眉間にしわをよせて立っていた。
「稲生……と、鷲谷か? なんで鷲谷までいるんだ?」
「す、すいません」
「鷲谷さん。ずっと教室にいたらしいですよ」
「本当か?」
「は、はい。すいません。ボーッとしてました」
先生は大きくため息をついて。「まぁ鷲谷なら……」となにか独り言を呟いた。
「んー俺は稲生が遅いから様子見に来ただけだったんだけどな……。まぁ、ちょうどいいか。鷲谷も今一緒に下校するぞ」
「あ、あ、はい。すぐに」
私は慌ててノートたちをカバンにしまった。校門までに、間崎先生から学校での生活について色々聞かれたけれど大半は稲生さんが答えてくれた。その時の彼女は、いつもの明るい学級委員 稲生 明香里だった。
寂しそうな顔とは無縁のようなその姿は、先ほどまでの彼女の姿が幻だったかのように思わせた。
「よし。じゃあ。気を付けて帰れよ」
「さようなら」
「さ、さようなら」
すぐ近くの駅まで彼女と一緒に歩いた。けれど、やっぱり学級委員の稲生さんの表情しか見せることはなかった。
課題が大変だよね。とか、テストの準備した? とか。
駅に着くと私が下り方面で、彼女が上り方面ということが明らかになった。
「今日は話せて嬉しかったよ。鷲谷さん」
「私も……またね……」
「うん。また2人で話そう」
私たちは小さく手を振って別れた。
帰り道の途中で、今日あったことをなんとなく思い返してみると、いつもより家までの距離を短く感じた。
共用のロックを開いてマンションの中に入る。階段を一歩ずつ上がってたどり着く「自分の家」。鍵を開けて、中に入る。
部屋で服を脱ぎ去り、適当な部屋着を着る。
私の服があるし、私の本があるし、私が食べるご飯もある。
ここは「自分の家」。それは間違いないんだけれど――
「なんで違うって思うんだろう……」
私はベッドに身を投げて、私の家のベッドにトリップした。
位置は地下室への扉から廊下をはさんだ反対側。
ちょっとここも物足りないかな。
ベッドサイドに棚を用意して、ライトスタンドとサボテンを置いてみた。
明日、描き足そう。
稲生さんにも見てもらおう。
そう思いながら何かから逃げるように眠りに落ちた。
また続くかわからない物語を書き始めてしまいました。
自分の好きな空気の詰め合わせのような物語です。
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