第1幕 5話目
部屋中に、ノックの音が響き渡った気がした。
実際は、実に控えめな音だったが、そのくらい神経が研ぎ澄まされていた状態だったのだろう。
私は、ノックの音に弾かれるようにしてアレスから視線を引き剥がし、そのまま私の背後にあるドアへ振り向く。
アレスは小さく溜め息をつき、入れ、と返事をした。
「失礼致します。」
木製のドアが軽い音をたてて開き、男がひとり入ってきた。
彼は後ろ手にドアを閉めると、そのまま立ち止まる。
私は、ドアの前に立つその男を見て、思いきり目を剥いた。
漆黒の長髪を頭の低い位置で束ねたその男も、アレスに負けず恐ろしく美形だった。
黒く長い睫毛に縁取られた、深海を思わせる濃紺の瞳を真っ直ぐアレスに向け、背筋を伸ばして綺麗に立つその姿は、実に精巧に作られた彫刻のようだ。
しかし私は、男が着ている服装に目が釘付けだった。
私はその姿に、もの凄く見覚えがあったのだ。
分厚いカーテンを巻き付けたような服。
腰を締める帯は、赤ではなく黒だったが、施された金糸の装飾は同じ。
私が声も出せずに男を凝視しているのを見て、何を思ったか、アレスは彼を私に紹介してきた。
「宮廷魔術軍第一部隊の隊長だ。フレイ、彼女に挨拶を。」
「フレイ・トトと申します。」
彼ーーーフレイは、深海の双眸をちらりと私に向け、簡潔過ぎる自己紹介をした。
私は戸惑いながらも、メグミ・タチバナです、と返した。
「アレス様、どうなさいますか。」
フレイがアレスに訪ねる。
アレスは、もう少し様子を見よう、と答えた。
「…何か、考えがおありなのですか?」
フレイから、静かだけれど明確な懸念が滲む。
「そうだな。……なぁフレイ。」
「はい。」
「お前は、魔力を持たない人間がこの世にいると思うか?」
「魔力を持たない、ですか?」
「いや、少し語弊があるな。魔力があるかどうかが分からない、の方が正しいか。」
「………。」
フレイは、アレスが言わんとすることを正確に理解したのだろう。
私の背中に視線が突き刺さるのを、これでもかと感じた。
アレスとフレイが私を挟んで応酬している間、私は空気に徹した。
誰がどう聞いても私の話をしていると分かる内容だったが、聞こえないふりをしてとにかく空気になる。
それに、今の私は2人の会話より、フレイが着ている服のことで頭がいっぱいだった。
つい昨日、夢に出てきた男と同じ服。
それは、今見ているこの夢が、昨日の延長上にあると示している。
あの男は私を殺そうとした。
そして今、私のすぐ後ろにあの男と同じ服を着た人が立っている。
彼も、私を殺そうとするかも知れない。
心がざわついて落ち着かない。私は無意識に手の中のスマホを弄んでいた。
あぁ、早く目が覚めて欲しい。
自分の夢なのに、自分の意思で目覚められないこの状況に歯痒さを感じていた。
「メグミ。」
私の、空気になる努力は無駄に終わった。
とはいえ本当に空気になれる訳ではないので、仕方ない。
アレスに呼ばれて、はい、と小さく返事をする。
気分はすっかり死刑囚だ。
「まずは先に謝らせてくれ。」
「…はい?」
私から間抜けな声が出た。
アレス様、と背後から動揺を隠せないフレイの声がしたが、アレスが軽く片手を挙げることでそれを制した。
フレイはアレスの指示に従ったのだろう、それ以上は言葉を発しなかった。
「メグミ。」
フレイが黙ったのを確認して、アレスは改めて私の名を呼ぶ。
私はいたたまれない気持ちに支配されながら、居心地悪くアレスに向き直った。
「手荒な真似をしてすまなかった。」
そう言ってアレスは頭を下げた。
手荒な真似?
私はまるで意味が分からず、
「え、私何かされたんですか?」
と、ストレートに聞き返した。
私の言葉に、アレスは下げた頭をゆっくり上げると、そうだ、と言って、声をあげて笑いだした。
私は訳が分からなくなり、何を思ったか後ろに立つフレイを振り返った。
フレイは、信じられないものを見たとばかりに私を凝視していた。
「メグミ、聞きたいことがあるんだが、メグミは魔術を知っているか?」
「え、と、そういうものがある、ということだけなら…。」
「そうか。ではもうひとつ。メグミ、俺がメグミに魔術を使ったことは知っていたか?」
「え、いつですか。」
「はははは!フレイ!どう思う!」
アレスはいきなりフレイに話を振った。
フレイは、衣擦れの音を立てながら移動してきて、私の前、アレスの隣に立つ。
ベッドに座るアレスはフレイを見上げながら悪戯っぽく笑い、フレイは戸惑いながら私に視線を合わせた。
そして数秒ののち、フレイは再び、信じられない、という顔になった。
「百聞は一見に如かず、だ。」
フレイの挙動に満足そうにアレスは言った。
私は目の前に並ぶ美形2人を、交互に見ることしかできなかった。
次回は、この世界の魔術説明会です。