第1幕 1話目
はーぁ、明日も早いしそろそろ寝なきゃなあ。
そう思って部屋の電気を消してから暫く経つが、ベッドに横になりながらスマホ片手にアプリゲームをしたり、動画をみたり、とにかくスマホいじりがやめられず、何だかんだでもうすぐ日付を跨ごうとしていた。
立派にスマホ依存症を発揮している私の名は橘 恵、28歳。
私の最近のスマホ依存ブームは、大型小説サイトで異世界転生やトリップものの恋愛小説を読むことで、自分の現実が枯れているせいだろうか、読み始めたらもうとまらない。
どの作品を読んでも、転生やトリップした彼女達は紆余曲折あれど、必ず幸せになるのだ。
決まって超絶イケメンと。
いいよねぇ、ほんと。
私にもこんなことが起きたらなぁ。
本当に、ただ、純粋に今まで読んだ作品たちへの感想として、そう思った。
そんなことを考えながら小説を読むうちに、いつの間にか私は寝落ちしていた。
ーーーピピピピッ
ーーーピピピピッ
ーーーピピ…
「…ん」
聞き慣れた音。
私はほぼ無意識に、自分の手の中のスマホから聞こえるアラームを止めた。
スマホを握りしめたまま、イモムシのような動きでゴソゴソと寝返りをうつ。
(…あぁ、また寝落ち…)
と、まだ殆ど寝ている頭の片隅でぼんやり思った。
アラームが鳴ったということは、朝が来たということだ。
起きないとなぁ。仕事行く準備しなきゃ。
そうと分かってはいても、なかなか起きられないのが現実だ。
スヌーズになっていたアラームが再び鳴り出し、私はまたそれをほぼ無意識に止める。
だいたい毎日同じ動作を4回ほど繰り返してから、まだ寝ていたいと甘ったれる体をどうにか引きずり起こして、ようやく支度をし始めるのだ。
それが朝のルーティンになっていた。
そして今日も例に漏れず朝のルーティンをこなし、体をベッドから無理やり引き剥がすべく上半身を起こしたところで気付いた。
自分が今乗っているベッドには、真っ白なシーツが掛かっていた。
けれど、私のベッドにはシーツどころか、夏の暑さを和らげると評判の水色のひんやり敷きパットなるものが敷いてあるだけの筈なのだ。生来ズボラな私は独り暮らしをし始めてから、こんなきちんとしたシーツを掛けたことなど1度もない。
軽く、え?と思いつつベッドから降りようとして、ひゅっ、と息を飲んだ。
私は多分、今まで生きてきてこんなに目をかっ開いたことはない、というくらいに目を剥いたと思う。
まだ寝ぼけていた意識はマッハで覚醒した。
人間、本当に驚いた時というのは声が出ないものなのだと、この時初めて知った。
降りようとした先に、誰かの足があった。
その足は、室内だというのにサンダルとおぼしきものを履いている。
私は光の速さでその足の主を仰ぎ見た。
足の主は、薄気味悪くニヤニヤと笑う、小太りのおじさんだった。
キモッ!!というのが第一印象のその人物に、全く見覚えはない。
私は、え、誰!?とパニックになった。
人間、凄まじいパニックに陥った時も声が出ないものなのだと、これもこの時初めて知った。
そして、顔を上げて初めて、自分が見知らぬ部屋にいることに気付いた。
驚愕に驚愕が重なり、その言葉通り、私は声を失っていた。
この、ごく短時間に自分に襲いかかる情報量の多さに、まるでついていけなかった。
しかしその一方で、私の脳裏を瞬時にある言葉がよぎった。
ーーートリップ。
けれど、それは本当に一瞬よぎっただけで、一瞬過ぎて本当によぎったのかどうかすら怪しいくらいのよぎり方だった。
ちなみに、私が男の姿を捉えてから、部屋が違うことに気付くまでに、おそらく3秒かかったかどうかくらいの短さだったと思う。
最早、私の思考は停止していた。
目の前に立つ男は、見るものに不快感しか与えないような下品なニヤけ顔のまま、私にズリ、と近づいてきて、何かを勢いよく振りかぶった。
「神の御心のままに!!」
男はそう叫ぶと、先ほど振りかぶったものをこれまた勢いよく振り下ろした。
私は自分に向けられた、この世で最も分かりやすい悪意ーーー銀色に輝くナイフが自分めがけて振り下ろされたのを、凝視するしかできなかった。
そして、私の視界は暗転した。