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縁と鏡

作者: 雪村 比呂氏

残暑がきびしい。不思議な話でもしよう。

その前に少しだけ、私の昔話を聞いてほしい。


クラスメイトの女の子たちが二次性徴を迎えようとしているころ、いや、既に迎えている子も少なくなかった頃、クラスで一番背の高い私には何の変化も訪れていなかった。

とはいえ、女子は女子、男子は男子、という空気が教室を満たしていた。

私は『守られるべき女』になりたくなかった。『力で勝てない女』でありたくはなかった。

男になりたいというよりは、超えたかった。

なぜ、という話はまたの機会にお話しするとして。

5キロを歩いて通学し、帰ったらプロテインを飲んで筋トレと農作業に精を出した。

見渡す限り山と田んぼと畑しかない村だ。いくらでも体を動かす機会はあった。

そんな私の肉体はというと。

第二次性徴を迎え女性的になるどころか、むしろヒール女子プロレスラーのような筋肉と重量を備えていた。顔つきも女性的とはとても言えず、近所の年寄りの中には私を少年だと思っている人も少なくなかった。


時は流れ、高校生になった。

初潮を迎え、胸が膨らみ始めたのはほんの半年前。周囲の子たちと比べてもひどく遅かった。相変わらずプロテインを飲み、部活に精を出し、バイトをし、農作業をする体は、50キロの機材を一人で運べる程度には逞しくなっていた。

さらには空手の類を教えたがる教師や友人のせいで、不意に掴まれたり抱きすくめられても反射的に体が動くようになっていた。

その頃から深夜に年上の友人たちと出歩くようになった。

正確には、19・20歳の女友達のボディーガードのような扱いだったのだろうが。


その日も友人たちと21時頃から3時頃まで酒を飲んでいた。

焼酎の瓶を床に置き、勢いをつけて回し、瓶の口が向いた場所に座っている奴が飲む、という洋画で見た遊びだった。

1本の瓶など4度回せば空になる。何本飲んだかも覚えていない。

家に着いた頃には悪酔いもいいところで、部屋に入ってパジャマに着替えてすぐに、家の外にある手洗い場で吐いた。

記憶にある限り、初めての嘔吐だった。

胃の中には焼酎しか入っていなかったのだろう、注射の前の消毒液の臭いの透明な液体だけが口から出てきて、なんだかおかしくて一人でふと笑った。

口を濯ぎ、ついでに冷たい水で顔を洗って、ふと顔を上げた時だった。


視界の左隅にちらりと黒い何かが動いた。

深夜のド田舎。右は田んぼ、左は街灯もない車一台がようやく通れる人どおりなどない道路。

黒いもの…カラスは夜に飛ばない。タヌキは人の気配に敏く、こんなに近寄るはずもない。…熊か。出没情報を聞いたことはないが、そうであればもう命はない。どうせなら本物の熊とやらを至近距離で見てやろう。

そんなことを考えて顔を上げた。

…何のことはなかった。喪服のワンピースを着た、漆黒の髪を肩で切りそろえた女性がそこに立っていた。

背が高いが、痩せても太ってもいない、少し疲れた様子の女性が、やや驚いたような戸惑ったような表情で。

─なんだ。熊じゃないのか。

そう思うと同時に、右側にも気配を感じて振り向いた。

そこには黒いワンピースを着た、幼児が立っていた。肩より長い髪を二つに結んで。左右のゴムの色が違うのはなぜだろう。

彼女は泣くでも、はしゃぐでもなく、きょとんとした顔でこちらを見た。

─あぁ。母娘か。こんな深夜だ。早く連れ帰ってやれよ。

そう思った。どう考えても幼児を連れ歩く時間ではない。

母親らしき人の方に向き直り、文句を言ってやろうと振り向いた。…が、そこには誰もいなかった。

慌てて子供に視線を戻すが、やはりそこには誰もいなかった。


酔って変なものを見たらしい。

そう勝手に結論付けた私は、手と顔を冷たい水で再び洗って、部屋に戻って布団に滑り込んだ。

─しかし、そっくりな母娘だ。きっと娘は美人に育つぞ。

などと、一人でくすくす笑いながら眠りについた。


時は流れて。

私は一児の母となっていた。娘は2歳。高校生のころから20キロ痩せ、筋肉も服の上からではわからない程度になった。

顔についていた脂肪が落ちたせいか目がぱっちりして、高校時代の友人に会っても一瞬分かってもらえない程度には私の見た目は変わっていた。

生んだ娘は。どう見ても私にそっくりで、連れ歩くたび

「お母さんにそっくりね」

と笑われる程だ。

2歳にしてはずいぶん落ち着いていることと、私に似て背が高く、同い年の子と並んでもずいぶんお姉さんに見えてしまう。

そんな娘と姿見の前に並び、今日の式の支度をする。

私は喪服だが、2歳児の喪服…と悩んだ挙句、飾りのない黒いワンピースを着せ、黒いタイツを履かせた。

「これ!」

娘が握りしめたヘアゴムを差し出して、髪を結べと催促してくる。

先日亡くなった義母…娘にとってはおばあちゃんがくれたヘアゴムである。

「ばあちゃんと会えるのは今日が最後だから、これで結ぼうね」

と朝一番に私が手渡したのをずっと握っていたのであろう。

ブラシで娘の柔らかい髪をとかしながら、姿見に映る姿に目を奪われた。


あの日。

あの日見た母娘がそこにいた。

間違いない。

あの女性が鏡に映っている。髪の長さも色も、着ている服も、少しやつれた顔に施した化粧も。

娘に手渡されたピンクとオレンジのゴムも。娘の顔も。ついさっき聞いた「二つ結びにして!」というリクエストも。

なんで忘れていたのだろう。確かにあの母娘は私と娘だった。


義母の葬儀は身内のみでしめやかに行われた。

「母さんの面倒ずっと見てくれてありがとう。最後の一日は、もう俺の顔も名前も分からなくてね。でも最後の最後まで、あなたと姪の名前を呼んでいたよ。『私の次男の嫁とその娘に、ありがとうって伝えてください。私の娘だと思っていたと。そしてあなたが彼女らを知っているなら、彼女たちが幸せになれるよう、手伝ってやってはもらえませんか』って頼まれてしまったよ」

と、義兄が私の娘の頭を撫でながら言った。

「母さんはね、あなたにずーっと昔に会ったことがあるって言ってたよ。あの子が嫁に来るんだと確信していた、って。だから初対面の時に『やっと私の娘が帰ってきた』って思ったんだって」

義兄はいつもの苦笑いに似た微笑みを浮かべた。

「あなたも、知ってたんでしょ?母さんの葬式に、この子と二人で来ること。俺にはわかんないけど母さんがよくそう言ってたから」

そして私の頭を撫でて。

「ごめんね。弟と離婚してからもずっと母さんの面倒みさせて。ありがとうね。俺も妹ができたって嬉しかった。もうこれからは自分の幸せを考えてね」

そう言って元義兄は手を振って、火葬場に向かうバスに乗った。


あれは。

高校生の頃見たあれは。元義母である、私の大好きなおかあさんが見せた何かだったのか…。

真相は分からない。いつか私があちらに行ったら、その時彼女に聞いてみよう。

「おかあさん、悪戯しましたね?」

と。

きっと彼女はとぼけた顔で

「何のこと?偶然なんてないんだから、欲しいものは自分で取りに行かなきゃ」

と言って少女のように笑うのだろう。


さて。

私の不思議な話の一つはこれでおしまいだ。

他の話はまたいつか。


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