父と母・3
約束通りと言おうか、アオキは夏の暑い時期にこの涼しい村へ毎年やってくることになった。ユズルハとの再開は彼にとって今一番の楽しみである。一緒に居る間、教えていた文字を彼女は忘れることがなく、毎年少しずつ彼は彼女に教養を与え、彼女は彼に生活の知恵を与えていた。
やがて気が付くと二人は少年少女期を終えていた。
「ユズルハ。そなたはこの村にずっといるつもりなのか」
「ええ。おらたちはここを出ることはありません」
「もう、ここを出ても外敵などないのだよ」
「そう……ですね」
幼馴染の二人はもう子供ではいられなかった。アオキは立派に成人し、やがて家督を継ぐ予定である。そろそろ縁談の話も持ち上がるはずだ。ユズルハもそろそろ嫁に行かねばならない年頃である。
「私のところに来ないか」
「……。そのようなことを……」
「家督を弟に譲ろうと思う。生来病弱な身、だれも反対はしまい」
「もし、おらが参ったらどうなるのです? お子ができたら……。たとえ弟君が家督を継いでも、あなたのお子が生まれれば、その子はどうなるのでしょう。家督争いに巻き込まれるのでは……」
「ふ、む……。しかし、私はそなたと一緒に居たい……」
「おらだって……」
成人したとは言えアオキは強くなったわけではない。無理をしなければ寝込むこともなく、薬師にかかることもないがそれでもユズルハはアオキの身体を心配していた。このまま離れればもう交わることがないかもしれない。
アオキの父はもうこの村を庇護することを必要としておらず、村の方でも求めてはいない。先の戦乱を知らない若い者の中には都を目指すものや、他の村々へ行商に行ったまま帰らない者も出てきた。この村は単なる温泉の湧く小さな村となっている。
押し黙って考えているアオキにユズルハは静かに、それでいて強い決心を感じさせる声を発する。
「アオキ様。おら、あなたの屋敷で働きます。そうして一生おそばに居ます」
「働く――?」
「ええ。飯炊きとして、あなたの口に入るものをおらの手で賄って差し上げたい」
「そ、そんな――そんな事をさせたいのではない」
「いいえ、いいえ。これが一番安心な道でござります。運がよければお顔も見れますし、何より毎日身近に感じられるのですから」
「しかし……」
他の方法を思いつくことが出来なかった二人はこの決意を村長へと告げに行く。ユズルハの両親はすでに他界しており、何か、判断の折には村長に頼むことになっている。
耳が遠くなった村長は何度も二人の話を聞き返し、うーんと唸ってから「良かろう」とユズルハに告げた。ただし、この村の場所は誰にも口外せぬことと、二人が子を成してもアオキの子として屋敷にあげさせないということを約束させた。
「ユズルハをもらって参る」
「のう、アオキ様よ、この娘はいい娘でございまする。どうか大事にしてやってくだされ」
「末永く……」
姿勢よくアオキは頭を下げ、村長は満足げに白いひげを撫でた。
「長よ、お元気で」
ユズルハも覚悟を決めて頭を下げた。
「うむ。もう我々もここへ隠れておる必要もあるまいて。お前の望むようにするがよい」
一つの古い時代が終わることを噛みしめるように村長は自分にも言い聞かせるように何度も頷いた。
かくして、ユズルハはアオキの屋敷で下働きの飯炊き女として奉公することになる。
豊かなアオキの屋敷では使用人は小さく襤褸ではあるが小屋を持て、ユズルハも一つの住まいを持ち住んだ。そこへひっそりとアオキが通い娘――ミズキをもうけたがユズルハが父親が誰であるか他言することもなく、アオキが父親だと想像されることもなく母子二人で慎ましく良く働き暮らしていた。
アオキは本来の生よりも長く生きたのはユズルハのおかげであろう。しかし本来の生よりユズルハは早く死んだ。ミズキはたまに訪れる、物静かな優しい父とどんなに働いても喜びで輝いている美しい母が好きだった。きっと父と母は今は天上で静かに寄り添い合っていることであろう。
「都へ参る前にお知らせしておきたかったのです。本当は一生このことを誰にも話すつもりはありませんでした」
ミズキは隠れ里の由来と場所は伏せ話した。
「そうであったか……。姪であったか。なるほど、通りで……」
「従妹だったのね。似てるはずだわね」
「ご主人様、クチナシ姫様、これで心残りはなくなりました。どうぞお元気で。行ってまいります」
「まて、ミズキよ。叔父と呼んでくれぬか」
「そうよ、私の事も姉と呼んで頂戴」
「叔父上様……お姉様」
「ああ、ああ、お前は兄の忘れ形見であったのか……。もっと顔を良く見せておくれ。うむ、クチナシとそっくりではあるが、兄とよく似た優しいまなじりだ」
「嫌だったら、帰って来なさいよ」
「! 馬鹿を申す出ない!……まあ、万が一里帰りを促されたら、ここに帰ってくるがよい……」
「ありがとうございます。決して粗相をいたしません故……」
三人のしんみりした空気を打ち破る使用人の声が聞こえる。
「牛車がやって参りましたあー!」
瞳に真珠のような涙を光らせ、ミズキは質素な牛車に乗り込んだ。
「兄上……。ミズキをお守りください」
マサキは見えなくなるまで見送り続け、改めてアオキとユズルハの、財産と地位より選んだものによって幸せな生涯であったのだと涙を袖にこぼし故人を偲んだ。