(1)
霧。
あたりを包み込む霧。
それは二、三メートル先しか見えないほど、濃いものだった。
その霧の中を一人の少女が歩いている。
髪は肩のあたりで切りそろえており、どこかの学校なのか、制服を着ている。
少女は、歩いているアスファルトの道路ではなく、左に分かれた農道の何かに気づく。
確かに、鳥やカエル、川のせせらぎに混じって、人の息が聞こえる。
少女はその分かれ道に立って、強くその方向を睨む。
レーザーでも出すかのような鋭い眼光。
すると、その方向の霧が晴れていく。
霧をほうきで履けるなら、スッと払ったように、まっすぐ道が出来た。
「見つけたっ!」
霧が割れた先で、男は息を切らせながらこちらを振り返る。
男は作業服のような、グレーの上下を着ている。
「お前っ、許さないぞ」
男の興奮して裏返ったような声。
口で息をしながら少女の方へ歩き出した。
「逆ギレ?」
ゆっくりと距離が縮まる。
見ると男の方が明らかに背が高い。身長差三十五センチはある、体重差はどのくらいだろう……
格闘をしたら明らかに不利だ。
「あなたこそおとなしくしなさい。もうすぐ警察がくるから」
少女は、さっきと変わらぬ鋭い眼光。
男を怖がる様子はない。
「俺は捕まんねぇんだよ。お前をぶっ倒して逃げるからな!」
男は拳を振り上げて走りはじめた。
その後ろを、霧がまとわりつくように追いかける。
「霧よ」
祈りのような、囁くような声。
「うわっ……」
まとわりついていた霧が、男の体に巻き付くように強く速く流れる。
吹き付けられる霧は、体にぶつかると水になって、顔や手、服もびしょ濡れになっていく。
あまりの風の強さに男は、顔を腕で覆う。
「なんでお前には…… この風が……」
少女と男の間はほんの数メートル。なのにも関わらず、一方へ強く吹き付けるばかりで、少女の髪やスカートは揺れる程度だ。
非科学的な力が働いているかのようだ。
よく見ると、地面から白い煙のように、霧がどんどん舞い上がり、男の方へ吹き付けられる。
今、まさにこの場で作られている霧であり、風なのだ。
さっき男を見つけた時といい、この少女が霧を操っているとしか思えない。
「亜夢ちゃん、警察の人連れてきたよ」
優しい声、というか、緊張感のない声。
少女を亜夢と呼ぶ少女も、同じ制服を来ている。後ろが刈り上げているようなショートボブ。
霧の少女、亜夢と呼ばれた少女は振り返る。
「奈々まだ来ちゃダメ!」
声が届いたのか、届かいないのか、奈々と呼ばれた少女は霧の中を走ってくる。遅れて警官の帽子がうっすら見える。
「あっ、亜夢ちゃん!」
「!」
亜夢は、奈々に気を取られている隙に、男に背後から腕を回され、首を絞められてしまった。
警官、奈々、亜夢、作業服の男。霧の中、全員が確認出来る距離に入った。
「こらっ、それ以上こっちに来るな」
さっきまで男を襲っていた霧の流れはなくなっていて、また周囲の濃度を増していく。
「亜夢ちゃん!」
「君…… 小林恒夫だね。執行猶予中にこんなことをすると実刑になるぞ」
「うるさいっ! 近づくな、この女の首を締めて殺す」
亜夢は強い力で体ごと持ち上げられ、どんどん後ろに下がっていく。
霧が濃くなるのと、距離が離れていくせいで、奈々や警官がどんどん見えなくなっていく。
「亜夢ちゃん!」
亜夢は再び霧を睨みつけた。
「またおかしなことを始めようとしてるな。だが、今度はお前を盾にしてやる」
「小林、こんなことやめるんだ。逃げ切れないぞ」
「だから近づくな!」
「奈々、近づかないで。言う通りにして」
そう言いながら、ずっと上の方の霧を睨みつける。
「そうだ。そこでじっとしてろ」
小林は亜夢の首に腕をかけたまま、ずるずると農道を後ろ向きに歩き続ける。
霧は白色でその流れは分からなかったが、小林と亜夢の上空で激しく動いていた。
警官と奈々の顔は霧の向こうに消えてしまった。
向こうからこちらも見えないだろう。
「さあ、そろそろこんなところはおさらばだ」
そう言って絞めていた首を放した。
亜夢は喉を抑えながら農道にしゃがみ込む。
小林は亜夢の正面に回った。
「安心しろ。逃げるのはお前をボコボコにしてからだ」
小林の拳が振り下ろされる。
「(いなずま)」
祈りのような小さな声。
言ったか言わないかの間に、雷が小林の体に走る。
焦げる程の電流はない。
が、痺れて気を失うには充分だった。
筋肉が痙攣するように振動して、亜夢の顔に拳が振り下ろされることはなかった。
「……ふぅ」
亜夢は立ち上がると、声を上げた。
「奈々っ、もう大丈夫よ!」
霧の先で影が動いた。
しばらくすると奈々と警察官が二人を見つける。
「……おい、君、大丈夫か?」
警官は倒れている小林に問いかけた。
「君、彼に何をしたんだ」
「……何も。いきなり雷があって」
「かみなり?」
警官は小林が生きていることを確認し、無線で応援を呼んだ。
奈々がその場を少し離れてから、亜夢に手招きした。
「おい、君たちまだ帰っちゃダメだ」
「ちょっと話をするだけです」
亜夢が近づくと、奈々は耳元に手を当てて言った。
「(超能力を使ったの?)」
亜夢は、小さくうなずいた。
今度は亜夢が奈々の耳元に手を当てて言った。
「(空気を激しく動かして、電気を起こしたの)」
奈々は指を立ててクルクルと回した。
亜夢はそれをみてうなずき、笑う。
奈々も笑った。
「とにかく、良かった」
救急車と、警察官が後何人かきて、二人はことの顛末を話し始めた。
「学園へ行く途中、急にあの男後ろをつけてきて」
「二人で、気持ち悪いねって話してると」
「急に走りはじめて、私達を追い越して」
「それは別に問題ないじゃないか」
奈々が亜夢の方を見て、うなずく。
「そうじゃないんです。前に回ってこっちを向きながら『ほら……』とか言って」
「どこが痴漢なんだ?」
「だから、『ほら……』って言って」
亜夢は、小林がしたような仕草をした。
股のところのチャックをおろすように手を動かす。
「?」
警官は真面目な顔で首をかしげる。
亜夢は腰を突き出すようにして言った。
「下半身を露出して来たんです」
「おお、そうか」
亜夢と奈々は顔を見合わせて、小さな声で話す。
「(そうか、じゃねぇだろ)」
「(わざと言わせてる感じしますね)」
「で、それだけかな?」
何かメモを取っているのか、取っていないのかわからないような感じだった。ただ、会話は録音はしているようだった。
「そんなもんじゃすまなくて、奈々の手をとって、強引に下半身にもっていくもんだから、あいつの腕を引っ叩いてやったら、私の肩を掴んできて」
「おお…… なんか痴漢らしくなってきたね」
「……」
警官の表情をみて、亜夢は額に手を当てた。
そして、パトカーの方を指さして言った。
「女性の警官の方に変わってもらえませんか?」
目の前のメモをとっていた警官が手招きすると、女性警官がやってきて、小型録音機を渡された。
「男性には話し辛いんだと」
「それで、どうなったんです」
「あいつが下半身を擦り付けてくるから、振り払って逃げたんです」
「えっと…… 被害は亜夢さんだけ?」
「奈々も手を掴まれました」