最終話 運命のしずく・後編
その空間には、まるで音というものが無かった。
さながら暗黒宇宙に放り出されたかのような、果ても分からないほど広大な薄暗闇の世界が、凝縮された星間物質とでも呼ぶべき白い霧のような何かを充満させどこまでもどこまでも続いていた。
それでいて足元には何故か、目には見えないが固い感触の足場らしき何かが存在するらしく、空間を彷徨い歩くゴクウは動けば動くほど、混迷の思いを深めていくばかりであった。
「ここは……何処だ? 牛魔王は一体何を……?」
訝しげに辺りを見回すゴクウ。
だが生憎、ヒントになりそうな物体は何処にもない。
このままでは永久に出口のない迷宮を彷徨う羽目になる。そう危惧した直後だ。
「……うえーん……うえーん」
唐突に暗闇の奥から声がした。
聞き違いでさえなければ、極めて幼い少年のような声。
それも、明らかに泣いている声だ。
「うえーん……うえーん……うえーん」
ゴクウは、懸命に目を凝らした。するとそこに、本当に幼い少年の姿があった。
そんな馬鹿なという思いと同時に、一体どうやって迷い込んだのだろうという疑念がゴクウの中に湧き上がった。
その少年は、立ち込める霧の中で膝を折り、しゃがみ込んでいた。
服装や髪形は過剰なぐらい清潔で、艶があり、整っている。どうやらそれなりに高い身分の子供のようだった。少なくとも確実に育ちはいい。格式ある家柄だろうか。
それにしても、あまりに悲痛そうな声色だ。まるでこの世の終わりの様な。
事情は分からないが、ゴクウは見ていて心配になってしまった。
「お、おい? 大丈夫か……なに泣いてんだ?」
「……うえっ……ひっく……あのね……父さまが……母さまが……」
「と、父さま? 母さま?」
少年が顔を上げ、縋るような表情をしてゴクウを見上げてくる。
ゴクウは顔を覗き込もうとして……思わずギョッと身を引いた。
少年は妙に可愛らしく整った顔立ちをしていた。が、それが理由なのではない。
角だ。少年の頭には二本の角が確かに生え揃っていたのだ。
「お、おまえ……?」
「ひっ……!?」
ゴクウが近づこうとすると、その少年はいきなりビクッと怯えた様子を見せた。
その時点で泣き腫らしていた瞳が、更なる恐怖を察知したかのように、大きく大きく見開かれる。少年は頭を庇うように縮こまり、懇願に似た叫び声を発した。
「ごめんなさい……ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「お、おい急にどうした!? 何もしねえよ! しっかり……」
何の前触れもなくパニックを引き起こした少年を心配し、ゴクウが近づいていこうとしたその時、周囲にフッと暗い影がかかった。
何となしに頭上を見上げたゴクウは、一瞬遅れて仰天した。
ゴクウと少年目掛け、天からそれは巨大な巨大な拳骨が降ってきたのだ。
「おわあああああッ!?」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさ――――」
巨大な拳が瞬く間に、怯える少年を叩き潰して一帯に衝撃波を起こした。
煽りを受けてゴクウは後ろ向きのまま吹っ飛ばされ、どれ程移動したかもよく分からないまま、見えない地面に叩きつけられた。
何とか起き上がって体勢を立て直すものの、ゴクウは今しがた見たものに、戸惑いを隠しきれなくなっていた。
「……ど、どうなってんだこりゃ!?」
「――――これは、かつて起きた現実だよ……」
「この声、牛魔王か!」
牛魔王の深く重々しい声が、空間全体で反響するようにしてゴクウを包み込んだ。
あの異次元へのゲートを作り出した後、牛魔王も同じく空間に突入してきていたのだろうか。それにしても、声が全方位から聞こえてくるため居場所が特定できない。
意味不明な状況へのイラ立ちから、ゴクウは思わず叫び返した。
「どこにいやがるッ!」
「……うえーん……うえーん……」
敵の答えの代わりに返ってきたのは、またしてもあの泣きべそ声だ。
先程の少年が、何事もなかったかのようにゴクウの斜め後ろにしゃがみ込んでいた。いつの間にか不意を突く様に出現した事実と、あんなことがあっても無傷のままでいる謎とで、ゴクウは混沌の渦へと叩き込まれる。
「ま……また……!?」
「――――我が父母は、ギューマ党の先代の指導者であった。当然我も後を継ぐことを余儀なくされた……その意義すら何ひとつ見出せぬ、幼き頃からずっと……」
そんな言葉が聞こえた直後、天空に巨大な女の顔が出現した。
それは目がつり上がり、口が耳元まで裂けた、いわゆる鬼婆の類だった。
驚く間もなく、鬼婆がその巨大な口をカッと開くと、甲高く耳障りな絶叫が空間中に轟いた。ガラスがあったら、一枚残らず砕け散りそうな破壊音波だ。
ゴクウは思わず怯んでしまい、必死に両耳を塞いだ。
「ぐわあああああ……な、なんだよアレ……!」
鬼婆の絶叫によって、ゴクウの周囲の空気が次々と破裂した。
立て続けに発生した小さな衝撃波の連鎖で、ゴクウはまたしても吹っ飛ばされた。
すると視界の端に、固い岩盤のような何かが入ってきた。
懸命に体勢を戻したゴクウは、その岩盤の上に軟着陸を果たす。
いつの間にか周囲の世界は宇宙空間から、ある種の石切り場を思わせる荒野のような外観の場所に移り変わっていた。あまりの無秩序さにゴクウが混乱する中、変わらず牛魔王の声はそこら中から響き渡ってくる。
「――――一体何度、神に救いを求めたか分からぬ……だが我の元にそれは決して差し伸べられなかった。そればかりか育ての恩を忘れた不埒者として……我が肉体、そして精神への懲罰は一層の苛烈を極めていった……」
「畜生……出て来やがれ牛魔王ッ!」
「――――我は、悟ったのだよ」
その時、ようやく牛魔王がその姿を現した。
ゴクウと同じ石切り場の只中に、フッと虚空からフェードインしてきたのだ。
警戒しニョイロッドを構えるゴクウを相手に、牛魔王は朗々と語り続ける。
「弱き者こそ、恵まれぬ者こそこの世の真理。その救済のためとあらばいかなる手段も厭われるべきでない、とな……!」
「く……っ」
「皮肉なものよッ!」
突如として、絶叫した牛魔王が腰の牛魔刀を引き抜き、切っ先を地面に突き立てる。よろめくゴクウ目掛け、放たれた稲妻が地を這うように一直線に突撃してきた。
慌てて飛び退いた直後、間一髪、今まで立っていた場所が地雷のように爆発した。
空中でバランスを崩し、今度は着地に失敗して、背中をしたたかに岩場に打ち付けてしまうゴクウ。痛みよりも、追い詰められているという実感そのものが、ゴクウの顔を苦痛に歪ませた。
「望まぬ人生を強いられ、絶望と孤独の淵に追いやられることで! 結果的に父母の思想こそ真理であったと思い知る羽目になるのだから! 心の平衡など特権階級の戯言! 聖天の思想は罪! 偽善によって時空を支配せんとする、聖天界は打倒されねばならん……我が生命に宿る価値とはそのためだけのもの! それ以外の意義など、ただひとつとして求めてはならんのだ!」
「まさか……まさか、この空間でさっきから起きてる出来事は全部……!?」
先程から、そんな予感はし始めていた。
だが口にするのが怖かった。それはある意味で、最悪の事実と向き合わねばならなくなるからだった。
ゴクウはとうとう狼狽を隠せなくなる。
「全部……牛魔王、オマエ自身の記憶だって、そういうことなのか!」
「そうだ! 牛魔界とは一種のサイコゾーン!」
牛魔王が高らかに叫んだ。
「我が曲界力を糧に生み出した……絶望の記憶が噴き出し渦巻く悪夢の空間! いまはこの空間が我自身……牛魔王ダルマという存在そのもの! 我が生命そのもの!」
そう言って立ち止まった牛魔王の肉体に、変化が起き始めた。
全身をぶるぶると震わせ……そのシルエットが、瞬時に異形のソレへと変質していくのだ。今やその姿は、地獄の獄卒とでもいうべき、半人半牛の魔獣そのもの。
変貌を遂げたケダモノが手にした刃を振り回し、ついでに口から涎を飛び散らせた。
牛魔獣王の誕生である。
「ぎええええええええええええええええええええええッ!」
正気を失ったように雄たけびを上げて、ゴクウに飛び掛かって来る牛魔獣王。
確かな剣技に、狂気の加わった乱れ刃は、ゴクウに剣筋を読ませなかった。
圧倒。圧倒。ただただ圧倒。
辛うじてガードをしても、桁外れに上昇した剣圧は御しきることが出来ない。
距離を取ろうとし、ゴクウが横っ飛びに移動すると――――摩訶不思議、いつの間に転移したのやら、ゴクウと牛魔獣王は古代中国を思わせる様式の、広い街並みの中へと足を踏み入れていた。
「ちくしょ――――痛ッ! いてっ! なんだよいきなり!?」
立ち上がりかけたゴクウの頭に、前触れなく小石がぶつかった。
それが飛んできた方向を見ると、いつの間に出現したのか、首を奇妙な角度に傾げ、薄ら笑いを浮かべる無数の市民の姿があった。彼らは出し抜けに、拾った小石を片っ端からゴクウ目掛けて投げつけ、ケタケタと不気味な声を響かせ始めた。
「うわ、ちょ、やめ……痛! 痛ててててて! やめろってのに!」
「何処へ行こうとォ~、逃げられはせぬぞォッ!」
居並ぶ市民の背後から、牛魔獣王がねっとりとした足取りで現れて言った。
「この我がァ、何処へ行こうともギューマ党の後継ぎとしか見做されず……それを憎む者たちから無条件に憎悪されェえ、排撃されたようになあああああああ!」
「畜生、こんなもの……」
ズズンッ! といきなり巨大な地響きがした。
驚いたゴクウが抵抗するより早く顔を上げると、そこには市街全体を見下ろすような巨大な人間がひとり、僧衣あるいは法衣に身を包んだ姿で立ちはだかっていた。
しかもその容姿には見覚えがある。
足元のゴクウを見下ろすその顔立ちは、なんと信二郎に瓜二つだったのだ。
あまりにも見慣れ過ぎた姿。ゴクウはその意外さに、一瞬だけ硬直してしまった。
「信二郎!? ……いや、これはお師匠さんなのか!?」
戸惑うのも無理はない。しかもそんなゴクウに対し、巨大三蔵法師はいきなり嘲笑を浮かべてみせた。
振り上げた足が、容赦なくゴクウの頭上へと落下させられる。
ウケケケケケケケ!! ヤリナオセルヨ――――!!
「うわあああああああーっ!?」
あんまりな光景に呆然としていて、回避行動が遅くなった。
眼前に叩きつけられた衝撃で、無様にも地面にひっくり返ってしまうゴクウ。
そんなゴクウを見下ろし、指差して、巨大三蔵法師はまたも甲高い笑い声を上げた。
それは、かつて愛した師匠の姿をしたものが、誰かを嘲弄して面白がるという何とも不愉快な光景だった。幻影と分かっていても、目を逸らしたくなる。
ヤリナオセルヨ! ヤリナオセルヨ! ヤリナオセルヨ! ウケケケケケケケ!!
ゴクウはやがてその意味に気が付き、そして哀しい表情になった。
どこまでもどこまでも、やるせない感情が込み上げてくる。
いつかの戦いで敵が言っていた言葉の、その真意が初めて明らかになった。
「これが……これが牛魔王、オマエの眼から見たお師匠さんだってのか……お師匠さんの気遣いが……あんな馬鹿みたいに真っ直ぐなヒトの優しさが……オマエにはこんな風に映っちまったっていうのか……!」
牛魔獣王のくぐもった笑い声と、巨大三蔵法師の嘲笑の声が重なり合って、ゴクウに降りかかる。
「畜生……こん畜生――――ッ!!」
悔しさで絶叫するゴクウを狙い、巨大三蔵法師の掌がゆっくりと落下してきた。
* * *
「ここ何処なの!? 学校みたいだけど違うよね!?」
「そんなのボクに訊かれても……わああああ!?」
背後を振り返った信二郎は、千手と喋るのを中断して全力疾走を再開した。
灰色の巨大な鉄球が、王羅学園の廊下によく似た通路を目一杯に占領して、まっすぐ信二郎たち目掛け転がって来る。追いつかれたら、一巻の終わりだ。
あの巨大な渦に飲み込まれて、信二郎たちが飛ばされたのがこの場所だった。
学校の廊下によく似た迷路のような場所。しかし空間全体が、薄紫色の水彩絵の具を滲ませたような、なんとも異様な色彩に包まれているのだ。
ゴクウとはぐれた二人を待っていたのは、さながらアクション映画の様な大掛かりなトラップの数々。信二郎は千手と共に、生き残るのに必死だった。
「牧奈、こっちだ! 物陰に!」
「…………うんっ!」
先程から信二郎は、千手の手を強く握りしめている。
逃走先へ千手を誘導しようとするあまり、自然とそうしていたのだ。
手を引かれつづける千手は、ピンチにもかかわらず、何故かとても嬉しそうだった。むしろ一層の信頼と、二度と離すまいという決意とを込めて、信二郎の手をギュウッと握り返す。
ふたりは、進行方向にあった用具入れの影に身を潜めた。
殆んど抱き合うように、寄り添う男女の鼻先を、天井まである大玉がゴロゴロと音を立てて掠めていく。巨大な影が差し掛かり、やがて遠くに去っていった。
完全に通り過ぎるのを待ってホッとしてから、ふたりはお互いが密着していることに初めて気が付き、赤面して咄嗟に相手から離れる。
「あっ……なんか、ごめ……」
「ううん……ありがとう。守ってくれて……」
互いに俯いてしまい、チラッと顔を上げるとまた一斉に赤面する。
だんだん間が持たなくなってきたふたりは、互いに別方向に顔を背けた。
と、信二郎は目の前に教室があることに気が付く。
「と、とりあえず、中で少し休もっか……?」
「そうだね、さっきから走りっぱなしだし……」
提案が受け入れられたということで、信二郎は無造作に目の前の扉を開けた。
途端に、ガチリと固まってしまう信二郎。
後に続いた千手も同様だ。
どういう訳だか、教室内では大勢の女子生徒らが着替えの真っ最中だったのだ。
一瞬の間があって、甲高い悲鳴を響かせる女子たち。
入口前で固まったままの信二郎の視界を、千手が大慌てで遮った。
「蓮河くん、見ちゃダメッ!」
「わわっ、ちょっと牧奈!」
ふたりが揉み合っていると、その背後で、女子たちが一斉にバトラー兵に変わった。
それに気付いた信二郎と千手、予想外の展開に、揃って素っ頓狂な声をハモらせる。
「「「ウシシ――――ッ!!」」」
「「わあああ――――ッ!?」」
バトラー兵軍団は、教室内の備品を手当たり次第に引っ掴み、投げつけてきた。
信二郎たちは飛び跳ねるように逃走を再開した。息もつけないとはこのことだ。
「くそ……ソラは、ゴクウは何処にいるんだ!?」
「ッ! 危ない、蓮河くん!」
何かを察知して叫んだ千手が、咄嗟に信二郎を引き止める。
直後、ふたりの足元に紫色の稲妻光線が幾重にも着弾して、火花を飛び散らせた。
声を上げる間もなく、思わず転倒する信二郎たち。
そこにマーランが、哄笑を響かせ、進行方向の廊下からゆらりと姿を現した。
「ここから生きては帰さんぞ」
「マーラン……!」
ニタニタ笑いを浮かべる宿敵の登場に、信二郎は思わず歯噛みする。
そもそも、この悪魔との遭遇が全ての発端だったのではないか。
「この牛魔界では我らの力は数倍に跳ね上がる。聖天大聖ゴクウも今頃は、この空間の何処かで兄上が始末していることだろうさ」
「なんだって!?」
「蓮河くん、あの水晶玉だよ!」
そのとき千手が、マーランの手にした例の水晶玉を指差して言った。
見れば、玉の内部ではさっきからグルグルと、怪しい光が渦巻き続けているのだ。
おそらくこの異空間を含め、発動した術を維持する役目を果たしているのだろう。
牛魔獣を生み出すのにも使われるぐらいだから、実質、その水晶玉こそがマーランの力の源と言うべきなのかもしれない。信二郎はすぐ、千手の意図を察知した。
「きっと、あれを壊せたら……」
「先刻のような失態、繰り返さんぞ!」
マーランが再度、水晶玉を掲げるとすかさず電撃の雨が降る。廊下のいたるところで火花が炸裂し、信二郎は咄嗟に千手を庇うようにして、その場にしゃがみ込んだ。
弱点が分かっても、これではどうすることも出来ない。
警戒し、口惜しそうにする二人を見て、マーランは嘲り笑いを浮かべた。
「小僧、貴様の望みとは死して救済を得ることだったハズではないか……私が今一度叶えてやる。大人しくくたばれッ!」
「……そうだ!」
そう、全てが始まったあの日の出来事。
マーラン自身が口にしたそれがヒントになり、信二郎はひらめきを得た。
敵の、もうひとつの弱点。指摘されるのが堪え難い、最大級のコンプレックス。
冷静になってみれば、非常に馬鹿馬鹿しい思いつきでしかなかった。
だが他に手がない以上、何であれ試してみるしかない。
即座に、信二郎は出来るだけ大げさに、ひたすら情けない声を上げ始めた。
「う、うわぁ~、もう駄目だぁ~おしまいだ~助けて~牧奈助けてぇ~!」
「ちょ……蓮河くん!? しっかりして……」
いきなり自分の服の裾を掴んでヘタレ出した信二郎に、千手は慌てる様子を見せた。
普段からヘタレてばかりなので、それなりに真に迫って見えたのだろう。
微妙に悲しい話だが、それこそが狙いだ。
マーランからは表情の見えない角度であることを確認し、信二郎は、しゃがみ込んできた千手に咄嗟に目配せしてみせた。千手は一瞬だけポカンとなっていたが……やがて「オッケー」と小声で応じてくれた。
全ての意図が伝わった訳ではないだろうが、そこはそれ。
信二郎を信頼してくれたのだろう。即座に、信二郎は猿芝居を再開した。
「ボクはおしまいだ……ぺったんこ悪魔に殺される……ウルトラぺったんこ悪魔に!」
「か、可哀想な蓮河くん! あんなぺったんこ悪魔に狙われて! 本当に、可哀想!」
声に明らかに戸惑いが混じっていたが、大丈夫だろうか。
こんな慣れない台詞を言わされる千手も、大概気の毒だと信二郎は思った。
しかし早速、効果はてきめんの様子。
マーランは思わず足を止め、こめかみをピクリと震わせていた。
「ぺった……!? き、貴様らよくも……!」
「せめて……せめて死ぬ前に一度だけ、キミの大きな胸で! 大きな胸でッ! ボクを抱きしめてくれ! お願いだ!」
「う、うん! 思いっきりおいで蓮河くん……!」
怒るマーランを他所に、なるべく強調する様に言っておく信二郎。
こうなると千手も覚悟を決めたと見え、今度はなるべくマーランに見せつけるような格好で、信二郎の頭を力いっぱい自分の胸元へと抱き込んだ。
ふわりとした、柔らかい弾力が信二郎を包み込む。
普通なら喜ぶべき事態、だろうがこの場合はひたすら恥ずかしかった。
なにせ赤の他人に見せつけねばならない。信二郎は顔から火が出る思いだった。
その上、千手がヤケクソになっているのか、やたらと力を込めてくるので、信二郎は若干息苦しささえ感じ始めていた。このままでは窒息してしまいそうな勢いだ。
「な……ななな……!」
案の定、マーランは激しく動揺を見せていた。
赤面し、ギリギリと歯軋りをみせ、やがて怒りの表情を浮かべ始める。
「貴様ら……ッ、人前で何を晒すか――――」
「牧奈、今だッ!」
「うん!」
「え――――ぐわあっ!?」
まさかそこで、丸腰の人間が飛び掛かってくると思わなかったのだろう。
予想外の反撃で対処が遅れたマーランは、信二郎と千手の全力の体当たりを喰らって呆気なく、床の上にひっくり返ってしまった。
「蓮河くん、早く!」
その手から、即座に水晶玉を奪い取って立ち上がる信二郎。
抵抗しようとするマーランだったが、千手が腕をねじり上げたことで、殆ど身動きもとれなくなる。
「よ、よせ小僧! 後悔するぞ!」
マーランは、尚も往生際悪くもがきながら言った。
「この先、何をしてもムダなんだぞッ! 貴様は死ぬことでしか……死ぬことでしか、救われない!」
「うるさい! もう惑わされるか!」
悪魔のささやきを振り払うように、信二郎は奪った水晶玉を高々と頭上に掲げた。
「ボクは生きる! 生きて、生き続けて……絶対に、幸せになってやるんだッ!」
魂の咆哮が上がる。
信二郎は水晶玉を、あらんかぎりの力を込めて固い床に叩きつけた。
グシャッという音を立てて玉が粉々に砕け散り、マーランの絶叫が響き渡った。
* * *
ぐおおおおおおおおおお……!
異変は、突然に発生した。
ゴクウを追い詰めていた牛魔獣王と、巨大三蔵法師が、急に苦しみ出したのだ。
呆気にとられるゴクウの前で、悶える牛魔獣王に、巨大三蔵法師に、そして広がった異空間の天球全体に、ビキビキと音を立てて亀裂が生じていった。
敵の攻勢が一時的にストップする。
信二郎たちがマーランの水晶を破壊したためなのだが、ゴクウは知る由もない。
何であれ、この機を逃すまいとゴクウは立ち上がると、己が右腕を引き絞った。
「サトリウム光線!」
突き出した指先から、粒子を束ねたような一条の光線が放たれる。
天高く放たれたそれは巨大三蔵法師に命中すると、木端微塵に吹き飛ばした。
爆発の煽りを受けて、牛魔獣王が思わずよろめく。
「レーザーロッド!」
ゴクウは続けざまに、決然たる顔でニョイロッドに青白い光の刃を生じさせた。
必殺武器を構えたゴクウに、牛魔獣王が激情のままに突撃していく。
今ここに、最終決戦の火ぶたが切って落とされた。
「我に同情など必要ないィィィィィッ!」
古代中国風の町並みを全力で駆け抜けながら、ゴクウと牛魔獣王は斬り結ぶ。
刃と刃がぶつかり合い、鋭く金属の擦れ合うような音が響き渡る。
剣戟の余波で、並び立つ石柱や貨物が片っ端から切り裂かれ飛散していく。
「我は幸せだッ! たとえ強いられたものでも、暴力によって刻まれたものであっても……幸せでなければならんのだ! そうでなければ我は一体何のため生まれてきたッ! 我が堪え忍んできたこれまでの生涯は……無価値だったとでもいうのかァッ!?」
感情と共に、剣先を走らせる牛魔獣王。
それらを敢えて受け流さず、真っ向から受け止めていくゴクウ。
そうする間にも、戦いの場は再び、白い星間物質に満ちた暗黒宇宙のような場所へと移行していった。
「俺はもう、テメェの気持ちが分かるだとか、軽々しいことは言えねえ……だけどな!」
守りに徹していたゴクウが、その時ようやく攻めに転じた。
一対の光の刃を華麗な動きで次々敵に叩きつけながら、ゴクウは叫ぶ。
「あんなモン次から次に見せつけられて……それでもテメェが幸せだなんて信じられるほど……俺はお利口さんじゃあねぇんだよッ!」
「同情するなァァァァァァァァァァァァァッ!」
ゴクウの言葉により一層、逆上して剣を振るっていく牛魔獣王。
しかしその太刀筋は、度を越した激情によって頻繁に隙を生じさせ始めていく。
「党への貢献こそ至上の喜び! 我が命の全てはそのための弾丸! 聖天の思想は罪! 罪! 罪ィィィィィッ! 罪を懲罰するは究極の使命ッ! それに勝る喜びなどありはしないィ! 故に我は幸福なのだァァァァァッ!」
「……だったら!」
ゴクウは牛魔獣王の剣を受け止めると、流れるように動きを押さえ込み言い放った。
「少しはそれらしい顔しろよ! 苦しそうな声ばっか出してんじゃねえ! さっきからテメェがボロボロ流してる、その涙は一体何だ!?」
「な、み、だ……?」
牛魔獣王の声のトーンが、その時初めて下がったように見えた。
魔獣化した顔面に手をやった彼は、その頬が熱い液体にまみれていることに気付き、予期せぬ己の感情に、小刻みに震えはじめていた。
「分からん……歓喜の涙ではないのか……?」
「……テメェが、信二郎にあんな話をした本当の理由が……今ようやく分かった……」
牛魔獣王と鍔迫り合いを繰り広げながら、ゴクウは言った。
彼女自身、気が付けば泣き出していた。心の底から、辛そうな声と表情だ。
それを見て牛魔獣王さえ一瞬、毒気を抜かれたようになった。
「俺を追い詰めるのだけが目的じゃねえ……それもあっただろうが……テメェは、心のどっかで信二郎と自分を重ねていたんだ。何もかもが生まれに縛られてたアイツを……もうひとりの自分だと思ったんだ」
「…………違う」
「テメェがそんな気持ちを押し殺しながら、ずっと生きてきたなんて……ゴメンな……今まで気付いてやれなくて……本当にゴメンな……」
「違う……違う違う……そんな風に憐れむな……!」
ゴクウに涙ながらにそう告げられ、牛魔獣王の威勢は弱まった。
構えていた剣に力が入らなくなり、怯えた様な態度で後退する。
しかし遂には進退窮まり、牛魔獣王は半ば捨て鉢になってゴクウに斬りかかった。
「我のことを……憐れむな――――ッ!」
「ぜぇぇぇぇぇぇいやぁぁぁぁぁぁッ!」
レーザーロッドが一閃。牛魔刀の刀身が真っ二つになって宙を舞った。
愕然とする牛魔獣王に対し、引導を渡さんとするゴクウ。
「ゴクウ・ハイパーライトニングッ!!」
光の刃を叩きつけ、返す動きでもう一方の刃をも浴びせかける。
二筋の光の軌跡が交錯し、牛魔獣王を切り裂く巨大なクロスを描き出した。
通常の倍近くのエネルギーを注ぎこまれ、牛魔獣王の動きが完全に停止する。
勝負は決した。牛魔獣王の肉体の亀裂が全身に拡大し、声にならない声が漏れた。
「……正直、足しになるかは分からねえ」
ゴクウが、静かな口調で言った。
「余計なことも言っちまうかもしれねえ。だけどもし、この先ひとりぼっちに耐えられなくなったときは……遠慮しないで、俺を頼りにこい。何もかもは理解してやれねえが……一緒に悩むことぐらいは出来る。一緒に悩んで、考えて……それだけでも、今までとは違う可能性が、見つけられるかもしれない。俺と信二郎が、ぶつかり合って互いに前に進めたみたいに」
「ゴクウ、貴様……」
「任せとけ……これでも一応テメェの妹で……その上、女神さまなんだぜ」
ゴクウはそう言って、ちょっとだけ寂しそうに笑った。
同時に牛魔獣王の変身が解け、元通りの、牛魔王の姿へと戻っていく。
その肉体が爆裂する寸前の一瞬、彼は泣き笑いを浮かべていたように見えた。
もはや術の発動が維持できなくなり、牛魔界は崩壊していく。
牛魔王の爆発で、連鎖反応を起こしたように空間全体が吹き飛び、たちまちのうちに霧散していく。一人の男の心によって大きくねじ曲げられた現実が、瞬く間に元の形を取り戻していく。
そして気が付けば……ゴクウたちは全員、学園の敷地内に帰還していた。
透き通るような青空の元、ゴクウは学園の屋上へと着地する。
ボロボロになった牛魔王とマーランが、何処からともなく地上に落下して来た。
完全に気を失った状態で、重なり合うように倒れ伏す牛魔兄妹。
そこから更に少し離れた場所では、信二郎と千手が半ば抱き合うような姿でしゃがみ込んでいた。ふたりは周囲が明るくなったことに気が付き、そっと顔を上げた。
「……戻って来れたんだね私たち」
「ゴクウが勝ったんだ……きっと」
ふたりの会話は、ゴクウには離れていても聞こえていた。
(違いますよ、信二郎……)
しかしゴクウは黙って天を見上げ、降り注ぐ光を瞼に焼き付ける。
(これは貴方たち二人が……人間の力がもたらした勝利です)
* * *
■牛魔王ダルマ




