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天泣  作者: 宝積 佐知
影辻
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⑻紫電一閃

 その歌を何処で聞いたのかは思い出せない。耳の奥に残るその歌を驟雨が口遊んでいたことをきっかけに、理解出来なかった英詞の意味を探ろうと思ったのだ。

 帰宅ラッシュに鉢合わせてしまった電車に揺られながら、自宅の最寄駅を目指す。夜の町は闇を恐れるかのようにして幾つもの灯りを灯している。明るい空には星は見えない。ドアの傍で街並みを見詰める霖雨の眼は酷く穏やかだった。

 携帯にはバイト先からの着信が数件入っていただけだった。また、すっぽかしてしまった。今月も生活費はギリギリだというのに、奨学金を受ける学生としてはバイトをしないのなら帰って勉強するべきだろう。それが授業すらすっぽかしてしまった。

 後悔は無い。ただ、不思議な感覚だった。

 電車に揺られていると、横に立っている林檎が眠そうに目を擦っていた。こんな遅くまで林檎を連れ回すことになるとは思わなかった。

 駅に到着しても、降りるのは僅かな乗客だった。寂れた小さな駅は薄暗い。

 霖雨のアパートも、林檎の家も駅から近い。畑の多いこの土地には外灯が少ない。眠そうな林檎を家まで送り届け、自宅に向かう。付いて来ようとする林檎を無理矢理帰した時の、不満そうな顔に笑いが零れた。

 今日も死んだように闇に沈むアパート。二階建、十部屋。全て埋まっている筈のアパートに明かり一つ無いというのはどういうことなのだろう。それは引っ越して来た当初から何も変わらない。

 習慣のように郵便受けを確認する。掌大の四角いケースと、CDウォークマン。それは間違いなく驟雨が此処に来た証拠だった。けれど今、彼は此処にいない。

 闇の中にある自宅の扉を開き、灯りを点ける。当然だが、今朝出て来た時と何ら変わらぬ状態に安心した。

 時刻は九時十分前。制服で外をうろつけば補導される時刻に差し迫っている。汗まみれのYシャツを洗濯機に放り込み、一見すれば大学生のような服装に着替える。細身のジーンズは足を通すと冷たかった。

 着替えを終えたからと言って、驟雨の居場所に心当たりがある訳ではない。けれど、凪いだ海のように静かな心で、霖雨は驟雨の残したウォークマンを開いた。黒いジャケットのCDケースから、黒地に白い文字でバンド名が記されたCDを取り出す。慣れない手付きでセットすると、霖雨はそれを鞄に突っ込んで家を出た。

 節約しなければいけない身と知りながら、家の灯りは消さなかった。この光が誰かの道標になるように。

 静かな街並み。ウォークマンの電源を入れる。耳の奥に響く歌を探して再生する。何処で聞いたのか覚えていないけれど、それは確かにあの日、驟雨が口遊んでいた歌だった。弾かれる絃は静かなメロディを紡いで行く。

 その曲の歌詞がどんな意味を持つのか、その時には解らなかった。街灯を頼りに、小さな冊子になった歌詞カードを見詰める。黒地に小さな白い文字が並んでいる。


願い事をしようぜ、簡単なやつを。

君が独りぼっちじゃなくて、傍に誰かがいてくれるように。

悲しい時には、誰かがその手を掴んでくれるように。


 対訳を読んで、まるで驟雨の声が聞こえるようだと思った。

 手荷物は全て鞄に押し込んで、赤いタグが目印になる黒いショルダーバッグを担ぎ直す。



(なあ、驟雨)



 話がしたい。無性にそう思った。

 駆け出したその視界の端に、いる筈の無い林檎の姿が見えた。



「林檎!?」



 眠そうな目で微笑む林檎の傍には、自転車がある。



「これ、乗っていいよ。その代わり、ちゃんと返してね」

「ありがとう……」



 受け取りつつ、乗れるかと不安に思った。最後に乗ったのは小学校の自転車教室だ。こんな高価なものは一度だって買ってもらったこともないし、乗せてもらったこともない。

 ぐ、と覚悟を決めてサドルに跨ると、後ろで林檎が言った。



「明日、一緒に学校行こうね」



 林檎は笑っているような気がした。振り向かないまま、林檎に届くようにと声を張り上げる。



「ちゃんと、起こしに来いよ!」



 ペダルを踏み抜いた瞬間、予想以上の勢いで自転車は走り出した。バランスを崩し、蛇行するが立て直す。振り返る余裕など無いまま、薄暗い夜道を駆け抜けていく。

 勢いよく通り過ぎていく夜の街並みを楽しむ余裕は無い。足元からまた、小さな光の粒子が浮かび上がる。



「――心配、するなよ」



 まるで、春馬が自分の身を案じて代わろうとしているように感じたのだ。

 春馬と逢ったのは、時の扉と呼ばれる力で、自らの心の闇から驟雨と林檎が助け出してくれた時だ。光の出口で、凭れ掛かるようにして此方を見ていた自分とそっくりな、金色の光を目に宿した青年。



「驟雨の声がするんだ。呼んでる」



 まるで、此方を気遣うように周囲を漂う光の粒子。町を包み込む違和感が何なのか少しずつ解り掛けて来た。夜の闇ではない。身震いしたくなるような人の闇。深い憎しみが、怒りが、悲しみが溢れている。

 あのバスジャックの時、意識は春馬と切り替わった。静かな闇の中で夢を見ていた。誰かが呼んでいる。それが誰なのか、何なのかずっと解らなかった。膝を抱えて蹲る小さな子ども。

 道が坂に差し掛かると、サドルから起き上ってペダルを漕ぐ。まるでトレーニングだと苦笑する。

 耳に当てたイヤホンから流れるメロディに泣き出したくなる。もっと早く気付いてやれば良かった。もっと早く救ってやれば良かった。彼等はずっと叫んでいたのに。



「なあ、春馬。俺は気付いたんだよ」



 自転車のヘッドライトが砂利道を照らす。散り際の桜が春の終わりを告げているようだ。



「人は独りきりじゃ生きられない。こうしている俺は多くの人に支えられて、多くの人の犠牲の上に生きてる。そして、その中で皆、自分の勝手な願いの為に何かを傷付けてる。それが正しいとも間違ってるとも俺は思わない。でもね」



 光の粒子がふわりと頬を撫でる。霖雨は言った。



「友達が出来たんだ」



 この星の無い夜空の下で、彼等はきっと孤独を抱えている。



「弱っちい俺は守られてばかりだったけど……、俺だって救ってやりたいんだよ。目に見えるものを、手の届くものを、全部全部助けてやりたいんだよ」



 力を貸してくれ、と呟いたと同時に、光の粒子が一気に溢れた。砂利の上を走る光はまるで天の川を彷彿とさせる。

 ペダルを漕いでいるのは霖雨ではない。正面を真っ直ぐに見据える金色の瞳。



「――当然だろ」



 鼓動が高鳴る。緊張、興奮、期待、焦り。自分自身、訳が解らない。けれど、霖雨の心に影響を受けたのだろう。春の日差しのような暖かさが満ちている。太陽の沈んだ空、花の散っている桜。それでも。

 行先を知らせてくれるのは霖雨だ。彼の眼には何が見え、その耳には何が聞こえているのだろう。春馬は、イヤホンから流れる、まるで知らぬメロディに耳を澄ませて自転車を飛ばした。


 町中を巡回する警官は減ることなく、むしろ増えているような気がした。彼方此方でサイレンが聞こえる度に何事だろうと野次馬のように覗いてしまう。驟雨は、人気の無い路地裏に入り込んだ。

 影辻が現れるだろう時刻には疾うに入っている。待っていると来ないものだ。歩き疲れ、壁に凭れ掛かったまま、ずるずると座り込んだ。脚が棒のようだった。

 体が重い。携帯を確認すると、着信が一件。予想通り、霖雨だった。香坂からの連絡は無いが、意識は取り戻しただろうかと心配に思う。目を覚ましても集中治療室にいるのでは連絡のしようもないかと苦笑した。

 こんな時刻になっても家からの連絡は無い。溜息の代わりに、口からは無意識にあの歌が零れた。



「……Let's make a wish……」



 霖雨にCDは届いただろうか。そんなことが気に掛かる。

 願い事をしようぜ。



「Easy one……」



 簡単なやつを。

 目を伏せて口遊むと、隣に霖雨がいるような気がして来るのだ。そうして顔を上げる先に霖雨はいない。苦笑する。いる筈がない。けれど――。

 同じように、壁に寄り掛かって蹲る一人の少女。

 中学生だろうか。よくもこんな時間に警官に見付かることもなく、一人でいたものだと感心してしまう。家出少女ならば、面倒だ。そんなことを思いつつ、傍まで歩み寄った。今日は町中でサイレンが聞こえている。何があったのかは知らないが安全ではないことは確かだ。



「おい、お前」



 さっさと家に帰れ。そう言おうとした言葉は、放たれることなく喉の奥に消えた。

 ひゅっと風を切る音がした。街灯に照らされた銀色。切っ先が頬を撫でた。



「な――」



 声が出ない。

 斬れた頬がぴりぴりと痛む。翳された銀色の刃。ナイフ。

 無表情の少女は何処かで見たような、美しい顔立ちをしている。闇に浮かび上がる白い面。感情を映さない漆黒の瞳。嵐のように振り切られる刃の連撃。紙一重で避けながら後退していく。

 ドッ。

 背中に当たったものが壁だと気付いたと同時に、手慣れた様子でナイフを振り翳す少女が何者であるか確信した。銀色の雷が落ちる。転がるようにして距離を置き、その人形のような少女をじっと見詰めた。



「お前が、影辻――?」



 俄かには信じ難い。どんな大男かと思えば、こんな小さな少女が。

 こんな子どもが、香坂を斬ったのだ。油断もしただろう。躊躇もしただろう。けれど、この少女は何の迷いも無く人を斬り付けようとする。



「あんたを、探してた」

「俺を?」

「血の霧雨を、殺す為に」



 喧嘩ばかりしていた頃に付いた通り名だ。恨まれる覚えが無いとは言わない。けれど、命を狙われる覚えなど無い。

 振り回される刃の嵐。ほんの一瞬、少女の顔が歪んだ。それがまるで、彼のようで。心の闇の中で蹲っていた霖雨のようで、胸が苦しくなる。彼が呑み込んで来た言葉を知ってる。この子もきっと。

 振り上げられた腕をナイフごと掴んで、茫洋とした目付きの少女をじっと見据えた。如何してか、この少女を見ていると霖雨を思い出す。ナイフを奪おうと力を込めた。その瞬間。

 少女が空いた腕を背中に回した。一瞬にも満たない刹那、新たな銀色が光った。

 やられる。そう思った。だが。

 突然、何かが爆発したかのような衝撃で後ろに倒れ込んだ。鋭い金属音が二つ、アスファルトに反響する。何が起きたのか解らない。視界がちかちかと瞬いた。



「――お前は」



 少女のものとは思えない、地を這うような野太い声がした。少女の額に突き付けられた一本の木の棒は細く頼りない。けれど、その一瞬の出来事に常人ならば凍り付いたことだろう。

 春馬は、少女を牽制しながら口を開いた。



「見付けたぞ」



 それが何を指していたのか、春馬自身にも解らない。



「霖雨……」



 少女の声は、元の細さに戻っていた。けれど、目の前にいるのは霖雨ではなく春馬だ。直感的に気付いた驟雨は状況に付いて行けないまま言った。



「何が、どうなってやがる……」

「影辻のターゲットはさ、驟雨、お前だったんだ。お前を探す為に、斬る為に影辻が現れたのさ」

「何で……。じゃあ、香坂は」



 俺のせいで斬られたというのか。

 叫び出しそうな言葉を呑み込んだ。少女は春馬の一瞬の隙を付いて棒を蹴り上げた。猫のような身軽さで、弾き飛ばされたナイフを掴む。二本目のナイフは、春馬が更に遠くへと蹴り飛ばした。

 右手にナイフを構え、じりじりと距離を置く少女の目が据わっている。春馬は嗤った。



「そんな刃じゃ、俺には勝てないぜ」



 挑発するように春馬が嗤うと、少女の口元もまた、弧を描いた。

 刃はそっと、自らのその白く細い首に当てられた。



「これで、手出しは出来ないでしょう?」



 微笑んだ少女に、春馬は眉を寄せる。



「それが、何だというんだ」

「あなたは一つ、大きな勘違いをしてる。私が本当に狙っていたのは――霖雨さん。あなたですよ」



 何のことだと春馬は思った。性格的に、霖雨は人から恨まれる人間ではない。この少女は何者だろう。春馬と霖雨の記憶は異なる。知っていることもあるけれど、知らないことが大半だ。

 この少女が何者なのか、春馬は知らない。だが、狙いが解った以上、この少女が傷付こうが死のうが霖雨に近付かせる訳にはいかない。そう思ったとき、足元から無数の光が浮かび上がった。



(――霖雨)



 霖雨が自ら表に出て来ようとするのは初めてだった。春馬には、このまま霖雨を押し留めることも可能だった。霖雨の安全を最優先とするのならそれが最良の判断だ。ーーけれど、救ってやりたいと、助けてやりたいと言った霖雨の言葉を信じてやりたいのだ。



(時間は無いぜ。危なくなったら、俺が行く)



 そう言って、春馬は目を閉じた。再び瞼を開いた其処に、漆黒の瞳がある。



「霖雨!」



 驟雨が叫んだ。霖雨は少女を見て、酷く驚いたような顔をした。


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