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天泣  作者: 宝積 佐知
影辻
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⑸傾蓋、旧の如し

 食事を終えた穏やかな昼下がりを彩る校内放送は、聞き覚えのあるJ-POPだった。自宅にメディア機器の無い霖雨には曲名も歌手名も解らない。風を孕んで揺れるベージュのカーテンの隙間に見えるグラウンドには、大勢の生徒がサッカーやバスケットなどのスポーツに興じている。先日の騒ぎなど嘘のような日常を、紙パックのいちご牛乳を啜りながら噛み締めた。けれど、校舎中に響き渡っていた音楽がふつりと消えた。

 BGMが途絶えたことにすら気付かない生徒も多い。だが、放送を告げるピンポンパンポンというお決まりのメロディに皆が何事かと揃って顔を上げてスピーカーを見た。古い小さなスピーカーの向こうから、重々しい男性教諭の声がした。

 どよめく生徒達の声に掻き消され、スピーカーの小さな声は聞こえない。解り辛さに眉を寄せ、霖雨は耳を澄ます。

 如何しても解らない。諦め再びストローを口に咥えたとき、その名が聞こえたのだ。






「――知らないの?」



 一日の授業も終わり、帰ろうと荷物を纏めていた。当たり前のようにやって来た林檎が、前の席である名前も知らないクラスメイトの椅子に座る。呆れたとでも言うように、溜息を零すと林檎は言った。



「有名じゃん。ニュースにもなってるし」

「俺の家、テレビ無いから」



 早々に鞄を背負って歩き出す。部活へ向かう生徒達が固まって談笑している。林檎は軽く挨拶をしながら、早足に教室を出て行く霖雨を追った。



「やっぱり、テレビくらいは置いた方がいいよ」

「なら、お前が買ってくれよ。……それより、何なんだよ、その『影辻』ってのは」



 あのざわめきの中で聞いたただ一つの単語。昼休みのBGMを遮って響いたあの校内放送が緊急放送だったことからも、その言葉の重要性は何となく解る。

 林檎はもったいぶるように一つ、咳払いした。



「影辻っていうのはね、所謂通り魔よ。先週の木曜日に大学生が斬り付けられたのをきっかけに、金曜日、月曜日。さっき放送があったけど、今日の火曜日でもう四件。全てターゲットは学生」

「何でまた、学生?」

「そんなの知らないわよ。でもね、ターゲットには共通点があってね、皆、武術を学んでいたり、喧嘩が強かったりするんだって」

「ふーん……」



 知らぬ間に妙な事件が横行していたのだな、と呑気に霖雨は相槌を打つ。武術に全く精通しない自分が狙われる筈も無いのだ。

 気にも留めずに、下駄箱からローファーを取り出す。買ったばかりのローファーは傷一つ無く光沢を放っていた。



「今日、バイト休みでしょ? 一緒に帰ろうよ」

「あ、悪い、今日は予定があるんだ」

「ええっ!」



 学校が無ければバイトをしている霖雨が休みを取ったと聞いていた。珍しいことがあるものだと思いながら、遊びに誘おうと踏んでいたのだ。霖雨に他の予定がある筈が無い、失礼なことを思いながら林檎はその予定が気になった。

 霖雨はローファーを履きながら、平然と言った。



「驟雨と遊びに行くんだ」



 意外だ、信じられない。そんな言葉が浮かんだが、否定し切ることもできずに口を閉ざす。

 だが、校門に寄り掛かって此方を待つ一人の男子生徒の姿を見付けて、林檎は納得せざるを得なかった。病院以来、久しく見ていなかった顔だ。

 退屈そうに唇を尖らせて、此方を確認すると軽く手を上げて合図をする。



「遅ぇよ」

「うん、ごめんごめん」



 霖雨が申し訳無さそうに眉尻を下げて苦笑いする。肩に鞄を掛けて、歩き出そうとする驟雨が林檎に気付いて眉を寄せる。邪魔だとでも言いたげなその表情に林檎もまた顔を顰めた。



「何でお前がいるんだよ」

「何よ、いたらいけないの?」

「まあまあ」



 いがみ合う二人を宥めつつ、苦笑する霖雨の表情は何処か明るい。それはまるで、腫物が落ちたかのような晴れやかな表情だった。驟雨も林檎も、その訳を知っている。

 ち、と舌打ちをする。驟雨が背を向けて歩き出した。霖雨が隣に並ぶと、周囲から感歎の溜息が漏れた。変わり者と敬遠されて来た二人は絶世の美少年だと、林檎は思うのだ。そんな二人が何の因果かこうして出逢い、肩を並べている。

 携帯を向けて写メを取ろうとする女子高生にむっとして、林檎は二人の間に割って入る。周囲からの妬みの眼差しが今は心地良かった。けれど。



「お前、邪魔」



 と言って驟雨が冷たく見下ろす。霖雨が笑った。



「なあ、聞いたか?」

「影辻、だろ?」



 話の内容を聞くよりも早く答えた驟雨が笑った。



「何処に行ってもその話ばっかりだぜ。お蔭で見ろよ」



 驟雨がカーブミラーを顎でしゃくる。オレンジ色の支柱の下で、見覚えのある威圧感のある教師が腕を組んで立っていた。

 影辻と呼ばれる変質者を警戒してのことなのだろうけれど、遊びたい盛りの高校生には体の良い見張りとしか感じられないのだ。驟雨はその教師を睨んで舌打ちしながら言った。



「うざってぇな。自分の身くらい自分で守れるってんだよ。なあ、霖雨?」



 言われても霖雨は苦笑するばかりだ。誰もが驟雨のように強い訳ではない。

 やがて駅に着くと、霖雨が手を振った。



「じゃあな、林檎」

「何でよ、あたしも一緒に行きたいよ」

「バーカ。男には男の付き合いがあんだよ」



 悪童のような笑いを見せて、驟雨が言った。そういうことだ、と霖雨が林檎の肩を叩いて笑う。そんな霖雨を見て林檎は驚きを隠せなかった。

 霖雨は元々、笑わない人だった。いつも茫洋と何処か遠くを眺めて、降り掛かる良いことも悪いことも、仕方がないと当たり前のように全て諦めて来た。笑うことも無ければ、泣くことも無い。そんな霖雨が少しずつ、変わっている。それはきっと、驟雨のお蔭なのだ。

 そう思うと、これ以上食い下がることはできなかった。仕方なしに手を振ると、二人は背を向け、肩を並べて歩き出した。

 文句の一つでも言ってやろうと携帯を開いて、林檎は一人駅の構内を横切っていく。ホームに着くと丁度、電車が滑り込んで来た。当初の予定を崩されたまま、何をしようかと思考する林檎の耳にバイクの排気音が届いた。違法に改造されたマフラーの騒音ではない。空気を振動させる荒々しくも美しいその排気音に釣られて視線を動かす先に、赤信号で止まる一台のバイクがあった。夕日を反射するシルバーボディ。半帽のヘルメットを被っている二人の男子高校生は、見覚えがある。後ろに乗った男子高校生が此方を見て手を振った。

 霖雨だ。

 離れた距離で顔ははっきりとは見えないけれど、運転する驟雨が興味も無さそうに一瞥したようだった。電車の発進と共に信号が青に変わり、バイクが低く唸る。窓の外で並走するバイクがゆっくりと追い抜き、追い越され消えて行った。

 ゆっくりと林檎の乗った電車が離れていく。霖雨は驟雨の運転するバイクの後ろで、初めて感じる強い風と通り過ぎていく景色に夢中だった。バイクの運転が許される年齢ではないし、そんな金銭的余裕もない。言葉も出ない霖雨の様子をサイドミラーで伺いながら、驟雨が苦笑する。

 と、その時、すぐ横を疾風が通り抜けた。二人の目と鼻の先にじりじりと距離を詰めるその様は、まるで挑発しているようだった。フルフェイスのヘルメットに表情は見えない。苛立ったように驟雨が舌打ちする。漆黒の艶やかなボディが茜色の太陽を反射する。大きな車体はYAMAHAのDrug Starだ。まるで追い付いてみろとでも言わんげに前を走る目障りな動き。

 二人乗りは分が悪い。煮え繰り返りそうな腸をどうにか抑えようと、驟雨は大きく深呼吸をした。けれど、その肩をそっと霖雨が叩いた。



「――やってやろうぜ」



 不敵に笑う霖雨の大きな双眸に、朝日にも似たきらきらした光が宿っている。期待、興奮。



「しっかり掴まってろよ」



 子どものようだと笑いながら、驟雨はアクセルを吹かした。唸りを上げたエンジンが、二人の乗るHONDAのMAGNAを加速させた。瞬間的に風になる。そんな気がして霖雨は驟雨を掴む手に力を込めた。

 後ろに引っ張られる感覚から、背を丸める。強風に目を開けていられない。唸るエンジンと頬を撫でる突風。胃の中が掻き混ぜられる浮遊感。声を掻き消す風の音。けれど、それ以上の興奮。

 Drug Starが唸りながら追い掛ける。驟雨はハンドルを切った。急カーブは目の前の踏切を避けて町を離れていく。少し後ろで鬼のように追い掛けて来る黒い車体が煌めいている。



――飛ばせ!



 霖雨が叫ぼうとした瞬間、車体は加速する。制限速度を大きく超えたまま疾走し、二つのバイクは町を駆け抜けて山道に入り込んだ。

 うねる道に思うように速度が上がらない。後を追う大きな車体が急かすように距離を詰めていく。

 左右を取り囲む深い森林と排気ガスに汚れたガードレール。しかし、突然、視界には茜色に染まる海が映った。

 幻想的なその美しさに目を奪われる。霖雨が息を呑んだと同時に、驟雨はバイクを止めた。美しい水面が輝いている。追い掛けるように黒い車体が停まった。若者だろうラフな服装は風によって乱れている。フルフェイスのヘルメットに手を掛け、一気に顔を現す。

 顔を現した瞬間、驟雨が溜息を零した。



「――やっぱり、お前か」



 解っていたとでも言いたげに驟雨が目を細めてその男を睨む。

 対する男はフルフェイスのヘルメットを抱えたまま、白い歯を見せて子どもっぽく笑った。



「二人乗りの癖に、やるじゃねぇか」

「うるせぇよ、香坂。下手糞」



 悪態吐く驟雨の先に立つ男を、霖雨は知らない。まるで此方を睨んでいるかのような鋭い目付き、薄い唇が挑発するように弧を描く。溜息混じりに驟雨が言った。



「紹介するよ、霖雨。――こいつ、俺のダチで香坂って言うんだ」

「香坂蓮輔だ。宜しくな、霖雨」



 邪気の無い笑みを浮かべ、香坂は手を差し出す。日に焼けた褐色の、ごつごつとした大きな掌だった。

 その手を取ると、霖雨は微笑んだ。



「宜しく、香坂君」

「……話は色々と聞いてるぜ」

「話?」

「――余計な話してんじゃねぇよ、香坂!」



 霖雨の声を遮って驟雨が叫んだ。

 水平線の彼方へ紅い夕日が沈もうとしている。水面がガーネットを砕いたような赤い光を放つ。苛立ったように驟雨が「行こうぜ」と怒鳴った。ヘルメットを抱えたまま霖雨が渋々後を追おうとすると、そっと香坂が耳打ちする。



「あいつ、面白ぇダチができたって、珍しく燥いでたんだ。なのに、幾ら言っても紹介すらしてくれねぇから、どんな奴かと思ったら……てめぇだったか」



 何か確信めいたことを言って、香坂が笑う。



「なあ、霖雨。あいつと仲良くしてやってくれよ。普段からあんなんだけど、かっこつけてるだけなんだからさ」



 驟雨が急かすので、曖昧に相槌を打ち、霖雨は背を向けた。その後ろ姿を香坂は薄笑いを浮かべて見ている。すでにバイクに跨った驟雨が顎でしゃくった。水平線へと呑み込まれていく夕日の断末魔にも似た茜色が、鋭利なナイフの切っ先のような輝きを放つ。驟雨の後ろに乗ったまま、霖雨はその光景に見惚れた。けれど、その瞬間、MAGNAが低く唸った。

 鉛玉のように飛び出した二人の後を追うように、香坂もまたエンジンを掛ける。背後でそのエンジンの唸りを、霖雨は確かに聞いていた。

 車体を倒して急カーブを緩やかに通り過ぎ、やがて海が消え森林が広がる。驟雨は言った。



「あいつ、何か言ってた?」



 サイドミラーで霖雨を伺いながら、驟雨がぶっきらぼうに言う。



「いや。特に何も?」



 恍けたように首を傾げる霖雨を訝しげに目を細めて見る驟雨が、一瞬悪戯っぽく笑った。その瞬間、バイクは法定速度など忘れたかのように目の前の直線道路を駆け抜けた。強い引力で体が後ろに引き寄せられる中、霖雨は驟雨を掴む手に力を込めた。風の音が鼓膜を震わせる。胃が浮かび上がるような浮遊感を誤魔化そうと足を踏み締める。唸りを上げるエンジンがまるで耳元で叫んでいるようだった。

 やがてゆっくりと速度が落とされ、霖雨は首に食い込んだヘルメットの紐を緩めながら噎せ返った。未だにしっかりと握っていた掌から、驟雨の肩が震えているのが解った。



「ははははははっ!」



 可笑しくて仕方がないとでも言うように、バイクを道の端に止めて驟雨が腹を抱えて笑い出した。引っ繰り返りそうな勢いにきょとんとする霖雨にも構わず、声を張り上げて驟雨が笑う。

 何が可笑しいのだろう。そう思うのに、腹を抱える驟雨を見ると何故だか笑いが込み上げる。霖雨もまた、腹を抱えて笑い出した。

 森林に面する道路の脇で、大笑いする二人を通り過ぎる車の運転手が冷ややかな目を向ける。けれど、そんなことなど気に掛からず二人は腹が痛くなる程、笑い合った。こんなに笑ったのは初めてだと、互いに思った。

 一頻り笑った後、驟雨が言った。



「よく解んねェけどさ、お前といるとすっげぇ楽だよ。――まるで、ずっと昔にもこうしていたような気がするぜ」

「同じこと、俺も思ってたよ」



 霖雨が言うと、驟雨は照れ臭そうに頬を掻き、エンジンを掛けた。

 空は既に暗かった。対向車線の乗用車が灯すヘッドライトが眩しい。帰路を辿るバイクは心なしか別れを惜しむように速度を落としている。驟雨は思い出したように口を開いた。



「香坂ってさぁ、すげぇ目付き悪ィだろ? だから、道端ですぐ喧嘩吹っ掛けられんだよね」



 言われて霖雨も思い出す。まるで、此方を睨んでいるかのような鋭い目付き。気の毒だとは思いつつも、誤解されるのは無理もないと思った。



「でも、喧嘩に負けたことなんて一度も無ェ。喧嘩無双とか言われてる。あいつとつるんでたら、俺まで喧嘩売られるようになってさぁ、何時の間にか俺の通り名は血の霧雨だ」



 何時の時代だよ、と不満げに口を尖らす驟雨の後ろで、霖雨は苦笑した。自分には縁遠い世界だ。

 そんな驟雨が自分と一緒にいるのは、不釣り合いな気がした。きっと、驟雨には沢山の友達がいるだろう。彼を愛する家族もいるだろう。何も持っていない自分とはまるで違う。

 自宅であるアパートが目の前に迫る。閑静な住宅地に、死んだようにひっそりと建つ明かりのないアパート。ゆっくりと停車するバイクの車輪が砂利を撥ねる。

 バイクを降りた霖雨が、脱いだヘルメットを驟雨に手渡す。後輪の傍のホルダーに引っ掛けると、驟雨は笑った。



「また明日、学校でな」



 軽く手を振って、再びエンジンを唸らせ驟雨が走り去っていく。残された排気ガスの臭いが夜風に消えていく。

 携帯を開いて時刻を確認する。午後八時十五分。友達とこんな時間まで遊んだのは初めてだった。蛍光灯が白く照らす通路を踏み締めながら家の鍵を取り出す。湿った土に生えるドクダミの臭いが漂っていた。

 ドアノブに鍵を差し込むと、隣に住む大家宅が開いた。薄い扉の向こうから、ひょこりと顔を覗かせるのは一人の可愛らしい少女だ。



「今晩は」



 何かを躊躇うような態度で、たどたどしく挨拶をするのは大家の一人娘。今年で中学二年生になったと聞いたけれど、その名前が如何しても霖雨は思い出せなかった。



「今晩は」

「……さっきの、お友達ですか?」

「え、はい」

「かっこいい人ですね」



 その少女とは殆ど話をしたことなどなかった。時折、こうして顔を合わせると他愛の無い話をする。

 この少女の、名前は。



「あ、玄関先ですみませんでした。おやすみなさい……」



 名残惜しむようにじっと此方を見る少女に、別れ際の驟雨を思い出した。其処で漸く、その少女の名前が頭の中にぱっと浮かんだのだ。



「おやすみ、秋水さん」



 ぽっと頬を紅潮させ、秋水が扉の中に引っ込む。霖雨は狐につままれたような心地で、扉を開く。明かりの消えた室内には、一寸先も見えない真っ暗な闇がぽっかりと口を開けて待っていたようだった。


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