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天泣  作者: 宝積 佐知
夜の匂い
26/45

(25)切歯扼腕

 春馬の笑顔を見るのは、随分と久方ぶりだなと思ったのだ。

 誰にも見えないところで膝を抱えて、何時だって霖雨の為に、自分のことは二の次にして、弱音や泣き言一つ零さない春馬。彼の強さは揺るがないものだと思っていたし、春馬もそう思われることを望んでいただろう。それでも、彼の痛みや苦しみに逸早く気付いたのは、やはりと言うべきか最も近しい霖雨だった。

 闇に満ちた帰路を辿りながら驟雨は一日の疲れを吐き出すように溜息を零した。騒ぎ合った一日の疲れは重荷ではなく、心地よい倦怠感だった。明日は学校かと思えば気が重いけれど、Lsとの抗争時には想像も出来なかった穏やかな毎日がまた、戻って来る。それだけで十分だった。

 見慣れた帰り道、いつもの角を曲がれば町内の一角を占める程に大きな日本家屋がある。客人を追い返すかのように強固な門が驟雨を威圧する。家人である筈の驟雨すらも拒むように門は固く閉ざされている。桜丘家の規則として門限は無い。それは各々を信用しているとも考えられるが、驟雨は幼少の頃より別の理解をしていた。

 この家の人間は、誰もが皆、家族に興味が無いのだ。だから、誰がどんなに遅く帰っても、どんなに大怪我を負っても、責めることもしなければ心配することもない。驟雨にとってこの家はただの社会における枠組みでしかない。

 裏門から帰宅すれば誰の目にも留まることはない。江戸時代より続く剣道の名門として大きな道場を構える驟雨の自宅ではあるが、午前零時を回れば流石に殆ど門下生はいない。しかし、道場には明かりが点いている。勤勉な生徒が未だ鍛錬に励んでいるのだろう。

 明かりを避けるよう、闇に包まれた廊下を曲がる。静かだった。中庭からは無数の蝉が僅かな命を削るように謳歌しているというのに、それすら拒絶するように家の中は静寂に包まれている。年季の入った廊下を踏み締める音が微かに響いた。



「――驟雨」



 この声を聞くのは、久しぶりだった。

 背後より掛かった地を這うような低い声に振り返るまいと、驟雨は背を向けたまま立ち止まった。



「今、帰ったのか」

「――関係無ェだろ」



 ぶっきらぼうに言い放って、そのまま歩き出そうとする。だが。



「暴走族と遣り合ったそうだな」



 この男が知っている筈も無いと思っていた。この男は、自分などに興味は無いのだ。反射的に振り返った先に、月光を浴びた父の相貌があった。長身痩躯、彫の深い顔に筋の通った鼻の影が落ちる。此方を見る目は冷たく、表情は無い。



「――んだよ、説教でもする気か?」



 小馬鹿にするように鼻で笑うが、父は眉一つ動かさない。人形のようだ。寒気がする。

 父はマネキンのような無表情を崩さぬまま、抑揚の無い声で静かに言った。



「お前が何をしようが知ったことではない。だが、桜丘の名を汚すような真似だけはするな」

「――ハッ。あんたの言うことは何時もそれだな。そんなに大事かよ、桜丘が」



 息子の俺より、大事かよ。

 頭の中に浮かんだその言葉は呑み込み、驟雨は不敵に笑って見せた。父は無表情だった。肯定はしない。だが、否定もしない。

 馬鹿馬鹿しい。



「俺は寝る」



 時間の無駄だと踵を返そうとしたところで、父は唐突に口を開いた。



「……俺はお前を自由にさせ過ぎたかも知れんな」

「何?」

「せめて、高校まではと思っていたが……無駄だったようだな」



 何の話だ。父の言葉の意味が掴めず、その先を急かすように目を細める。だが、同様に父もまた目を細め、侮蔑するかのように驟雨を見た。



「明日から学校には行かなくていいぞ。退学届は此方で用意する」

「――は、」



 咄嗟に声が出なかった。言うだけ言って、早々に背を向けて廊下の奥の闇に父が消えて行く。あの男は何を言っているのだ。

 足を踏み出す。廊下が大きく軋んだ。



「ッ、おい、待てよ!」



 闇に溶けて行こうとする背中を追い掛けて、その肩を掴んだ瞬間。世界がぐるりと反転した。

 背中にじわじわと広がる鈍痛と、天井を映す視界。自分が引っ繰り返されたのだと気付いたのは数秒経ってからだった。寝間着だろう着流しを整え、父は表情を変えぬまま驟雨を見下ろす。



「何時まで経っても、弱いままだな、お前は」



 音に驚いたのだろう、門下生が道場から顔を覗かせる。起き上ることも出来ぬまま、驟雨は目の前の父の顔を睨むことしか出来なかった。

 俺が、弱いだと? ふざけんな!



「――待てよ!」



 時刻も忘れて驟雨は叫んだ。騒ぎを聞き付けた門下生が廊下に集まる。父は背中を向けたまま、足を止めた。



「何時までも餓鬼だと思ってんじゃねぇよ! 戦いもせず、弱いだなんて決め付けてんじゃねぇ! 俺は、」

「――弱い犬ほどよく吠える」



 青筋が走ったのが、自分でも解った。此方を向きもせず、たった一言でこの男は全てを切り捨てる。門下生が諌めようと数人掛かりで押さえつけるが、驟雨は飛び掛かる気など端から無かった。ただ、言ってやらなければならなかった。



「そんなに言うなら、俺と勝負しやがれ……!」



 声の震えは怒りか武者震いか、それとも。



「俺が勝ったら、退学の件は取り消しだ」

「……いいだろう。だが、負けた時、お前は何を失う?」

「――全てだ。俺の人生全てを、あんたにやるよ」



 父は振り向きもせず、鼻を鳴らした。



「勝負は明日、午後六時。道場にて行う」

「いいぜ、やってやる」



 そのまま父は、終に視線すら寄越すことなく背を向けたまま闇に消えた。驟雨と押さえる門下生だけが取り残されたように立ち尽くしていた。

 数秒の沈黙と静寂。だが、それらは騒ぎを聞き付けた家人の足音によって掻き消された。



「何事ですか!」



 変声期を迎える前のボーイソプラノ。老いた廊下を跳ねるように駆ける小さな少年。

 端正な顔立ちは驟雨ともよく似ていた。それも当然だ。この少年は驟雨にとって唯一無二の兄弟。弟の時雨だった。



「お前には関係無い」



 冷たく言い放って、驟雨もまた門下生を振り払うように廊下を駆け抜ける。だが、追い掛ける足音が一つ。



「兄貴、待ってよ!」

「付いて来んな!」



 寝起きだろう時雨から逃げるように、驟雨は自室に閉じ籠った。勢いよく閉じた襖が乾いた音を響かせる。



「兄貴、一体、どうしたの?」

「お前には関係無ぇ。餓鬼はさっさと寝ろ」

「兄貴……」



 暫くすると、時雨は諦めたように部屋の前から去って行った。

 ぽつんと静寂の暗闇に取り残されたような心地で、膝を抱える。こうして座り込むのは何時以来だと思い返す。



(ああ、そうか)



 母が死んだあの日、葬儀の執り行われた部屋の隅で膝を抱えていた。参列者は道場に縁のある門下生だけでなく、政財界からも現れた。大々的に執り行われたその葬儀が、母の死を悼むものだとは如何しても思えなかった。

 泣きじゃくる幼い弟の隣で、泣くことも出来ず何処か現実味を帯びない感覚で母の遺影を見ていた。額縁の中の母は笑っていた。

 江戸時代より続く名門剣術道場の跡取りとして、幼少より厳しく鍛えられて来た。友達を遊ぶ時間は勿論、鉛筆を握るよりも竹刀を振るって来た。一回りも二回りも離れた門下生を相手に、手合せの度に容赦なく叩きのめされ、それでも剣道を辞めることはしなかった。剣道が好きだった。目の前の相手だけではなく、自分自身と向き合うことの出来る剣道が大好きだった。

 だけど。

 竹刀を握らなくなったのは何時から? 道場へ足を運ばなくなったのは?

 もう、何もかもどうでもいい。全ては明日、決まることだ。

 携帯を取り出す。明日は学校を休むと連絡しておこうかと考えて、止めた。詮索するような奴等ではないけれど、心配されるのは性に合わない。――否、言わなければ、彼等はきっと余計に心配する。



(香坂にだけは、告げておこう)



 あいつなら、きっと事情を察してくれる。上手くやってくれるだろう。

 脳裏を過る霖雨と春馬。彼等はもう十分傷付いた。これ以上苦しむ必要は無い。身勝手な自分の都合に巻き込む訳にはいかない。それは何より、自分自身の為に。これは俺の戦いだ。けじめを付けなければならない。

 リダイヤルから香坂の番号を探し、相手の都合など気にせず電話を掛ける。相手は香坂だ。今更、気を使い合うような間柄ではない。数回のコールの後、電話は繋がった。



『……如何した、こんな時間に』



 くぐもった声から、どうやら寝ていたらしいと考える。驟雨は普段の体を装いながら言った。



「明日、学校休む」

『……解った。霖雨にも言っておく』



 香坂は詮索しない。それは有難いけれど、香坂にだけは告げておかなければならない。



「学校、辞めるかも知れねぇ」



 電話の向こうで、息を呑む気配があった。

 掛ける言葉を探しているのだろう。沈黙が流れた。



「親父と勝負する。負ければ、学校は辞める」

『……何で』

「成り行きだよ。まあ、遅かれ早かれこうなっていたさ」



 鼻を鳴らして笑うけれど、電話の向こうの香坂は欠片も笑う気配は無い。



『霖雨には、』

「黙ってろ。これは俺の問題だ。……お前から上手く誤魔化しといてくれ」

『あいつに通じるとは思わないけどな』

「あいつには関係無い。……勝手に首突っ込んで余計なことする気なら、霖雨でも容赦はしない。ぶん殴ってでも、引き下がらせてやる」



 其処に決意の固さを見たのだろう。香坂は数秒の沈黙の後で、小さく返事をした。



『……解った』



 脳裏を過る霖雨の寂しげな顔と、何か言いたそうな春馬の眼差し。頭を振って誤魔化す。じゃあな、と短く告げて通話を切断する。

 追及を避けるように携帯の電源を落とす。光の消えた携帯を投げ出し、驟雨は畳の上に横たわった。生暖かい感触と共に睡魔が襲う。昼間の馬鹿騒ぎがまるで嘘のようだ。否、昼間のことだけじゃない。ここ数日のことが、まるで夢のようだった。

 周りの全てが信用できなくて、誰といても心はいつも独りきりだった。伊庭と馬鹿をした時もあった。当たり前のように人を傷付け笑っていたあの頃の自分は、人間のクズだった。馬鹿な仲間の暴走を止めることもせず、遠くから傍観者を気取って無関係の振りをして、助けを求める声を無視して、伸ばされた手を踏み躙って来た。自分が独りきりだったのは、当然のことだ。

 それが何時の間にか大切な仲間が出来て、居場所が出来た。失いたくないものが出来た。その意味、は。

 頭の中に浮かびそうな面影と声を消し去ろうと固く目を閉ざす。決意が揺らいでしまう。

 全てを誤魔化すように、驟雨の意識は闇の中へと転がり落ちていた。その夜、夢を見たのだ。底の見えない奈落の底に引き摺り込まれ、必死に手を伸ばす夢だ。何の突っ掛りも無い闇の中で伸ばした手はただ空を切る。足元に、無数の手が見えた。それは今まで自分が踏み躙って来た助けを求める声だった。

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