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天泣  作者: 宝積 佐知
掌の花
15/45

(14)愛多ければ憎しみ至る


「鷲宮蜜柑。身長165cm、体重46kg、血液型A型。オカプロダクション所属。無邪気な笑顔と抜群のスタイルで週刊誌のグラビアから人気が爆発し、現在16歳ながら歌手・女優業にも精を出す期待の新人。現役女子高生というのもまた、売りです」



 淀みない口調ですらすらと言った樋口は、此方を見てにやっと笑った。

 香坂から、この男は情報収集が趣味の変態と紹介を受けている。先日のヤマケンとの一打席勝負の為の特訓以来、顔を見ることは無かった。そして、二度と会うこともないと思っていた。

 時間とは不思議なもので、経つな経つなと思う程にあっという間に過ぎ去り、早く早くと願う程にその足取りは遅くなるものだ。現在の自分の心境がどちらかなど言わずもがな。放課後を迎え、部活動に向かう生徒達を恨めしく思った。



「何処も彼処も、あんたの噂で持ち切りですよ。霖雨さん?」

「暇人共め」

「羨ましい限りですよ、色男さん」



 くつくつと喉を鳴らして笑う樋口は、新しい玩具を手にした子どものようだった。他人事だから笑えるのだと、皮肉っぽく思ってもそれは他人から見れば贅沢なのかも知れない。

 蜜柑が放課後、教室に迎えに来ると言うものだから、野次馬が廊下で色紙やカメラを携えて待っている。こんなところに彼女を来させる訳にも行かず、先に迎えに行くことにしたのだ。其処を何処からか湧いてきた樋口に絡まれていた訳だが。



「それにしても、あの鷲宮がねぇ。意外ですよ」

「何が?」

「いよいよスクリーンデビューの話も挙がってるらしい大切な時期に、何処の馬の骨とも知れない男子生徒に交際申し込むなんて変でしょう」

「……悪かったな、馬の骨で」

「それに」



 蜜柑のクラスが見えたところで、樋口は歩調を緩めた。一緒に歩いていた訳でもないのに釣られて速度を落とすと、樋口が声を潜めて言った。



「オカプロは、恋愛禁止だった筈ですけど」



 それが果たしてどの程度の問題なのか、世間の情報に疎い霖雨には解らなかった。訊き返そうとしたところで、樋口は足を止めて可笑しそうににやにやと笑う。その視線の先には、件の人物。鷲宮蜜柑がいた。

 此方を見て少し驚いたような顔をして、蜜柑が駆け寄った。



「もしかして、迎えに来てくれたの?」

「……霖雨さんのクラスの前は、野次馬で一杯だったんですよねぇ?」



 横から樋口が口を挟んで笑う。

 優しー、だなんて女優業をしているとは思えない程、棒読みに言って蜜柑は霖雨を見た。



「……お友達?」

「樋口カイと申します。宜しくお願いします」



 人受けの良い笑顔を浮かべ、樋口は言った。面倒だなと感じながら、言った。



「情報収集が趣味の変態だ」

「やだなァ、変態だなんて」



 軽口を叩いていると、蜜柑の表情が一瞬、ほんの一瞬凍り付いたように見えた。

 だが、それも美しい微笑みの下に消えてしまう。気付かずに笑う樋口を尻目に、僅かに違和感を覚えた。



「じゃあ、霖雨君。行こうか」

「あ、ああ……」



 何だか腑に落ちなくて曖昧に答えると、樋口が感情を読ませない笑顔を貼り付けて手を振った。強い力で手を引いて歩いて行く蜜柑もまた笑顔だった。

 今頃、驟雨や香坂が教室で姿の無い自分を探していることだろう。林檎はまだ怒っているのかも知れない。面倒事に巻き込まれることが此処最近続いてバイトも休みがちだ(香坂が代わりに行ってくれるとは言っていたけど)。樋口は羨ましいだなんて言っていたけれど、とてもそうは思えないのだ。それに、トラブルが発生するといつも時の扉の影響を疑ってしまう。

 扉から漏れ出した闇が、蜜柑にも何か悪い影響を与えているのではないか。春馬が何の反応も見せないことを考えれば、その線は薄いのだろう。

 下駄箱は、下校する生徒が溢れている。何事も無かったかのようにローファーを取りに行けば、先に支度を済ませた蜜柑が此方を見て笑った。



「今度は、私が迎えに来たよ」



 そう言って手を取って蜜柑が微笑む。

 グラビアアイドルとか、有名人とか、女優とか。そんなこと知りもしなかった。でも確かに、可愛いな、と思った。

 勢いよく学校を飛び出す蜜柑に手を引かれながら、声を張り上げた。



「何処に行くんだ?」

「行きたいところがあるの!」



 振り返る蜜柑は楽しそうだった。

 学校傍の駐輪場に止まった一台の真新しい赤い自転車。前後の車輪に着いた鍵を外しながら蜜柑が言った。



「私、自転車で学校来てるの」

「そうなんだ」

「だからね、彼氏が出来たら、自転車デートに憧れてたんだ」



 はい、と自転車のハンドルを渡されて、反射的に受け取ってしまった。

 自転車に乗れない訳ではない。だが、二人乗りは経験が無い。既に荷台に横乗りしようとしている蜜柑を前に、そんなことは言えない。



「……しっかり、掴まってろよ」

「うん」



 覚悟を決めて、一気にペダルを踏み込む。二人分の体を載せた自転車は、ゆっくりとその車輪を回転させる。自転車というものは速度が無ければ安定しない。重いペダルに苦戦するとぐらりとハンドルが揺れる。

 後ろから聞こえた小さな悲鳴に負けないように、更に強くペダルを踏み込んだ。自転車は走り出した。

 午後四時を回った町は賑やかだった。公園には小学生から中学生程だろう子ども達が、固定遊具や球技を楽しんでいる。買い物帰りの主婦は重そうなビニール袋を両手に抱え坂を上り、愛犬の散歩をする少女はイヤホンから流れる音楽に夢中だ。何の変哲も無い日常の風景。

 スピードが出るに釣れて安定して来た自転車に、段々と気分も高揚する。春の穏やかな気候と涼しさを孕んだ風を受けながら鼻歌でも歌いたい心地だった。



「――で、何処に行きたいんだ?」



 行きたいところがあると言っていた蜜柑の言葉を思い出して問い掛ければ、後ろに飛んでいく景色に夢中だったらしく慌てて声が上がった。



「クレープが食べたいの!」



 思わず大きな声が出たのだろう。抱き付くようにして掴まる蜜柑の手に力が籠る。それが何だか、可愛らしくて、面白くて笑ってしまう。照れたように蜜柑は黙ってしまった。

 もしも林檎だったなら、今頃後頭部を叩かれているな。そんなことを思って苦笑した。

 クレープと言えば、駅前に美味いと噂の店があったなと思い出す。以前、林檎が行きたいと言っていた店だ。帰り道、通り掛かる度に寄ろうと提案する林檎に、いつも何かしら理由を付けて断って来たことを思い出した。

 学校から程近いその店は、連日女子高生で賑わっている。赤い屋根と白い壁。大きな格子窓の奥で、丸テーブルを囲んで談笑する少女が見える。店の傍に自転車を止め、籠に押し込んでいた鞄を肩に担いだ。営業中と書かれたプレートが扉に掛かっている。

 扉を押し開けようと手を伸ばした時、林檎の不貞腐れたような顔が脳裏を過った。



(今度、一緒に来てやろう)



 そんなことを思いながら、自分は笑っていたらしい。蜜柑が「如何したの?」と問い掛ける。

 その問いには答えず扉を開くと、途端に甘い匂いが鼻を突いた。まるで別世界に迷い込んだかのような内装だ。メルヘンチックに統一された調度品の数々は理解し難いものがあるけれど、蜜柑が後ろで感歎の声を漏らす。

 ガラスケースの中のクレープの標本を眺めながら、蜜柑が唸りながら悩んでいる。どれもクリームやフルーツをたっぷりと使った女性向けの商品だ。



「どれにしよう。チョコバナナかな、チーズケーキもいいな。ねえ、どっちがいいと思う?」



 楽しそうに問い掛ける蜜柑が、此方を見て笑う。



「好きなのにしろよ」

「もう、意地悪。どうしようかな~」



 幸せな悩みだな、と思う。頭を抱える蜜柑の後ろで、こっそり携帯を確認した。自転車に乗っている時から何度も何度も振動し、メールの受信、電話の着信を伝えているのだ。

 開いて見れば予想通り、驟雨と林檎からだった。



『何処にいるの?』

『本当に鷲宮と出掛けんの?』



 似たようなメールが何通も送られている。この事態を招いたのは驟雨と香坂じゃないか、と言ってやりたい。

 放課後デートだよ、と一斉送信し、携帯を閉じる。顔を上げると、蜜柑が口を尖らせて見ていた。



「彼女とのデート中に、携帯見るのはマナー違反だよ」



 苦笑しポケットに携帯を押し込む。すると、蜜柑が満足そうに笑った。



「霖雨君は何食べるの?」

「あー……。じゃあ、そこのやつ」



 ガラスケースの隅にある、レタスとツナをたっぷりと乗せたクレープを指す。蜜柑が笑った。

 お腹空いてたんだ、と蜜柑が笑いながらレジに向かって歩き出す。その背を追ってカウンターに肩を並べた。赤いドレスにレースを一杯に着けた白いエプロンをした店員が、感情の読めない満面の笑みで注文を訪ねる。蜜柑が述べた注文を繰り返し、料金を告げる。財布を出そうとする蜜柑を遮って千円札をカウンターに置くと、店員が精算した。



「ありがとう」

「どういたしまして」



 場所を移動し、薄く伸ばされ焼かれるクレープ生地を見詰めた。店員が手際よくフルーツやクリームをこれでもかという程に載せていく。何か恨みでもあるのだろうか、と思う程にツナとレタスはマヨネーズ塗れだ。

 可愛らしい包装を施された注文の品を受け取って蜜柑は酷く嬉しそうだった。

 窓際の丸いテーブルを囲むアンティークな椅子に腰掛ける。何処からか水を持って来た蜜柑が小さなテーブルに置くと、此方を見て笑顔で「いただきます」と笑った。

 頬張った瞬間、マヨネーズが口内を占領する。ツナなのかレタスなのかクレープなのか最早、判別付かない。マヨネーズに代わってクリーム塗れのクレープを頬張る蜜柑はとても幸せそうだった。



「美味い?」

「うん」



 クレープに夢中な蜜柑を苦笑しながら、大口にマヨネーズを頬張って水で流し込む。気分が悪くなりそうだと思っていると、半分程食べ終えた蜜柑がじっと此方を見詰めていた。



「不思議?」

「へ?」



 蜜柑は笑顔を浮かべたまま、言った。



「私が付き合いたいって言ったこと、不思議?」

「うーん。まあ、不思議と言えば不思議だな。驟雨なら兎も角」



 曖昧に笑うと、蜜柑もまた笑う。



「桜丘君は女癖悪いって有名だもん。確かにかっこいいんだけど……」



 そう言って、蜜柑がテーブルに手を突く。

 身を乗り出した蜜柑の整った顔が目の前にあった。黒目がちの大きな瞳に自分の顔が映る。きめ細かい白い肌には傷一つ無く、唇に着いたクリームが目に映る。



「私は、あなたの方がタイプだな」



 蜜柑が笑う。釣られて笑うと蜜柑がきょとんとした。



「そりゃ、どうも。クリーム付いてるぜ」



 指先で口の端に付いたクリームを拭いてやると、蜜柑が目を丸くした。

 手の中の空になった包装紙と一緒に指先を拭いた紙ナプキンを丸め、水を飲み干す。蜜柑はゆっくりと椅子に戻り微笑んだ。



「噂が間違ってたのかな」

「うん?」

「女誑しは、霖雨君だったんだね」



 訳が解らない。返す言葉が思い浮かばなくて、蜜柑の手の中のクレープが空になっていることを確認して席を立った。何時の間にやら外は薄暗い。



「そろそろ行こうぜ」

「うん」



 店を出ようと扉に向かうと、後ろで無数の気配がした。

 反射的に振り返った先に他校だろう女子高生が数名。それぞれ携帯を携えて蜜柑を見ている。

 ファンなのだろう、と他人事のように思った。



「鷲宮蜜柑ちゃんですよね!」

「大ファンなんです、握手して下さい!」

「ドラマ見ました、一緒に写メいいですか?」



 その言葉に周囲の女子高生が反応する。取り囲む女子生徒は、角砂糖に群がる蟻の大群のように増え、蜜柑と離されてしまった。少女達の合間に蜜柑の困ったような顔が見える。

 まずい、と思った。



「脚細ーい! いつも何食べてるんですか?」

「美容法とかありますか?」

「忙しくて大変じゃないですか?」

「学校、行けてるんですか?」



 質問攻めにされる蜜柑が困惑しながらも、必死に此方を探しているのが解った。輪の外に弾かれながらも、蜜柑の元へ向かおうと人込みを掻き分ける。店内はパニックだった。春だと言うのに人いきれで窓が白く曇っている。



「恋愛禁止って聞きますけど、本当ですか?」

「彼氏と来てましたよね。事務所、クビにならないんですか?」

「可愛いしスタイルいいし、もてますよね。本当は遊んでんじゃないですか?」

「枕営業してるって聞きましたけど、今度の映画もそれで決まったんですか?」



 相手の気持ちを考えない不躾な質問に眩暈がする。何かがおかしい。

 扉の外からやって来た何も知らない筈の少女が輪に加わって、無礼な質問を嗤いながらぶつけていく。店内は満員電車のように人間がぎゅうぎゅう詰めになっている。酸素が薄いのか息苦しい。

 蜜柑の姿が見えない。なんだこれは。



「蜜柑!」



 悲鳴なのか怒号なのか。女子高生達に弾かれて壁に押し付けられ、身動きが取れない。

 だが、この集団の目当ては蜜柑だ。



「――ッ、退いてくれ!」



 声を上げた瞬間、遠くから蜜柑の叫びが聞こえた。



「霖雨君!」



 必死の叫び。助けを求める声。伸ばされた手。



「退けえええぇえ!」



 狂気に包まれた店内を泳ぐように掻き分け、確かに先刻繋いでいたその手を掴む。細く小さな手だ。

 人込みの中で蜜柑と目が合った。



「来い!」



 二度と離さないようにその手を掴み、人込みを乱暴に押し通る。正気を失くした少女の群れが何が言っているが最早判別不能だ。怪物の群れとなった人込みを掻き分け、弾丸のように店内を飛び出す。外はもう暗かった。

 転がり出たが、扉の向こうから少女達の手が伸ばされる。何かおかしい。



「逃げようぜ!」



 自転車を停めた場所まで駆け抜ける。通り過がりの会社帰りだろうサラリーマン風の男が訝しげに見遣る。だが、帰宅途中らしき男子高生が蜜柑を指差して言った。



「鷲宮蜜柑だ」



 その言葉が切欠となって、静かだった界隈がざわめく。

 無関係な筈の通行人がふらふらと蜜柑に吸い寄せられていく。何だこれは。

 確かに鷲宮蜜柑は有名人なのだろう。だが、人々を狂気に貶めるこんな状況は不可解だ。



「何、何なの?」



 蜜柑が怯えたように繋いだ手を強く握る。まるでゾンビのように追い掛けて来る通行人。自転車の元に辿り着いても、前後の車輪に鍵を掛けたそれに乗る余裕など最早無かった。



「――、走れ!」



 蜜柑の手を掴んで走り出す。涼しさを孕んだ夜風が頬を撫でる。迫り来る人々が呪文のように蜜柑の名を呼ぶ。

 何処に行けばいい。如何すればいい。今は兎に角走るしかない。

 だが、その中で、今にも消え入りそうな微かな声を聞いた気がした。


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