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天泣  作者: 宝積 佐知
影辻
10/45

⑼以心伝心

「秋水さん……?」



 目の前にいたのは、霖雨の隣人である大家の一人娘だった。今年で中学二年生になるという大人しく控えめな可愛らしい少女が、こんな場所にいる筈が無い。ましてや、自らの首にナイフを当てて、微笑みすら浮かべているなんて、理解出来ない。

 信じられないと幾ら疑ってみても、目の前の現実は変わらない。



「霖雨!」



 焦ったように叫んだ驟雨は、脇腹を押さえて蹲っている。アスファルトに滲むのは血液だ。春馬が来たあの瞬間、ナイフの刃先が右の脇を僅かに掠めたのだ。だが、霖雨にはそれすらも解らない。

 状況は解らない。けれど、声を聞いたような気がしたのだ。

 膝を抱えて蹲る誰かの助けを求める声が。



「秋水さん……、ナイフを下して」



 じりじりと距離を詰めながら言うと、秋水は一層笑みを深くした。振り絞るような声で驟雨が近付くなと叫ぶ。

 秋水は、霖雨を狙ってこの一連の事件を引き起こしたのだ。自らの首にナイフを当てていたとしても、死ぬ気など無いだろう。全ては霖雨を殺す為。そう思えば、驟雨は何としても霖雨を逃がさなければならなかった。



「霖雨、逃げろ!」



 だが、霖雨は首を振った。



「……驟雨、俺はね、話がしたいんだよ」



 自らの首にナイフを当てて微笑む少女。挨拶を交わすだけだった少女は、少しずつ会話をするようになった。

 この子に恨まれる覚えなどない。如何して殺されなければならないのだ。如何して逃げなければならないのだ。如何して、話をするのにそんなものが必要になるのだ。銀色に光る刃を見詰め、霖雨は唇を噛んだ。



「如何して、ナイフを向けるの?」

「あなたが憎いから」

「如何して、俺が憎いの?」

「あなたが――」



 其処で、少女の微笑みがふつりと消えた。能面のような無表情で此方を見る目付きは胡乱で寒気さえする。少女は消え入りそうな声で言った。



「あなたが、お父さんを殺したから――」



 言葉を失った霖雨に代わって、驟雨が叫んだ。



「霖雨がそんなこと、する筈ねぇ!」



 それは確信だった。何時だって圧倒的弱者だった霖雨は、傷付けられることはあっても人を傷付けたことはない。

 秋水はくつくつと喉を鳴らして笑った。



「私の名前、覚えていますか?」



 それは玄関先で挨拶を交わしたあの頃と変わらぬ風で、秋水は微笑んだ。その問いの意味が霖雨には解らない。否、意味だけではない。その答えすらも、霖雨には解らなかった。

 黙り込んだ霖雨を、まるで予想通りだとでも言うように秋水は笑った。



「私、常盤秋水と言います」

「――常盤?」



 自分と同じ苗字だと、其処で霖雨は初めて知った。有り触れた苗字ではない。秋水は微笑みを浮かべたまま言った。



「私、あなたの従妹なんてす」



 血縁者。その言葉に、身震いする。霖雨にとって過去は心の闇だ。振り返りたくない。親戚中を盥回しにされて、遺産を食い荒らされた過去。誰も助けてくれなかった、誰も守ってくれなかった。だから、血の繋がりなど煩わしいだけだ。そう思っていたのに。



「従妹……?」

「はい、あなたのお母さんの妹の娘なんです」



 それが何だと、笑う余裕など霖雨には無かった。足元がぐらりと揺らぐ――と、そのとき。小さな光の粒子が浮かび上がる。春馬が心配しているのだと解れば、此処で膝を着くわけにはいかなかった。



「私の父は病気でした。手術を受けなければ余命一か月と診断を受けていましたが、その莫大な手術費用が如何しても用意出来なかったんです。その頃、あなたを引き取れば莫大な遺産が転がり込むと聞きました」



 微笑みを浮かべる秋水を、驟雨は半ば睨むような鋭い目付きで見ている。



「家はあなたを引き取ることに決めたんです。でも、あなたは親戚中を転々としていて、家に来る頃にはもう遺産も殆どない状態。そんなあなたを引き取るメリットなんてありませんよねぇ」



 だから何だと、驟雨が睨んでいる。霖雨は立ち尽くすばかりだ。秋水は言った。



「一か月後、父は死にました。碌に治療も出来ず、薬も与えられず、それはそれは可哀想な最期でした」

「――だから?」



 我慢の限界だと言うように、驟雨が脇腹を押さえて立ち上がる。

 余りに勝手、余りに理不尽だ。霖雨に何の非があるというのだ。霖雨を金づるとしか見て来なかった親戚一同を、張り倒して回りたいくらいだった。驟雨の酷く苛立った声にも表情を変えず、秋水は続ける。



「父が死んだのを見計らったように、あなたがうちのアパートに来たんです。此方の事情など何も知らないで、呑気な顔で挨拶に来て」

「……そう、か」



 ぽつりと、霖雨は呟いた。

 解らないのだ。何も解らない。驟雨が自分の代わりに怒ってくれる。否定してくれる。林檎がいたなら、こんな自分を庇ってくれただろう。春馬はきっと、それでいいと言ってくれる。じゃあ、俺は。

 俺は、この子に何をしてあげられるだろう。



「辛かったな」



 呟くようにそう言うと、秋水は動きを止めた。

 この子の痛みを何も解ってあげられない。この子を苦しみから救ってあげられない。自らにナイフを突き付ける程の覚悟を知らない。



「――何も、何も知らない癖に!」

「うん」



 ゆっくりと、秋水の首からナイフが離れる。



「あんたになんか、私の苦しみは解らない!」

「うん」



 ふらつく足取りで距離を詰める秋水が握るナイフは、鋭く輝いている。真っ直ぐ見据えたまま動かない霖雨は、ただ其処にいるだけだ。

 刃が振り翳される。驟雨が、逃げろと叫んだ。けれど、霖雨は動かなかった。



「あんたになんか――!」



 ドッ。

 驟雨が目を丸くした。霖雨の周りに浮かび上がる光の粒子は時の扉。春馬が現れるときのサインだ。だが、其処に春馬はいない。振り下ろされたナイフは霖雨には、刺さらなかった。

 鋭い金属音が反響する。転がり落ちたナイフがアスファルトを滑った。倒れ込むようにして霖雨に縋り付く秋水の背が微かに震えていた。

 抱き締める腕も持たない霖雨は、其処にただいるだけだ。シャツを握り締めて肩を震わす少女が零す涙が足元に跡を残して行く。



「でも俺は、解ってやりたいよ。だって、こんなに近くにいるのに」



 声が聞こえている。伸ばされた手が見えている。見なかった振りで通り過ぎるのはもう嫌だ。

 救ってあげたくて、助けてあげたくて、必死に叫んだ。手を伸ばせ。必ず、掴んでやるから。



(なあ、春馬)



 此方を気遣うように周囲を漂う光の粒子。霖雨は胸の内に言った。



(俺は、ナイフを握る程の覚悟を、理不尽だなんて言葉で終わらせたくはないんだよ)



 それはきっと、驟雨が怒ってくれるから。春馬がこんな自分を受け入れてくれるからだ。

 光の粒子が金色に煌めきながら浮かび上がる。金色が霖雨の目に宿ったとき、秋水の体からは力が抜けていた。眠っているらしく、微かな寝息が聞こえる。



(――解ったよ、霖雨)



 安心し切った顔で眠り込む秋水を抱え、春馬は笑った。

 春馬は、秋水の抱えるその憎悪や悲愴を全て時の扉に封じ込めようとしていた。元々、これは時の扉に封印されていた禍が漏れ出して引き起こした事態だ。彼女もまたその瘴気に中てられた被害者。けれど、そんな彼女の苦しみを全て受け入れたいと霖雨が言った。その瞬間、彼女の胸の内に巣食う憎悪が霧散していくのが見えた。

 封じ込めるのでは根本的な解決にはならない。漏れ出した禍もまた、淡い光を帯びて消えていく。

 封じるしかなかったと思っていたものを、救うことで消し去ることができる。そんなこと想像もできなかった。



(こいつなら、もしかすると)



 そうして期待を向けてしまう自分を、春馬は戒める。期待してはいけない。今のままで十分だ。

 状況に置いて行かれた驟雨が、痛み出した脇腹を抱えて呻いている。



「ううう、救急車呼んでくれ……。血が止まらねぇんだ」

「救急車? 何だ、それ」



 心底解らないとでも言うように春馬が首を傾げる。耳を疑った驟雨の目に映るのは、秋水を抱えて満足そうな笑みを浮かべる春馬の姿だけ。



「死にたくねぇよー」

「そんな傷じゃ死なねぇよ」



 くつくつと喉を鳴らして、春馬は悪童のような笑みを浮かべる。驟雨は痛む脇腹を押さえてゆっくりと立ち上がった。

 驟雨は、目の前の男が何者なのか知らない。何処か、遠い昔に逢ったことがあるような、そんな気がした。春馬は寝入った秋水を見て言う。



「……この子はさ、霖雨のことが好きだったんじゃねぇかな」

「えっ?」

「父を失った傷は誰かを恨むことで誤魔化して来た。――皮肉だよな。恨もうとしている相手に、惚れちまうなんてよ」



 許されない、許されたい。その思いの軋轢がこの少女を苦しめていた。春馬はそう思った。

 目を伏せた驟雨に、春馬は更に言った。



「お前は自分の無謀さを反省しろ。俺が来なかったら、死んでいたかも知れないんだぞ」

「ああ、そうだな……」

「霖雨が、林檎が、どんな気持ちでお前を探していたのか。もっと考えてやれ。お前が霖雨を大切だと思うように、霖雨もお前が大切なんだ。お前が霖雨を助けたいと思うように、霖雨もお前を助けたいんだよ」

「ああ……」



 そんなことは言われなくたって解っている。実の親ですらこんな時間になっても連絡一つ寄越さないのに、霖雨は自分の身を案じて何もかもかなぐり捨てて追い掛けてくれる。それに甘えてはいけないと思うけれど。



「――Let's make a wish」



 何気なく驟雨が口遊むと、春馬が不思議そうに言った。



「それ、霖雨が聴いていた歌だ。どういう意味なんだ?」



 春馬の言葉で思い出す。霖雨はきっと、自分との約束を覚えていて家にCDを取りに行ったのだ。

 言葉にしなくても伝わる。それはまるでテレパシーのようだ。



「秘密だ。――霖雨に訊けよ」



 悪戯っぽく笑って、驟雨は言った。

 続けて口遊むその背中を、不満そうに春馬は見ている。時刻は午後十時に差し掛かる。



「Easy one――」



 林檎の自転車を、脇腹を抱えながら驟雨が押して歩く。口遊む英詩は春馬には解らない。

 驟雨は、嬉しかったのだ。家にメディア機器が一つも無いという霖雨が、そのロックバンドを知っていたこと。その歌を知っていたこと。そして、その歌を聞いて自分を助けに来てくれたこと。


 闇の中で霖雨の声を聞いたような気がした。

 独りじゃない。手を伸ばせ、必ず掴んでやる。

 今にも泣き出しそうな声で、そう言っているような気がした。


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