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天泣  作者: 宝積 佐知
春雨
1/45

⑴浅い川も深く渡れ


其れを開けてはならぬ。

其れは禍の扉、破滅の道。


開けてはならぬ。








 昔から物忘れが多かった。酷いときにはその一日の記憶がすっぽり抜け落ちてしまっていることが度々あった。

幼い頃は間抜け、天然と笑われるだけで済んでいたが、年を重ねるに連れてその物忘れが悪化し、周囲の人間を気味悪がらせた。自分が覚えていないその時間は、まるで別の人間のようだと皆は口を揃えて言った。

 解離性人格障害を疑ったのは今からおよそ一年前。近所に住む同級生が、自分の症状がその症例に殆ど当て嵌まると言い出したのがきっかけだった。よもや自分が精神病患者になろうとは予想できなかった。

 物忘れが始まったのは今から十年前、六歳の頃に両親を事故で失ってからだった。そのこともまた解離性人格障害、所謂、二重人格というものに当て嵌まるらしく、それを機に精神科への通院が始まった。

 両親が死に、この世にたった一人残され、親戚中を盥回しにされながら遺産を食い荒らされ、誰の力も借りずに一人で生きて行こうと誓ったのが中学生最後の冬。それから僅かに残った遺産で1Kのアパートを借り、生活に必要な家電製品や生活雑貨を購入し、とうとう両親が残した金は底を尽きた。金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもので、遺産が底を尽きたと知るや否や親戚は蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。

 頼るべき家族も親戚も無く一人暮らしをし、現実離れした精神病を患う。世間一般でいう美少年という称号が、その不気味さに拍車を掛け、周囲の友人は気味悪がって離れて行った。

 冬来りなば春遠からじという言葉を信じて来たが、何時になったら春はやって来るのだろう。桜も葉桜に変わろうという四月の終わりに、教室の窓から蒼穹に思いを馳せる。教師が黒板に、教科書の英文をそのままに書き写し、くぐもった声で発音する。なんて退屈な日常、何て退屈な人生。



「――い」



 退屈だとぼんやり空を眺めてからどれ程の時間が経ったのだろう。突然掛けられた声に反応するより早く、鈍い痛みと共にリノリウムの床を滑った。椅子ごと蹴り飛ばされたのだと気付いたのは、強かに打ち付けた腰が時間差でじんじんと痛み出してからだった。

 目の前に並ぶ数人の男子生徒。背景となった空は既に夕焼けだ。ああ、また記憶が抜け落ちている。



「おい、常盤霖雨」



 呼ばれて瞬きをする。そうだ、俺の名前は常盤霖雨。小学生の頃には漢字で中々正しく書くことができなかった。

 肩を並べる男達は髪を金やら茶やら、日本人らしかぬ色に染め、耳からは痛々しい程にピアスをぶら下げている。所謂不良生徒だ。

 周りに人はいない。どうやら既に放課後のようだ。



「お前が常盤霖雨か。噂通りだな」



 どんな噂が流れているのかは知らないが、どうせきっと碌な噂じゃない。

 何の反応も返さずにいれば、端の一人がポケットに手を突っ込んだまま大股に歩み寄り、胸倉を掴み掛る。



「聞いてんのか、てめぇ」



 意味も無く凄むその様は、マントヒヒの雄が威嚇する様に似ている。口にはせずに、ただ「聞いてるよ」とだけ答えた。

 なめやがって、と更に凄む男を押し退けて、リーダーらしき金髪の男が顔を覗き込む。



「まあ、待てよ。俺達はお前を虐めに来た訳じゃねぇんだ」



 そんなことより、打ち付けた腰が痛かった。

 腰を摩っていると、いっそ胡散臭い程の笑みを浮かべ金髪の男が言った。



「お前に頼みがあってさ」



 拒否権の無いその頼みは、脅迫だろう。そう言ってやりたかったが、これ以上痛い思いをするのも馬鹿らしいと無言を決め込む。どうせ、下らない話だ。



「その綺麗な顔でさ、女、連れて来てくれよ」



 ああ、下らない。なんて低俗な世界。春は何時やって来るのだろう。



「そんだけ綺麗な顔してりゃ、楽勝だろ? 連れて来るだけでいいからさ」



 げらげらと笑い合う声が耳障りだ。何が可笑しいのだろう。肯定も否定もしていないのに、勝手に進んでいく話をBGMのように聞き流す。そうだ、今日は病院に行かなくては。

 早く帰りたい。そう思ったそのとき。



「何をしてるんだ!」



 低い声が教室に響き、並んだ男子生徒の群れがざわりと揺れる。



「先公だ!」

「やべぇ」



 慌てて教室を飛び出していく男子生徒をぼうっと見ながら、声のした廊下に視線を向ける。

 扉の影からひょっこりと顔を覗かせたのは、先程の低い声とは結び付かないショートカットの可愛らしい少女だ。此方を見てにっこりと微笑み掛け、短いスカートを揺らしながら姿を現すその様は実に可憐だ。



「体育の大木先生の真似。似てた?」



 そうして悪戯っぽく笑うのは、近所に住む同級生、大神林檎。先程述べた、自分を解離性人格障害ではないかと言った同級生だ。



「何時まで寝てんの?」



 起き上ろうとしない俺を見て、腰に手を当てて呆れたように溜息を零す林檎は何処か楽しげだった。可憐な外見からは想像も付かないが男勝りで、知り合って間もない俺の世話を焼きたがる。姉御肌で、結構いいやつだと思っている。

 床に手を付いて、勢いよく起き上ると林檎が楽しそうに笑った。落下したままのノートと教科書を鞄に突っ込んで、肩に掛けて歩き出す。開け放された窓の向こう、グラウンドから部活に勤しむ生徒達の勇ましい声が響いていた。

 通り過ぎる同級生一人一人に軽く挨拶しながら、隣を歩く林檎の足取りは軽い。ちょっとしたファッション雑誌にでも載っていそうな可愛らしい顔をしているのに、それを鼻に掛けることもしない堂々とした振る舞いは好感が持てるのだそうだ。何時か顔も思い出せない女子生徒がそう言っていたが、林檎は自分の容姿のことなど気にもしていないのだろうと思った。

 校門を越えると、思い出したように「そういえばさ」と林檎が言った。



「霖雨は部活、しないの?」



 学校は仮入部と呼ばれる各部活のお試し期間を終えた頃だった。中学での経験を高校でも活かして、良い青春を送ろうと多くの生徒が躍起になっている。そんな同級生達を横目に見ながら答えた。



「そういうのは、時間にも金にも余裕のある人間がすることだ」



 当たり前のように言い切れば、林檎が考えるような素振りで唸る。



「そうかなぁ」

「そうだよ。俺には時間も金も無いんだ」



 素っ気無く言って、早足に駅に向かう。先刻の男達のせいで時間が無いのだ。

 寂れた踏切を越えると、丁度学生達の下校時間らしく、駅前には学生服が目立った。人込みを避けながら改札まで向かい、電光掲示板に映る文字から電車の発車時間を確認する。後二分。

 後ろをぴったりと歩いていた林檎は未だに何かを考え込むように、顎に指を当てて唸っている。だが、構っている時間はもう無かった。帰宅するのなら同じ駅で降りるのだが、病院へ向かう霖雨は逆方向だ。改札にPASMOを押し付け、早口に言った。



「これから病院だから。また明日な」

「あ、うん」



 人込みの中、林檎は顔を上げ、慌てて手を振った。直に背を向けて走り出す。残り一分。

 階段を上り始めると、同時に大勢の人が津波のように押し寄せた。大股で二段飛ばしに階段を駆け上り、電車に転がり込む。乗客は殆ど降りてしまったらしく、広々とした車内は何となく間の抜けた気分になった。

 空の向こうには夜が迫っている。扉傍の椅子に座り、だらりと背を預けるとポケットの携帯が震えた。短いバイブレーションは新着メールの知らせだ。二つ折りの携帯を開けば、送り手の名前が堂々と映っている。

 大神林檎。つい数分前に別れたばかりの同級生が何の用だと、呆れ半分にメールを開く。



『明日、一緒に学校行こう(*^v^*)/』



 こんなメールをしなくても、林檎はどうせ毎朝自分を起こしにドアを叩くのだ。今更だな、と思いながら携帯を閉じる。病院が終わった後に返信しよう。今日も深夜までバイトだ。電車に揺られながら、憂鬱に思った。

 学校の最寄駅から各駅停車で二つ目。居酒屋ビルの立ち並ぶ駅はここ数年で発展し、二つの路線が乗り入れ、付近にはバスやタクシーが充実している。けれど、一つ路地を曲がれば寂れたパチンコ屋やスナックバーなどの古い街並みが並ぶ。駅から十五分程歩いた先が通院先である柊メンタルクリニックだった。

 青い看板に白い文字で堂々と並ぶその病院名の横に、兎だか猫だか解らない奇妙なマスコットが薄ら笑いを浮かべて患者を待っている。診療時間は午後五時、現在の時刻は午後五時半。壁に掛かったボードが診療の終了を告げている。遅かったかと落胆すると、ガラスの扉の向こうから、見覚えのある若い看護師が顔を覗かせた。



「常盤君、遅かったわね」



 診療時間は疾うに過ぎているけれど、一日の疲れを微塵も感じさせない明るい笑顔で出迎えてくれたのは、この病院の看護師である桐谷はるひ。受付でいつも明るい笑顔で挨拶をしてくれる彼女は何故か自分のことを気に入ってくれているようで、診療とは関係無く他愛のない日常会話を交わす。

 閉ざされていた扉から顔だけ覗かせていた桐谷は、迎え入れるように扉を押し開けた。



「いらっしゃい。先生が待ってるわ」

「ありがとうございます」



 軽く会釈して扉の向こうへ入り込む。広い待合室には白い長椅子が設置され、診療終了時刻から三十分経過しているというのに未だに診療を待つ患者が数名いた。受付に向かう前に桐谷に診察券を手渡す。プラスチックの青いカードに、油性マジックで常盤霖雨と記されている。

 観賞用植物が青々と茂り、白い待合室には清潔感が満ちている。窓の外は既に暗い。一人また一人と診察室の奥に消え、時折聞こえる奇声にも誰もが慣れたように読書や瞑想を途切れさせることなく続けている。



「――常盤霖雨さん」



 漸く名前を呼ばれたのは、既に時刻は六時半。待合室にいるのは自分だけとなっていた。

 見慣れた白い回廊を通過し、正面の扉を叩く。中からの返事を合図に扉を開けば、穏やかな笑みを浮かべる黒縁メガネの白衣の医師。かっちりと閉められた淡い青のネクタイと皺一つないシャツは清潔感がある反面、隙の無いその様に少し緊張する。



「今晩は」

「今晩は」



 勧められて丸椅子に腰掛ける。院長である柊時生が直々に診療するのは、この病院を勧めた大神林檎の父の友人であるという所謂伝手のお蔭だ。

 柊はじっと顔を見詰め、言った。



「今日は霖雨君だね」

「俺以外で来たことがありましたか?」



 嫌味ではなく純粋な質問だ。度々言うが、時折記憶が抜け落ちてしまう。そのときに自分が一体何をしているのかは全く解らない。もしかしたら通院しているのかも知れないし、変わらず日常を送っているかも知れない。そして、何か犯罪行為を起こしているかも知れない。

 柊は緩く首を振った。左手でメガネのブリッヂを押し上げ、柊は微笑んだ。



「物忘れはどうかな」

「相変わらずです。今日も、一時間目の英語から放課後までの記憶が無い。ノートは白紙だし、教科書も出しっぱなし。それなのに昼食は空っぽ」

「ふうん」

「――最近、声がするんです」



 思い出して口にすれば、柊医師の目が光ったような気がした。

 頭の中に響く重苦しい声を思い出しながら、ゆっくりと言い放つ。



「其れを開けてはならぬ。其れは禍の扉、破滅の道。開けてはならぬ……って」

「其れ、とは?」

「さあ」



 困ったように首を傾げると、柊は微笑んだ。



「その声はどんな声だった?」

「重くて暗くて、老人みたいな嗄れ声」



 迷い込んだことは無いけれど、出口の無い洞窟とはあんなものなのだろうと思った。暗くて寂しくて、底冷えする。

 けれど、柊は低く唸った。



「そうか。私は一度だけ、もう一人の君に遭ったんだ」

「もう一人の、俺……」



 柊は頷いた。



「でもその人は、決して老人でもなければ嗄れ声でもなかった」



 それはつまり、自分の中で分裂が始まったということだろうか。自分の中に正体不明の他人が入り込んでいるというのは気味が悪かった。今此処にいても、ふと気が付いたときには全く別の場所にいる。自分にはその記憶が無い。

 柊医師は此方の様子を注意深く見ながら、しかしそれを悟られないよう穏やかに言った。



「君が初めて此処に来た日、診察を終えて帰ろうとドアを引いた。そのとき、振り返ったんだ」



 そのときのことを覚えていない。だが、覚えていなくても当然と思う何気ない動作の瞬間に、『彼』は現れたのだ。顔も名も知らないもう一人の自分。



「『余計な真似をするな』」



 柊医師の声は、何故かあの嗄れ声と重なって聞こえた。

 背筋に走った冷たいものの正体は解らない。驚愕と恐怖で震える指先を誤魔化すように、強く拳を握った。



「……それ以来、『彼』は僕の前には現れていない。でもね、その声は決して嗄れ声なんかではなかったし、暗くもなければ重くもないはっきりとした青年の声だった」



 穏やかに微笑む柊の真意は解らない。けれど、通院して二か月になるが初耳であるこの話を今まで黙っていたのは、自分がその事実に堪え得ると判断したからだ。確かに、そんな話を聞いたところで如何しようとも思わない。不気味とは思うものの、どんな人物かも解らないままでいるよりは幾分マシだった。

 柊の話を聞いてから、頭の中でその青年の姿を想像する。気味の悪さはあっても、確証も無く悪い人間ではないように思ったのだ。

 夜の街並みを映す窓は鏡のようだった。バイト先へ向かう電車に揺られながら、扉の前でぼんやりと立ち尽くす。映り込む自分の疲れた顔。帰宅ラッシュに重なった車内はスーツや学生服の人間が犇めいている。電車が揺れる度に、人と人に挟まれ潰される。

 出勤時間は既に過ぎた。遅刻だ。

 蚊を追い払うように、太腿を撫でる何者かの手を払い除ける。男か女かも見境無しに手を伸ばす愚かな人間と遭遇することにも慣れた。満員電車は嫌いだ。

 足が重い、肩が重い。明日も学校だ。終われば深夜までバイトし、帰宅すれば泥のように眠る。なんて退屈な毎日、下らない日常。

 男子高校生が二人、扉の傍の吊革にぶら下がりながら携帯を片手に笑っている。家族の話、部活の話、彼女の話。他愛のない毎日を当たり前のように笑って過ごしている。

 刺激が欲しいとは思わない。ただ、笑い合いたいだけだ。

 不意に、林檎にメールの返信をしていないことを思い出す。毎朝のことながら、インターホンもチャイムも無い質素なアパートの薄い扉をけたたましく叩く。その林檎のノックから、一日が始まるのだ。



『いいよ。また明日』



 絵文字の一つも入れない短く素っ気無い返信。送信完了の知らせと共に、携帯の電源が落ちた。大して使った覚えも無いけれど、充電切れらしい。溜息を零し、ポケットに押し込む。

 目の前の扉が開いた。目的地に着いたのだ。声が聞こえた。あの嗄れ声だった。



――開けてはならぬ。

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