6話
「はい、遥香ちゃんは紅茶でー、ももちゃんは桃のジュースね。桃だからー」
彼に二つの紙コップを差出されるまま、それを受け取る。
「ありがとう」
「どうも。でも、ももちゃんだからっていう安易な選択はどうかと思う」
えー、名前にちなむことの何がいけないのさーというよく分からない反論を受けながら、ちらりと横を見ると伊藤さんがいただきますと言いながら紅茶に口をつけていた。
「じゃあまあ親睦を深めてくれたまえよ!」
「いや、何を話せば……」
「そうだね……、お互いのこと何も知らないし」
まずは自己紹介? でもさっきしたしなー。
彼は首を傾げる。そして、にかっと笑う。
「うーん、じゃあ一つ、この素敵な栗色の髪の話でもしてあげようか!」
「え、何か理由があるの?地毛じゃないの?」
「ざんねーん。染めてまーす。生粋の日本人ですからー」
じゃあなんで注意されないんだ。
この学校の生徒は基本的に本当に真面目で、靴の踵を踏むこともなく、スカート丈も膝丈でという学校だ。唯一セーターだけは自由だが無地、もしくはワンポイントという規則がある為派手なものを着ている人はない。
しかも先生によるチェックもなかなかに厳しく、違反は即指導だった気がする。といってもその場で直せるレベルの違反しかしないそうだけれど。
「確か夏休みが終わった頃だよね、変わったの」
「そうそう。よく覚えていらっしゃる」
夏休みデビューか。
「これにも深いわけがあるんだよ。まあ聞き給え」
こほん、と藤沢君が咳払いをする。
「それは、夏休みが終わってすぐのある日のことでした……。実は俺、重度の活字中毒で、何か読んでないと落ち着かないんだ。本の虫ってやつ? この見た目だとなかなか信じてもらえないんだけどねー。
でさ、夏休みの間って家にいるから、図書館にはあまりこれない。暑くて出歩くのしんどいし。まあ、家の中の本やら新聞やらパンフレット。般若心境から、町の秘密の文書まで。ありとあらゆるものを読みつくしてしまったんだよ。それこそ、家中の文書をね。
俺は、途方に暮れた。その日はたまたま図書館が閉館してて、本が借りれなかった。同じ文書は読んでもつまらない。何かいいものがないかと思案していた時。俺のカバンがぱたりと倒れた。教科書がばさばさと落ちる。しかし教科書はもらったその日に読破済み……。あまりに酷い。俺に救いをと思ったとき…その手に飛び込んだのが……」
「はあ、それで」
「生徒手帳だ。教科書に埋もれていたそれは、いまだ目を通したことのない文書であふれていた」
「最初に読めよ。教科書読む前に」
「で、気づいてしまったわけだ。この生徒手帳、パーマは禁止って書いてあるけど、染髪は禁止されていない」
見てみ、と生徒手帳を渡される。確かに学生の身だしなみという項目には染髪は禁止されていない。
「で、俺は染めていった」
「なんで!?」
「個性がほしかった。それだけだ」
なんか馬鹿だな、この人。
「ま、案の定その日に呼び出された」
「当たり前だな」
「しかし、俺は人よりよく舌が回った。口がうまかった。とりあえず、俺は規則を破る気がないことと、規則に染髪禁止が記されていないことをつきつけ、まあ口で勝利してしまった。生徒手帳は来年の新入生入学まで変えられない。予算の問題でだ。実は規則上は変わってるんだけどね。で、特例として、この髪が許されている、というだけの話」
伊藤さんは聞き終えると、すごい、よく気づいたねと褒めたたえた。彼はまんざらでもなさそうにそれほどでも、と返す。
もう、なにがなんやら。
「一言いっていいか?」
「なんだね?」
「すごくバカっぽいね」
* * *
不本意ながらあの話がよかったのだろう。
俺達の間には妙な親しさが芽生え始めていた。
放課後は図書室に通う日々が続いた。閉館時間まで各々本を読んだ後、自販機の前で紙コップに入ったジュースを一緒に飲んで。俺が科学部、しかも一人だけの部員だったので、第二物理室で駄弁ることも多かった。
三人で過ごす日々を、俺は心地よいと思うようになっていた。この能力のためか人と深く関わることを知らず避けてきたが、彼女といるとそんな不安まで消えそうな不思議な安心感があった。
藤沢くんと伊藤さんも俺をきっかけにかなり親しくなったらしい。前は挨拶くらいだったんだけど、結構話すようになったなー、と言うのを本人から聞いた。
それと。
俺は伊藤さんに淡い思いを抱くようになっていた。
嘘から出た真、とでもいうのだろうか。彼女と話すと、嬉しくて、彼女のことが気になって。
それは確かに、初めての感情だった。
いつものようにベンチに座る。
不本意ながら彼と出会ってから少し、日々を過ごすことが楽しくなったと思う。
少し冷たい空気を肌で感じながら、暖かい紅茶を啜る。一口飲むごとにじんわりと指の先に熱がともってくるようだった。
「なんで、俺にこんなに構うんだ?」
ずっと、思っていたことだった。
俺は確かに、メリットがあった。だけど、彼には?
彼はその質問を受けると、困ったように笑った。きっと理由などないのだろう。そう思ってミルクティーを啜り、ひとつ息を吐く。
瞬間、原液を落とすように彼の琥珀色は濃く、濃く、強くなった。重ささえ感じるようだ。
声を聴こうと耳を傾けるけれど、彼の心は何時もと対照的に凪いだ水面のように何一つ零さない。なのに、彼はいつもと変わらず笑顔のままだった。
「……わかってくれると、思ったから」
消えそうな声でそう言った彼は、本当に寂しそうで。
「俺は、人の心が読めるんだ」
「はは、凄い」
泣きそうな声で笑う藤沢君を、横目で見る。
自分でも、なんでこんなことを会って間もない人に言っているのかわからない。だけど。彼なら否定しないだろうという確信があった。
「本当だよ」
彼は馬鹿にするでもなく、引くでもなく、ただ淡々とそうだったらいいのに、と言った。
* * *
そうして、二週間が過ぎた。本当に、時間が早い。三人の関係は、ずっと前から続いていたような心地よさと、僅かに色めいた高揚感があった。
好きなんだと、思う。
伊藤さんも、藤沢君も。
どちらもひどく不思議な人だ。あの周囲を染め上げる珊瑚色の謎も、未だわからないまま。
けれど、思うのだ。彼女はそんなに悪い人ではないと。
いつものように鞄に教科書を詰め、図書室に向かおうとする。
すると村上君が少し苦しそうな色で、こちらを見つめていた。
「最近、忙しそうだな」
「うん、部活とはあんまり関係ないんだけどね」
そっか、大丈夫ならいいんだ、と呟いた。
そしてひとつ息をつく。
彼の目が、じっと俺を見て、僅かに驚いたように目を見開いた。
《なんで》
何かあるのだろうか。まあいいや。
「そうだ。村上くんは、恋ってしたことある?」
村上くんは拍子抜けしたようにきょとんと此方を見つめると、苦く笑う。
彼の色が複雑に絡み合い、ほのかに色めいた。少し口を開くのをためらって、小さく声をこぼす。
「あるよ」
聞かせて、とせがむと、彼はちょっと恥ずかしいんだけど、と前置きして口を開いた。
「確か、小学校2年生くらいのことだったと思う。
自分でも早熟だなと思うんだけど、当時の僕には好きな女の子がいたんだ。
その子が笑うと、周りに花が咲いたように空気が華やいで、こちらまで明るくなるような、そんな子だった。
その時の僕には、その子が一番大事で、多分何に変えても守りたいと本気で思っていたんだ。
昔の話なんだけど」
彼はそう言うとぎゅうと目を閉じた。
《今でも……だれにも渡したくないくらい》
「やっぱり恥ずかしいね」
彼は照れ笑って、頬を掻く。
「すごく、いい恋なんだね」
「はは、醜い想いばかりだったよ」
彼はそう言って目を細めると、じゃあな、と言って教室から出ていった。
恋心、か。
俺の思いは、どう見えているのだろう。