4話
ざぁざぁと、バケツをひっくり返したような雨が降り続いている。
先ほどまでの様子が嘘のような土砂降りだった。
……あの色を見た後、俺は逃げ出してしまった。
あの時、自分は初めて感じた違和感に怯えていたのだと思う。
昇降口から一歩出て、雨の境に手を伸ばす。雨の弾幕がバチバチと音を立て、手の甲を断続的に打ち抜いた。
感じる痛みに少し心がホッとする。
こんなことで贖罪のつもりだろうか。
先ほどのことを思い出す。
無知は罪だと、誰かが言った。知らないから恐れ、怖がる。……考えろ、考えろ。
ぐっと目を閉じる。
俺は、人の感情が、心の機微が色で認識できる。
けれど、それは怒っているから、泣いているからこの色という単純なものではない。
個人にはパーソナルカラーとでも言えばいいのだろうか、その人のベースの色がある。その色がいつもと比べて、明るいとか、沈んでるとか、そういうもので判断している。
パーソナルカラーはその人の経験だとか、気持ちの積み重ねだからそうそう変わる事はないし、簡単に変えられるものではない。
そして、それはそのまま色が被ることの異常性を表している。
彼女の周りの人間の色は、皆スポイトで抽出したように同じだった。淡い珊瑚色は辺りを優しく染めていたけれど、俺にはそれはどこか空虚で、ひどく異常なものに感じた。
俺が知っている限り、同じ色というのはほとんど奇跡といった確率でしかありえない。
そもそも色は理論的には無限だ、あんなに些細な違いすら認められないのはどう考えても変だ。
なら。
なら、もしかして彼女も「そう」なのかもしれない。
ポン、と背中を叩かれる。
「よ、さっきぶり!」
琥珀色の彼がそう言って笑った。
「いやー、さっき何か慌てた感じで帰っていくからさ、ちょっと気になって」
そう彼は言いながら、鞄を探る。
「で、もしかしたら、コレかなーって思って!」
さっきもさ、雨の強さ確かめていたみたいだし。そう彼は言い、臙脂色の折りたたみ傘を取り出し、俺の手に乗せた。
「いや、でも」
「大丈夫!もう一本、ほら、置き傘!」
彼は左手で傘立てから紺色の傘を抜くと、軽く掲げにかっと微笑む。その笑顔になんだか気が抜け、ありがとうと小さくお礼を言うと、彼もどういたしましてと返した。
彼は傘をばさっと広げる。紺色の傘の内側は青空を模したプリントが広がっていた。そのまま傘をくるりと回して雨の中に躍り出る。
「それ、明日でも明後日でもいいよ」
傘のプリントの青空のように晴れやかな笑顔を浮かべる彼の色は、相変わらず澄んでいて、濁ったものなど何も知らないような気さえした。
少し、自分には眩しい。
「あ、それから、俺応援するから!」
「……え?何を」
「遥香ちゃんのこと!好きなんだろ?」
あと、声もかけられないほど純情さんみたいだし。
そう言う彼の言葉が一瞬飲み込めず、言葉に詰まる。クエスチョンマークが徐々に消えていったとき、顔にぶわと血が上るのを感じた。かぁ、と頬が熱く染まる。
「ち、違うっ」
「まあまあ、そんな赤い顔して否定しても誰も信じないって」
君の恋は俺が実らせてあげますとも!
彼はそう言い、自分の胸をとんと叩いた。
「じゃあな!」
彼はそう言い残すと、空を切り取ったような傘を揺らし走り去っていった。
残された俺は、傘を手に持ったまま、呆然と空を見上げることしか出来ずに。
* * *
昨日の雨が嘘のような快晴だった。
空はどこまでも青く、雲さえ遠い。俺はいつものように坂を淡々と登り、学校へと向かう。この季節特有の透き通った空気を肺いっぱいに吸い込み、短く息を吐いた。
校門をくぐり、100mほど歩くと昇降口がある。全校生徒1000人の在籍するこの学校では、朝のこの時間帯はなかなかに人が多い。挨拶を交わす友人、急いで駆けていく人。重そうな鞄を担ぎ直して朝の小テストの話題が飛び交う。
昇降口を抜け、下駄箱に向かう。中は外よりもさらに人口密度が高く。靴を履き替え、教室に向かう人々の淡い色がたくさん重なって、まるでステンドグラスのようだった。
水柿、淡紅藤、若葉色と色を辿っていくと、見覚えのある琥珀色を見つける。
下駄箱を開け急いで上履きに履き替えると、数歩の距離を詰め、彼の鞄を引っ張った。
「うおっ」
彼は鞄がずれたことに驚きの声を上げ、こちらを振り返ると、少し目を見開いた。
「おはようございます」
「あ、おはよー!昨日ぶりー」
彼はひらりと手を振ると、人懐っこい笑みを見せる。
「昨日は傘、ありがとうございました」
俺は臙脂色の折りたたみ傘を取り出すと、両手に乗せて差し出す。
「はいよ。確かに受け取りました!」
「あとこれ、お礼」
「あはは、律儀だねー。でもありがと、俺このお菓子好きなんだ」
彼は少し驚くと、一口サイズのチョコレートの袋を受け取り、なんか返って悪いね、と言葉を重ねる。
それを見届けてから、俺はじゃあこれでと挨拶をし教室に向かおうと歩みを進めた。
数歩歩いたところで、ぐんと後ろに体が傾ぐ。
今度は俺の裾が引っ張られたのだ。
「あ、ちょっと待って!名前、名前知らない!」
そういえば、彼のことはずっと色で認識していたままだったと思い返す。名前も知らないのに、色を知っただけで、知人のような錯覚を覚えていたようだ。
「山神です。1年6組」
「下の名前は?」
「…とうき」
「へー、とうき君ね。漢字はどんなの?」
そう言われて少し目を逸らす、そして数瞬の迷いの後、上履きの踵を見せた。
学年の色を表す青いラインの上に、少し丸い字で記されている文字を見て彼は頷いた。
「桃の樹でとうき君、ね。なんか可愛い漢字だなー。ていうか、名前ちゃんと書いて律儀だね」
「入学式で言われた。それに、珍しいことじゃないだろ。この学校半分以上書いてるから。あと、桃樹は厄除けだとかで付けられただけだから、別に可愛さとかはない。呼ぶなら苗字で呼んでもらいたい」
そう主張すると、彼は顎に手を当てやまがみくんね、と呟いた。
「んー、でも折角こんな可愛い名前なんだからさ。有効活用しないとね。じゃあ、ももちゃんかな」
「も、ももちゃん……?」
「だって桃の樹なんでしょ?いいじゃん、ももちゃんで」
「よくない!」
女の子のような呼称で呼ばれることに焦り否定すると、彼は楽しそうに笑ってもう一度、ももちゃんねと呟いた。
「今日は小テストがあるから、ここでお別れな。俺は藤沢健!よろしく!君の恋のサポートは、しっかりやるから!」
5話は5日の朝7時投稿です。よろしくお願いします。