2話
俺の話をしようと思う。
それは確か小学校に上がってすぐの頃だったと思う。
俺は人気のバラエティ番組を眺めながら、こう言ったそうだ。
「なんでテレビのなかのひとはいろがないの?」
今までもこういう類の言葉をぽつぽつと零していたらしい。
母は念のためと眼科を受診し検査をした。「色覚の認知に問題があるとか言われたらどうしようって、不安だったのよ」と昔話の度に聞かされたものだ。
しかし検査の結果は異常なし。むしろ、人よりもよく見えているぐらいだと言われたらしい。
母は深く安堵した。何もなくてよかった。
そして同時に疑問が掠める。
ならば、なぜこの子はこんなことを言うのだろう。
彼女は父方の祖母へと相談することにした。母と祖母の関係はドロドロとした嫁姑問題など無く、適度な距離を保って上手くやっていた。それもあって話しやすい距離だったというのもあったのだと思う。その話を聞いた祖母は懐かしそうな目をして言ったそうだ。
「おじいちゃんの方の家系で時々いるらしいのよ。人の感情が色で見える子が」
「まあ、本当」
祖母は事も無げにお茶を啜りながらそう言った。パリンと音を立てて薄焼きの煎餅を咀嚼する。
「人の心に敏い子に育つよ」
「テレビの人は本当に近くにいるわけじゃないから分からなかったのかもしれないねぇ」
祖母の回答がまるでとんちを聞いているようで面白かった母は、くすくすと笑った。
祖母がこちらを見て不器用なウインクをする。それが秘密の共有だと幼心に感じた俺は顔を輝かせて、おばあちゃんに寄って行った。
おばあちゃんは俺を抱き止め、軽く頭を撫でる。
おばあちゃんは小声で、後でお話しましょ、と囁いた。
その声に明るくうんと答えて、その日は終わった。
後日、祖母の家に預けられることがあった。母が俺が小学校に上がったのを期にまた働くようになったのだ。母はシフトを減らしてもらってはいたが、働くときに一人にしておくのはあまりに忍びない。故にこうして祖母の家に度々お邪魔していた。
祖母の家は昔ながらの木造建築で、曽祖父の時代に建てられたという古い家だ。枯れ草色の土壁に、少し磨り減った畳。掛けられた金朱の帯の刺繍を指先でなぞって遊んだ。
軽い音を立て、襖が開いた。
お盆にあずきパイとお茶を載せ、するりと祖母が入ってくる。彼女はお盆を畳において座ると、パンパンと二回手を叩く。
おばあちゃんの人を呼ぶときの癖みたいなものだ。昔、喉を悪くして一時期声が出ない時があったらしい。その時にこの動作を覚えてしまったと祖母は言った。
お盆の前に座ると、祖母は笑ってお茶を入れる。透き通ったお茶の緑が、くるくると白い湯呑の中で踊った。
じっとその色を見つめる俺に祖母はそっと話しかける。
「誰に似てる?」
「けいたくん、に似てる。でも、けいたくんのほうがうすいかも」
「そう」
祖母はそう言うと、少し考え込むように目線を上にやる。僅かな逡巡のあと再び口を開いた。
「とうきくん。おばあちゃんは何色に見える?」
「えっと、少しにごった、あか色みたいな」
「うーん、赤色って言ってもいっぱいあるからねえ…」
彼女は顎に手を当て、少し考えるように首をかしげた。
「その赤は、青っぽい? それとも黄色っぽい?」
「うーん、ちょこっときいろ?」
「やっぱり色を言葉であらわすのは少し難しいね」
ちょっと待っとき、と言い残し彼女は部屋をでる。数分も経たぬうちにパタパタと足音が響き、おばあちゃんが帰ってきた。
彼女の手には少し角の磨り減った本。カバーの端は擦り切れて、何度も何度も読まれた跡が伺えた。よっこいしょ、と声を出しながら座布団の上に座り、祖母は膝の上にその本を置いた。パラパラとページをめくる音と、日に焼けた外の面に似つかわないほどの明るい白が目に飛び込む。文字はほとんど読めなかったけれど、紙の上にのった鮮やかな色合いに心が動いた。
「赤は、このあたりかね」
祖母は、本のページを開き、俺の前に差し出した。燃えるような強い赤、煉瓦のような鈍い赤、夕焼けの赤、洗ったように色の落ちた赤。色の展覧会のように赤が並んだ紙面をじっとみつめる。
「いろが、いっぱい」
「そう、これは色の本だからね。おじいちゃんがよく読んでいたわ」
祖母は懐かしそうに目を細めると、何かを慈しむように笑った。
同時に、彼女の周りの色もふわりと華やぐ。
「いろのほん…」
「そう、例えばこのお菓子の餡子の色はどれ?」
「うー…この色、に近い、気がする。でもちょっと違うような」
「小豆色。そうだね。こういう場合は一番近い色を選ぶといい。だからこれで正解だ」
す、と人差し指でつるりとした紙面をなぞる。
「おばあちゃんの色」
「浅緋、薄い緋色ね。いい色だ」
うん、やっぱり血だね。とくすくす笑って祖母は本をぱたりと閉じる。
「おじいちゃんは、ひいろ っていったの?」
彼女はその言葉に軽く目を見開くと、おやおやと言った。
「どうしてわかったんだい?」
「だって、きこえたから」
「聞こえったって、どういう?」
祖母がとんとんと背中を叩いて促すと、少しの躊躇いの後、少年は口を開いた。
「あのね、たぶんみんなが思っていること、きこえるの」
ざぁ、と窓の外に雨が降り始めた。
大粒の雨が窓を叩き、一気に視界が暗くなる。
《うわ雨やだ《傘持っ《濡れちゃ》て》きて《今日は》いない》お母さん《先週も《雨》置き傘》だ》《けっこう強《今日持って帰《体育》りたいものが》
ああ、そういえば今日は傘を忘れてきてしまった。
頬杖をついて窓の外に目をやると、分厚い灰色の雲。この色は薄鈍色、かな。
多分色に詳しくなったのはあの本のせい。
あの日、俺は祖母からあの本を譲り受けた。祖母は名残惜しむように表紙を撫で、少しの苦しさを滲ませて、持って行きなさいと穏やかに言った。
そんなに苦しいなら、おばあちゃんが持っていればいいのにと言った俺に、祖母はきっと役に立つからと譲らなかった。
あの本は今でも机の一番奥、鍵のついた引き出しの中に。
「じゃあ今日はここまでで終わりー。次の授業までにワークの137ページまで終わらせておくように」
とんとん、とどこからともなく教科書を揃える音が響き始める。
起立、礼という委員長の声に合わせて、儀礼的に感謝の言葉を吐いた。
母は今でも迷信だと思っているらしい。人の心の機微に敏い子に育つのね、くらいに考えているようだった。それならそれでいい。変に話して心配されるよりも、そのくらいに考えてくれた方が気が楽だった。この能力を知られることへの恐怖心もあったと思う。
母のことを信じていないわけではないが、同時に彼女のことを弱い人でもあると知っているから。お母さんだって、人間だ。その日の気分により感情が左右され、言葉も変化する。……その針が傾いた拍子に、母の心を疑ってしまうのが、きっと。
きっと、解っているから。
だから、母にだけは言わない。それが、自分に決めたことだった。
ぎゅうと目を閉じると、途端に周りの喧騒が戻ってくる。そのことに安心して、ひとつ息をついた。
顔を上げると、既にみんな帰り支度ができているようだった。
先生が廊下に出ていくと同時に、後を追うように皆が扉に吸い込まれていく。
そっか、もう一時間授業があるんだった。いつもならまだ駄弁っている人たちが、急いで帰っていくことに焦り、自分もその後を追おうと立ち上がる。すると隣から伸びた指が服の裾を摘んだ。
それに驚いて振り返ると、斎藤がにかっと笑って、一緒に教室まで帰ろうぜと持ちかけた。
次話は明日の夜7時に投稿します。よろしくお願いします。