1話
茶色くくすんだような鈍い色の空と、紅く色づいた山。心地よい風が傍らを通り抜けていく。学校の少し黄ばんだカーテンも、こうして風を受けてたなびいているだけで好ましく思えてくるから不思議なものだ。
時計の針は午後の授業が始まる5分前を指している。カチカチと歯車の回る音だけが静かな教室に響いていた。そろそろだな、と身構える。
数秒の静寂の後、頭に響くような鐘の音が学校中に鳴り響いた。予鈴だ。それと共に周りの音が一際強まる。それに少し目を細め、無駄にかさばる資料集と教科書にルーズリーフ、濃い藍色の筆箱を掴んで教室を出た。
教室の扉をくぐり、そっと扉を閉める。ドアのゴム材がドア枠にぴたりと嵌まり、意味もなく少し嬉しくなる。
廊下の少し色の落ちた無機質な淡い灰色のタイルを踏みしめ、廊下を左に。すでに人通りは少なく、自分の歩みを邪魔するものは何もなかった。この学校は真面目な気風で、なんだかんだと言って予鈴が鳴る前には皆移動教室は済ませてしまうのだ。制服を着崩すといってもシャツの裾を少し出すだけ、授業も数人の居眠りはあるが皆真面目に聞き、携帯電話持ち込み禁止を表面上は律儀に守る。俺はそんな学校の雰囲気が何より好きだった。
校内美化を促す派手なポスターを通り過ぎ、階段を降りる。落とし物だろうオレンジ色のシャープペンが、これまた律儀に窓の桟に立てかけてあってそれに少し笑った。途端に踊り場を通り抜けるように風が吹き上げる。ああ、やっぱり風が心地いい。それに、曇りの日が一番声が小さいしなと、一人心の内で呟きながら第二物理室までの路を早足で駆けた。
この時の自分は、柄にもなく気が大きくなっていたのだろう。
誰もいない、ひんやりとした自分だけの渡り廊下をいつものように足早に通り過ぎようとする。
ただ、今日は珍しく先客がいた。
渡り廊下の中程に一人の男子生徒。ただ、突っ立っているだけのようにも、佇んでいるようにも見えた。
比べなくても自分より長身のすらりとした体躯。一際目立つ少し明るめの髪色に首をかしげる。この学校は髪の色には厳しいのに、なかなか強者だ。同じクラスじゃないし、まあ、俺には関係ないけれど。
ああ、でもこの人、綺麗な琥珀みたいな色だ。少し沈んだ色にも見えるが、所々がきらきらと輝いていて面白い。こんなに透明感のある色は久しぶりに見る。
彼の後ろ姿から感じる色合いを勝手に評価しつつ、滅多にない透き通った深い色合いに心が踊った。
だから、無意識に心の距離を詰めてしまったのだろう。
すれ違って横を通り過ぎようとした瞬間、頭の中で声が鳴り響く。
《ああああお気に入りだいつった落とした使いやすかったのにどこ貰いどうしよう物にここではオレンジ色だか教なくなったら室にでも》
あまりに強い声に思わず首を竦めた。
落とした、どこに、オレンジ色、かろうじて聞き取れた単語が勝手に頭の中で組み立てられる。そして、するりと口から滑り落ちる。
「もし落し物なら、階段の踊り場にシャープペンが落ちていましたよ」
言葉を発したあと、しまった、と思った。
彼が驚いたような顔をしたのを視界の端に捉えながら、俺は全速力で駆け出した。
***
「あ、こっちこっち!」
第一物理教室に入ると教室の真ん中あたりから声が上がる。声の方へ目を向ける。
ペールグリーン、鶸色、ベビーブルー。よし。
素直にその声に従い、声をかけてもらったグループの方へ近づいた。
「お、今日は寄ってきた」
「こいこーい」
グループの一人がポンポンと余った椅子の上を叩く。
「お邪魔します」
一礼して叩かれた席に座ると、先程と変わらない談笑が始まった。
基本的に、俺はどこのグループにも属してはいない。正確にはよくお世話になっているところなどもあるが、こうして呼ばれたところに参加させてもらっている。
有難いことだと、自分でも思う。こういう場合普通は一人ぽつんと座るのが常かもしれないが、大体どこのクラスにもこうしたもの好きは数人いて、何かと構ってくれているのだ。
「違うって藁だよ、藁のところで吸うんだって。ほら、あの空洞がさ」《細いし結いるし構力が》
「それでジュース飲んで美味しいの?」《藁の中ストローの身はど掃除うやって》
「まあ人それぞれ嗜好というものがあってだな」《おなメロンパかンすいた》
このグループはクラスでも一際穏やかでほっとする。
きっと理性が強いのだろう、彼らの声は穏やかで、落ち着いていて。聞いていて楽だった。
ああ、そういう意味で言えば、さっきの人は随分と無防備だった。
瞼の裏にちらちらと琥珀色が浮かんでは消える。
いやでも、なんであそこであんな事を言ってしまったのだろうか。
彼らの話を聞き流しながら、教科書の上に頭を乗せ突っ伏す。今まで心の隅に燻っていた自責の念が、途端に溢れ出した。
本当は、先ほどの失態など誰も気にしていない。ふとした違和感など、人はすぐ忘れてしまう。分かっている。分かっているはずなのに、こうしてぐるぐると悩んでしまうのだから本当に自分は。
ああああ、もう、うわあああああああっ!
唐突に自分の行動がいたたまれなくなって机の上でパタパタと腕を動かす。
「どうしたー?」
《腹痛か?》
一際優しい声が近づいて、頭をポンと叩いた。顔を上げると広がる萌黄色。黒髪を短く切りそろえた、真面目そうな少年がこちらを覗き込んでいた。
彼をじっと見つめ、少しの違和感に眉をひそめる。
「体調悪い」
ぽそりとそう言って、彼を椅子に座らせる。
彼は驚きに目を見開きながら、手を引かれるままに席に着く。
「え、大丈夫か」
「違う、村山くんが」
心配そうに気遣う声に、言葉を被せる。
彼はそう言われると、キョトンとした顔をして、相変わらず凄いなあと柔らかく笑んだ。
「季節の変わり目は注意しなよ」
「え、なんだ。村山しんどいのかー?」
「恭成は無理するタイプだからな」
「山神が言うならそうなんだろうし」
俺のかけた声に触発されるように次々かけられる言葉に、ごめんと笑う。周りからたくさんの手が村山くんに伸ばされている様子がとても幸せそうで、こちらの心までふわりと灯が点った。
「ほーら、授業始めるぞー」
「あ、やべ」
「先生きたよー、日直ー!」
優しい人、優しい世界。願わくばこれが、いつまでも壊れませんように。