騒がしい隣人
◇
一方、少年が所属するクラスでは……。
「うぅ、教科書忘れた……」
少女が一人、右側に束ねられた黒髪を揺らしながら、嘆いていた。その言葉を示すように、鞄の中を探りながら。
「どうしよう、今日の物理」
どうやら、忘れたのは物理の教科書のようだ。しかも、どうも彼女は物理が苦手のご様子。
「仕方ない、まおちんに借りよっと」
解決策が見つかったようだ。
「あっ、まおちんだ。おーい、まーおーちーん」
手を振る少女の目線の先には、先程の少年の姿があった。この二人はクラスメイトのようだが、彼から教科書を借りるつもりなのだろうか?
「うるさいぞ楠川。それと、教科書なら貸さん」
少年はスタスタと自分の席に着いた。というか、何故それを?
「えー? 何で?」
「お前に貸したら俺が困る」
ご尤も。二人の席は結構な距離があるため、二人で一緒に見る、という訳にもいかない。
「いいじゃん別に。まおちん賢いし」
「寝言は寝て言え。あと、俺のことを平仮名で呼ぶな」
少年に言われて、少女は頬を膨らませた。
「じゃあさあ、私のことも名前で呼んで欲しいな」
「呼んでるだろ? 楠川って」
「そうじゃなくって、下の名前で」
「海外じゃあ苗字のほうがあとだ」
「それだと横書きだもん。下とか上とかないもん」
「知らん」
少年はそういうと、鞄の中から用意を出した。
「ね? 物理の教科書。半分でいいから貸して。お願い」
手を合わせて頭を下げる少女。
「だったら後半部分だけ千切って貸してやる」
「それじゃ意味無いじゃん! また一年の最初のほうなんだよ? せめて前半貸してよ」
「それだと俺が困る」
「いいじゃん別に。まおちん賢いし」
「会話は堂々巡りしてるぞ。あと、俺のことを平仮名で呼ぶな」
「じゃあ私のことも名前で呼んで」
「呼んでるぞ。楠川って」
「下の名前で呼んで」
「ほんとに堂々巡りしてるな……。それに、お前の名前忘れた」
「あーっ、ひっどーい! こんなに長い付き合いなのに、名前もろくに覚えていないの!?」
「たった一ヶ月の付き合いなのに、ほんとにそう思えてくるぜ……」
少年は溜息を吐いた。息切れしてきたのかもしれない。
「とにかく、私の名前は仁奈。楠川仁奈なの!」
「強調せんでいいだろうに」
「忘れるまおちんがいけないの」
「だから平仮名で呼ぶな」
「だってぇ、まおちんの字って、難しいんだもん」
「そんなことないだろ? 魔物の魔の字に緒言の緒で魔緒。簡単じゃないか」
「十分難しいよ」
「お前、漢字能力検定一級は絶対とれないな」
「四級も無理」
「自慢げに言うな」
「漢字とか嫌い」
「お前ほんとに日本人か?」
「まおちんのほうこそ、ほんとに日本人なの?」
「知らん。今の親だって詳しいことは知らないし、正直自分が何処の国の人間かなんて知りたくもない」
「国籍は日本でしょ?」
「便宜上な。ほんとのところは全く分からん」
そこで丁度、チャイムが鳴った。
「つー訳で、さっさと席に戻れ」
少年は少女を追い払うように手を振った。
「ちぇー、まおちんのケチ」
「ケチとかのレベルじゃねえけどな」
そんなこんなで、朝のホームルームが始まった。