やっとこさ猫耳ファンタジー
◇
「な、何……?」
仁奈は恐る恐る、声のしたほうへ振り向く。それも、必要以上にゆっくりと、時間を掛けて。
「も、もしかして、……幽霊?」
などと呟くも、それに答える者などいない。
しばしの沈黙。しかし、無人だと思っていた校舎から悲鳴が聞こえてきたのだ。その直後の沈黙というのは、少々辛いものがある。
「……ねえ、誰か居るの?」
その問いに答える者は、やはりいない。もっとも、いるほうが怖いかもしれないが。
またしても沈黙。あれ以来、何の物音も聞こえず、あの悲鳴の正体も不明なままだ。言い知れぬ不安と恐怖によって、いよいよ仁奈の緊張はピークに達する。足は竦み、声帯は音を発することを拒む。瞳には涙が溢れ、全身はガクガクと震え出す。このままでは恐らく、失禁してしまうのも時間の問題だろう。
そんな仁奈の背後で、音がした。足音、というよりは物音に近い。何かを叩くような音。いや、それよりも小さい。喩えるなら、何かに何かを重ねたような音。
とにかく、音がしたのだ。無論、この静かな状況で、仁奈がそれに気づかない筈がない。というか気づいている。だが、今の仁奈には振り返る勇気などというものは残されていなかった。
「……ぃ、ぃぁ」
声にならない叫びが、仁奈の口から洩れる。全身が既に青ざめ、というか最早、青を通り越して真っ白になっている。極度の緊張のためか、唇も口の中も乾き切っており、そのくせ肌からは冷や汗が大量に溢れている。
そうしてる内にも、音は段々と近づいてくる。それはつまり、音の発信源も近づいているということだ。
それにも気づいた仁奈は、いよいよ実感した。―――自分の命が、かつてない危険に晒されているということを。
「誰なのにゃ?」
と思ったのも束の間、のほほんとしたソプラノが聞こえてくる。
「へっ……?」
思わず素っ頓狂な声をあげる仁奈。あまりに緊張のない声に釣られて振り向くと、そこには―――
「う~ん、暗くてよく見えないのにゃ」
少女がいた。右手で、真っ赤に光る瞳を擦っている少女。かなりの高身長だ。その短い白髪頭の天辺には、あろうことか猫耳が生えていた。この学校の制服を着ているのを見るに、この学校の生徒なのかもしれない。
「……誰?」
その明らかに異様な形をした少女に臆することなく(というか拍子抜けしたために緊張が解れ)、言葉を発した。
「うにゃ、その声は仁奈ちゃんなのにゃ?」
少女は、首を傾げて尋ねる。そしてグイっと顔を近づけると、仁奈の顔を覗き込んだ。
「えっ? えっ?」
見知らぬ少女に顔を近づけられて、困惑する仁奈。少女の瞳が妖しく光っているせいか、先程の恐怖が戻りかけているのかもしれない。
少女は暫く仁奈を凝視していたが、やがて顔を離し、
「やっぱり、仁奈ちゃんなのにゃ」
笑顔で頷いた。
「えっと、……誰?」
とまあ、至極当然な反応を見せる仁奈。知らない人にいきなり名前を呼ばれたのだ。まず、相手が誰なのかを確かめるのは基本中の基本。というか、条件反射的にそうしてしまうのだろう。
「にゃ。私のほうは初めましてだったのにゃ」
少女は、左手に持っていた分厚い本を閉じた。先程の物音の正体は、この本のページが擦れた時のものなのかもしれない。
「私は猫田魔似耶。呼ぶときは、平仮名にしてほしいのにゃ」
「ま、まにゃ……?」
「そうなのにゃ。まにゃ、なのにゃ」
魔似耶、と名乗る少女は、笑顔でそう繰り返す。
その笑顔に幾分安堵させられて、仁奈はほっと一息吐く。
「にゃ。落ち着いたのにゃ?」
魔似耶は、再び仁奈の顔を覗き込む。
「あっ、えっと……うん」
仁奈は、何故か顔を赤らめながら答えた。
「にゃ? どうしたのにゃ?」
魔似耶のほうもそれに気づいたようだ。
「顔……。そんなに近づけられると、恥ずかしいよ」
「にゃっ、ごめんなのにゃ……。私は目があまりよくないのにゃ」
魔似耶は慌てて顔を離す。
「そうなんだ」
この暗い中では、視力も殆ど関係ないのでは? と思った仁奈だが、そんな野暮ったいことを一々口にする彼女ではない。それよりも―――
「それで、こんなとこで何してるの?」
今一番気になっていることを尋ねた。そう、魔似耶が何故、この夜の学校にいるのかということだ。
「にゃ……。それは、とっても答えにくい質問なのにゃ」
魔似耶は、頬を掻く仕草をしながら苦笑する。
「どうして?」
「うにゃ~。あんまり普通の人に言わないように言われてるのにゃ」
「ふ~ん……」
仁奈は、それ以上訊くのはやめることにした。これでも、他人のプライベートには深入りしないようにしているのだ。―――ある一人以外に対しては。
「仁奈ちゃんこそ、何でこんな所にいるのにゃ?」
「私? それがその……、宿題を忘れてきちゃってさ」
「取りに来たのにゃ?」
「うん、そう」
なんとも、情けない話だ。
「でもにゃ仁奈ちゃん、夜の学校は危険が一杯なのにゃ。だから、無闇に入っちゃ駄目なのにゃ」
諭すような口調でたしなめる魔似耶。まるで、妹に言い聞かせる姉のように。
「危険ってなあに?」
「うにゃ。危険というのはだにゃ、たとえば」
「たとえば?」
魔似耶は、左手に持っていた本を開くと、
「こんなことにゃ」
仁奈に背を向け、
「魔術解放」
何やら身構え、
「放て、閃光!」
呪文のようなものを唱えると、
「!」
眩い光が、辺りを満たした。