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バイトの先輩は何をしている?

 夕方の本屋のバックヤード。窓からは紅い夕日が刺し、静かさと相まって何処か神秘さを感じさせる。

 空調の低い唸りと、段ボールの擦れる音がわずかに残っているだけ。紙とインクの混ざった匂いが狭い空間の空気に溶けている。


 湊はロッカー前に立ち、慣れた手つきで制服のエプロンを外す。金属の鍵が小さく鳴り、開いたロッカーの中に荷物を押し込むと、肩の力を抜くように一息ついた。

 その横で、別のロッカーが同じく開く音がする。


「……珍しいね、一緒に上がりなのも」


 声の主は紫藤一華だった。

 制服から私服へと着替えつつ、ゆるく結っていた黒髪を指先で耳に掛ける。その仕草はいつも通り落ち着いていて、時間の流れまで緩やかにしてしまうような空気をまとっている。


「そうですね」


 湊は簡潔に返事をし、エプロンを畳みながら視線を落とした。

 一華は着替えを終えると煙草の箱を指で軽く弾き、微笑む。


「この時間に一緒って珍しいし……どう? 軽くご飯でも」


 それはあくまで自然な誘い方だった。

 押しつけがましくも、特別な間を持たせたわけでもない。だが、湊は即答できなかった。


「あー…………」


 わずかに間を置いて漏れた曖昧な声。

 湊の胸の奥に、小さな引っかかりがあった。数日前の詩織の追及がまだ完全には消えていない。あの時に見せられた、冗談めかしながらも妙に鋭い視線――それが頭の隅に残っている。


 バイトの先輩と詩織は何も関係がないのに、別の事に頭の容量が割かれているからこそ、パッと言葉が返せなかった。

 一華はその小さな間を逃さなかった。



「何か用事でもあるの?」


 問いは柔らかだが、瞳の奥にかすかな影が宿る。


 ――やっぱり。

 前にふと目にした、湊の横顔を一瞬曇らせる“誰か”の存在。携帯を見たときにちらついた女の影。

 あれは気のせいではなかったのだと、改めて一華は理解させられたような感覚に陥る。そんな思いが、ほんの少しだけ視線の温度を落とす。


「いや、別に……」


 湊は視線を逸らし、ロッカーの扉を押し閉めた。

 一華はその仕草を見つめ、口元に薄い笑みを浮かべる。


「なら決まり。行こ。断られると私、引きずるからさ。バイトの後輩に嫌われてる~って」」


 軽い調子に包まれた一言。しかし、その下には相手の返事を逃さない確かな力が潜んでいる。

 湊は返答に困りながら、わずかに肩をすくめた。


「やめてくださいよ。別に嫌ってないんですから」


 こういう時、この人は距離の詰め方がうまい。

 それを分かっていながら、湊は結局、彼女の歩調に合わせてバックヤードの扉を押し開けた。





 外に出ると、夏の夕暮れはすでに深い群青色を帯びていた。商店街のネオンが順に灯り始め、どこか湿った風が肌を撫でる。昼間の熱気をわずかに残しつつも、夜の気配が街全体を包み込んでいく。


 湊は自販機横の灰皿に寄る一華を横目に、ポケットに手を入れて立っていた。紫煙が細く立ちのぼり、街灯の光を通して淡く揺れる。その仕草は不思議と人を遠ざける冷ややかさと、同時に引き寄せるような魅力を持っている。


「で、何食べたい?」


 一華は煙草を軽く灰皿に押しつけて火を消し、何事もなかったように問いかける。


「別に自分は何でも」

 

 湊の返事は曖昧だった。


「困る返答だねー…………ふむ。じゃあ私が決めるよ」


 楽しげな口調で言いながらも、その視線は湊の横顔を逃さない。歩く歩幅を自然と合わせながら、言葉を探るように続ける。


「でもさ、さっきちょっと間があったよね。私の誘いに」


「いや、それは嫌だとかそういうのでは――」


「いいって。別に責めてるわけじゃないし」


 一華は微笑む。だが、その笑みは夕闇に溶けてどこか輪郭が曖昧だった。

 短い沈黙の後、彼女は何気ない風を装って視線を前に向ける。


「じゃあ無難に居酒屋でいっか。蓮見君成人してるよね?」


「はい、自分四月誕生日だったんで」


「お、良いね。先輩がお酒との付き合い方を教えてあげよう」


 一華は少し自慢げに口角を上げた。


「自分お酒はまだそんなに飲んだことがないので、お手柔らかにお願いしますよ」


 湊の言葉に、彼女は肩を揺らして小さく笑う。その笑い方は場の空気を軽くするようでいて、どこか相手の反応を楽しんでいるようでもあった。






 店の暖簾をくぐると、外の湿った空気とは違う香ばしい煙と油の匂いが鼻をくすぐった。

 カウンター奥の鉄板から立ちのぼる湯気、壁にずらりと貼られたメニュー札、揚げ物のはぜる音――庶民的な活気がそこにあった。


 店員に案内され、二人は壁際の四人掛けのテーブルに向かい合って腰を下ろす。木のテーブルは使い込まれ、所々に小さな傷が刻まれている。

 湊はメニューを開きながら、特にこだわりもなく視線を滑らせた。


「じゃあ、最初はビールでいい?」


 一華が片眉を上げて尋ねる。


「はい。……そんなに飲めないと思いますけど」


「分かってる分かってる。初心者には優しくするよ。酔わせるつもりじゃないし」


 軽口のようでいて、含みのある言い方。湊はわずかに笑ってごまかした。


 注文を終えると、間もなく運ばれてきたグラスには琥珀色の液体。グラス越しに立ちのぼる泡は照明の下でやけに鮮やかだった。


「お疲れ様」


 乾杯の軽い音。琥珀の苦味が喉を抜ける間、一華は視線を逸らさず、湊の反応をじっと観察しているようだった。


「んー………あんまり美味しさが分からん」


 湊は少し唸るような低い声でぽつりと呟く。


「ふふっ、ビールは好みじゃないか」


 湊の表情に恍惚とする一華である一方、湊は目を細めて苦々しい顔であった。


「てか、バイト、今日は結構混んでたよね」


 何気ない雑談から会話は始まる。湊も適当に相槌を返し、その間に運ばれてくる数々の料理。

 それらに箸を伸ばして、バイトで使ったエネルギーを摂取していく。


 しかし、一華の言葉は時折ふと、意図的に隙間を作る。


「そういえば……最近、休憩中に外出てること多くない?」


 湊は箸を止め、ほんのわずか間を置いた。


「そうですか? たまたまですよ」


「ふぅん。別に詮索するつもりはないけど……ちょっと気になっただけ」


 口調は柔らかいが、その奥に揺れるものは読めない。


 店内の喧噪が妙に遠くに感じられる瞬間があった。周囲の笑い声や皿の音が背景に溶け、一華の視線だけが鋭くそこに留まっているような感覚。


「ま、いいや。せっかく来たんだし、楽しまなきゃね」


 すぐに彼女は空気を緩め、揚げたての串カツを頬張った。衣がはぜる音がほんの少し緊張をほぐす。


 だが、湊はその笑顔の裏で何を考えているのかを測りかねたまま、ビールを一口含んだ。苦味が口いっぱいに広がり、その奥で更に別の苦さが小さく残っていた。

 

 そうして、湊がグラスを置いた瞬間だった。


「ねえ、蓮見君って――彼女とか、いないの?」


 あまりにも唐突で、湊は一瞬だけ呼吸を忘れる。箸先に残っていた枝豆の莢を皿に落とし、わずかに視線を泳がせた。


「……いないですよ、別に」


「別に、ね」


 一華は笑みを浮かべる。その笑みは軽い雑談に見えるが、瞳の奥では何かを測っているような硬さがあった。


「そういう仲になりそうな人も?」


「いないですってば。……というか、いきなりどうしたんですか?正直、紫藤さんがそういう話してくるとは思ってなかったので?」


「ん~?まあ、女子はみんなこういう話好きじゃん?私もその中の一人ってわけなだけだよ」


 一華はそう言って笑ったが、その視線は笑みの温度よりも少し低い。軽口のように見せかけながら、言葉の裏では何かを引っかけようとしているような、そんな感触が湊の中に残った。


 そして、ほんの間を置いてから何気ないように次の矢を放つ。


「前にさ、休憩中に誰かと電話してたでしょ。あれ、女の子の声だった気がするんだけど……気のせいかな」


 声は柔らかいのに、言葉の先端は針のように鋭い。

 湊は短く息を吐く。


「友達ですよ。ただの」


「ふーん」


 その返事は納得とも不満ともつかない。指先でグラスの縁をなぞりながら、一華は視線を湊から離さない。

 店内の明るさの中でその瞳だけが妙に深く見える。探るようで、でも触れれば飲み込まれそうな色。


 沈黙を切るように一華は串カツを一つ取り、軽く齧った。


「ま、そういうことにしとく」


 あっさりした言葉と裏腹に、その声色には小さな棘が潜んでいた。


 湊は苦笑を浮かべ、再びビールに口をつける。だが、喉を通る苦味はさっきよりも濃く、重く感じられた。


 ふと、詩織の顔が頭をよぎった。彼女も似たような質問を投げかけてくる。

 彼女持ちかどうか、誰と会っているのか、どんな関係なのか――細かく、探るように。


 何故女性はこうも恋愛の有無を知りたがるのか。悪意があるわけではないと分かっていても、その執拗さに軽い息苦しさを覚える。まるで見えない糸で、自分の行動範囲や人間関係を測られているような感覚だった。


 そんな湊の胸の内を知ってか知らずか、一華はほんの間を置いてから何気ない調子で次の矢を放つ。


「でも、蓮見君って割とモテそうな気がするんだよね。話したら結構印象変わるしさ。告られたこととかないの?」


  湊はわずかに眉を寄せ、箸の動きを止めた。


「……どうですかね。そんなに言われることもないですし」


 曖昧に笑って、皿の端にあった唐揚げへ箸を伸ばす。衣の熱がもう落ち着き、噛むと軽い音を立てた。


「ふーん。まあ、そういうのって自分からは言わないもんか。ましてや蓮見君だし」


 一華は意味深にそう言ってから、卓上の呼び鈴を手に取った。

 程なくして運ばれてきたのは日本酒の小瓶と冷えたグラス。


「ビールはあんまりみたいだから、こっちはどう? 飲みやすいと思うよ」


「いや、そんな……」


 言いかけた湊の前に、当たり前のようにグラスが置かれる。

 琥珀ではなく透き通った透明。鼻を近づけると、ほのかに米の甘い香りが漂った。


 一口、二口と流し込む。確かにビールより飲みやすく、舌の上に残る柔らかな甘味が次を誘う。

 気づけば小瓶は空になっていて、一華がいつの間にか追加を頼んでいた。


「ほら、これも」


 テーブルに新しいグラスが置かれるたび、湊は抵抗なく手を伸ばしていた。

 アルコールが少しずつ血の巡りを早め、頬に温かさを灯す。会話の内容もどこか輪郭が曖昧になっていく。


「……でさ、そういう時って……」


 一華の声は耳に届くが、意味を掴むまでにわずかな遅れが生じる。返事をしようとしても、言葉が舌にまとわりつくようで滑らかに出てこない。

 それでもグラスはまた傾き、透明な液体が喉を落ちていった。


 店の喧噪が次第に遠のき、代わりに胸の奥で鼓動の音がやけに大きく響く。視界の端が少し揺らぎ、背もたれに体を預ける時間が長くなった。


「……蓮見君?」


 一華の呼びかけに、彼は重いまぶたを上げた。


「……すみません、ちょっと……」


 言い終えるより早く、肩がわずかに傾く。


「……少しやりすぎたかな」


 一華は勘定を済ませると、立ち上がって湊の腕を自分の肩へ回した。

 外に出ると、夜の空気が一瞬で酔いを冷ますように頬を撫でるが、それでも湊の足取りは覚束ない。

 細い肩に彼の体重がかかり、一華は小さく息を吐いた。


「意外と軽い…………身長も凄く高いわけじゃないら、割と助かったな」


 口調は軽く、しかしその横顔はどこか満足げにも見える。

 夜道を二人の影がゆらゆらと寄り添うように伸びていった。


 夜道をふらつきながら進んでいた二人は、やがて通りの端に停まっていたタクシーに目を留めた。


「……歩きは無理そうだね。タクシーで行こっか」


 一華は迷いなく後部座席のドアを開ける。湊は促されるままに後部座席へ腰を沈め、頭は一華の肩へと寄りかかされる。シートの柔らかさが全身を吸い込み、さらに湊の意識を曖昧にしていった。


「どちらまで?」という運転手の問いに、一華は何の迷いもなくはっきりと住所を告げた。

 その数字と町名が、確かに自分の住まいを示していると湊が気づくまで、数秒の間があった。

 ぼんやりとした頭で「どうして……」と口を開きかけたが、言葉は空気に溶け、喉から出ることはなかった。


 車は滑るように夜の街を進んでいく。車窓に映るネオンと街灯の明かりが断続的に湊の顔を照らし、その瞼をますます重くする。

 ぼんやりした視界の端で、一華がわずかに口角を上げているように見えた。


 やがてタクシーは静かに停車する。運転手がメーターを落とし、一華が支払いを済ませた。


「ほら、降りるよ」


 肩を支えられながら外に出ると、見慣れたアパートの入り口が目の前にあった。


「鍵は?」


 耳元で低く問う声。湊は瞬きを繰り返しながら、酔いで混濁した意識の中を探る。


「あ……ポケット……ジャケットの……内側……」


 自分の言葉の意味を理解するよりも早く一華の指先がそっとその場所に触れ、金属の感触を引き抜いた。

 カチャリ、と鍵が回る音が夜気に小さく響く。


「はい、お邪魔します」


 軽い口調とは裏腹に、その背中にはためらいが一切なかった。


 湊はただ、足元を引きずられるまま、温かな室内の空気に包まれる。

 玄関のドアが閉まる音が、何故か外界との境界線をはっきりと描き出すように感じられた。


 玄関をくぐると一華は靴を脱ぎ、当たり前のように湊の腕を支えたまま奥へと進んだ。


「ベッドはどっち?」


 問いかけというより確認するための独り言に近い。湊はうなずいたのか首を傾けただけなのか本人にも分からないまま、寝室へと引きずられていく。


 部屋は思ったよりも整っていた。

 無駄な物が少なく、家具の配置にも無頓着なようでいて妙に統一感がある。机の上には読みかけの文庫本と、書きかけのノート。棚には古びたマグカップや小さな写真立てが並んでいた。


 一華は湊をベッドの端に腰かけさせ、そのまま背を押して横たえた。掛け布団を軽くかける動作は穏やかだが、その視線は絶えず部屋の隅々をなぞっている。

 机の脇に置かれた鞄――チャックが少し開いており、中に黒い手帳の端が見えていた。視線を向けるだけで、手は伸ばさない。ただ、その存在を記憶に刻む。


 ベッドの脇にしゃがみ込み、一華は湊の顔を覗き込んだ。


「……ほんと、無防備」


 低く呟き、湊の呼吸が落ち着くのを確認する。


 立ち上がると、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 画面を点けると、湊の寝顔にレンズを向ける。その瞬間の彼は普段の冷めた表情とも、バイト中の穏やかな笑顔とも違い、ただの若者の無垢な寝顔をしていた。


「おやすみ」


 囁くように言葉を落とし――


 ――カシャリ。


 静まり返った部屋に、シャッターの音が小さく響いた。



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