サークルの後輩は踏み込んでくる
サークルの部室は、夕方特有の薄橙色に満たされていた。
夏のオープンキャンパス用のサークル展示の準備のため、この日は残って作業する部員も多かったが、気づけば室内に残っているのは湊と詩織の二人だけだった。
「先輩、これ紐通すの手伝ってください」
詩織が差し出した紙束に細長いリボンを通していく。黙々と作業を続けていると、詩織がぽつりと呟いた。
「先輩って意外と頼りになりますよね」
「……それは褒めてるんだよな?」
「そうですよ? 私、こういう細かい作業って一人だと絶対飽きちゃいますけど、先輩が一緒だと進みますし。それに先輩、手先器用だからそつなくこなしてるじゃないですか」
口調は軽く、笑みも柔らかい。だが、ふいに詩織が湊の手元を止めた。
「……二人きりになったから言いますけど、この前のこと覚えてますか?」
その目は笑っておらず、いつもの明るさも消えている。
「………いや、何のことだか」
湊は苦し紛れに返した。
詩織の言う“この前のこと”を彼ははっきりと理解していた。
「先輩の家で、ご飯食べた日のことですよ」
低く抑えられた声。湊の脳裏に夜のスーパーで偶然会い、自宅に招き、ご飯を作ったあの日が蘇る。
そして何気なく――いや、軽率に口にしてしまったあの一言も。
「……覚えてるけど、それがどうした」
視線を外し、淡々と返す湊に詩織は間を置かず言った。
「“他の女を家に入れてご飯作ったことある”って言ってましたよね」
真っ直ぐに向けられる視線は鋭く、その奥に光だけが残っていた。
「いや、あれは別に大した意味じゃ」
「じゃあ誰ですか?」
畳みかけるような問いが落ちる。
「先輩の家に入って、ご飯作ってもらった“他の女”って」
湊は喉を小さく動かした。
何でもないつもりで言った言葉をこうして引きずり出されるとは思っていなかった。
「……昔の友達だよ」
「ふぅん。昔って、どのくらい昔ですか?」
淡々とした声色に温度の低い圧が潜む。
「中学からの付き合いの奴だ」
「……へぇ」
わずかに吊り上がった口元は笑っているはずなのに、冷たさを含んでいた。
「その人とは大学も一緒なんですか?」
「………ああ。というか、お前も検討ついてるんじゃないか。琴乃だよ。幼馴染の」
名前を口にした瞬間、詩織のまつ毛がわずかに震える。笑みを浮かべたまま、しかしそこには光がない。
「……ふぅん。琴乃さん、ですか」
指先でリボンを弄びながら、淡々と繰り返す。
「先輩が“昔好きだった人”ですよね? 幼馴染で、元カノ……」
湊の指が一瞬止まった。
「別に……ただの過去の話だ」
「そうですか」
納得の色はない。静かな水面の下で、重いものが沈んでいくような気配があった。
そして、詩織は柔らかな笑みを浮かべる。
「……ふーん、じゃあそういう風に言うってことは、もう先輩はその人に未練は無いって事ですよね?」
穏やかに見えるその笑みの奥底には、冷たく湿った何かが潜んでいた。
「……未練は無いな。というか、こんな事を聞いて何になるんだよ」
そう言いかけた湊に詩織は手を握り込み、視線を外さず重ねるように言った。
「んー? 別に。ただの恋バナと思ってくれればいいですよ」
柔らかな声色に混じる、妙な硬さ。湊は半眼で詩織を見やった。
「……いや、その割にはお前、表情がなんか怖いんだが」
「えー、そんなことないですよ。先輩がそう思うだけですって」
軽く笑い、再びリボンを通す。だが、湊の胸には先ほどまでの視線の刺が残っている。
「もう少し聞きますけど」
いつもの調子のまま、詩織は声を弾ませた。
「その琴乃さんって、今も先輩と仲良いですよね?」
「……まあ、幼馴染だしな。大学も学部も一緒だし、仲は悪くない」
「ふぅん。普通、一回別れた男女がそんな風に仲良くするなんて難しいじゃないですか?」
「そうか………? まあ、別れた後の数日は確かに気まずかったけど、琴乃の方から普通に喋りかけてきたからな。それを拒絶するのはどうかと思うし」
「……へぇ、琴乃さんの方から、ね」
詩織は相槌を打ちながらも手元から目を上げない。
「優しい人なんですね。普通、別れた相手にそんな風に接するなんて、なかなか出来ないですよ」
「まあ……そうだな」
湊はわずかに肩をすくめ、作業に戻る。刺すような追及が和らいだ気がして、少しだけ息がつけた。
だが、その安堵は長く続かない。
「でも先輩、琴乃さんのことをわざわざ“昔の友達”なんて言い方するんですね」
「……別に深い意味はない」
「そうですか? 私だったらそんな風には言わないですけど」
穏やかな口調のまま、じわりと距離を詰める。湊は机上の紙束に視線を落とした。
「先輩、誤魔化しましたよね? 何でですか? 私に知られたくなかったからですか?」
じわじわと押し寄せる詩織の言葉。湊は答えを探し、口を開きかけるが声は出ない。数秒の沈黙の後、詩織はふっと息を吐き、手元に視線を戻した。
「……あ、リボン絡まっちゃいました」
何でもない声色に、湊は肩の力を抜きかける。
「先輩って、そういうとき顔に出やすいですよね」
冗談のように聞こえる一言が妙に刺さる。
「……私が先輩の家に行ったこと、琴乃さんは知ってるんですか?」
「……わざわざ話す必要もないだろ」
「そうですよねぇ」
小さく頷き、作業に戻る詩織。一見追及をやめたように見えたが、口元には形の定まらない笑みが浮かんでいた。
「……でも、私やっぱり気になるんですよね」
視線は手元のまま、声だけが低くなる。
「先輩が私に作ってくれたご飯と、琴乃さんに作ったご飯……どっちの方が美味しかったのかなって」
湊は息を詰める。揶揄いのようでいて、別の意図が滲む。
詩織はそこで顔を上げ、はっきりと湊を見据えた。
「……琴乃さんとは、一度ちゃんとお話しないとですね」
その瞳は笑っているはずなのに、深い影を宿していた。