バイトの先輩はちょっと不思議
大学から二駅離れた場所にある、小さな駅前の本屋。繁華街から少し外れたその立地と、落ち着いた雰囲気のせいか、ほぼ常連客のみの静かな店だ。
湊がこの本屋でバイトを始めてもう半年になる。
この日、夕方のシフトに入っていた湊は業務をひと通り終えてバックヤードに向かった。
扉を開けた瞬間、ふわりと煙草の匂いが鼻をかすめた。
「……吸ってたんですか」
そう声をかけた相手は、椅子に腰かけていた一人の女性――紫藤一華。
同じ大学の文学部に所属する、一つ上の先輩。
黒髪をひとつに束ねたその横顔は凛としていて、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っている。
普段の接客中はクールで頼りになる先輩として、周囲の評価も高い。
だが、湊は知っている。彼女が意外と人混みが苦手で、休憩時間にはこうして静かな場所にこもりたがる人であることを。
「悪いね。喫煙所行くのも面倒だったからさ」
一華は灰皿の縁に白く細い煙草を押し当てながら、無表情のままそう返した。
制服のエプロンは外され、ラフに腰に巻かれているだけ。指先からはゆるやかに煙が立ち上っていた。
「吸わないんだっけ、蓮見くん」
「ええ、特に興味ないので」
素っ気なく返す湊に、一華は「そっか」とだけ言ってまた煙草を咥えた。火がついた先端が赤く灯って、彼女の横顔を一瞬だけ浮かび上がらせる。
「……前も言ったかもしんないけどさ、ここ静かで好きなんだよね」
ぽつりと、そんな言葉が落ちた。
「売り場にいるといろんな音がするでしょ。客の声やらバイトの声、店内で流れてる音楽。私からしたら煩く感じるんだよね」
言いながら、一華はゆっくりと煙を吐いた。その視線の先には何もない。ただ、誰かの気配のない静かな空気だけが広がっている。
「だから、たまにこうして一人になって、休憩でタバコ吸う………やばいでしょ、こんな先輩」
自嘲気味な口ぶりだったが、湊は特に否定も肯定もしなかった。ただ無言のまま、壁にもたれて床を見つめる。
沈黙がしばらく流れたあと、一華がふっと笑った。
「やっぱり、あんた変わってるよ」
「自分がですか?」
「うん。普通、こういうのってちょっとは気まずくなるもんでしょ。先輩がバックヤードで煙草吸ってたら引くとか、何か言うとかさ」
「そうですかね。別に、咎めるほどのことでもないですし。自分も人のこと言えるほど立派じゃないんで」
湊のその言葉に、一華は少しだけ目を細めた。
「……優しいね、本当」
再び煙がふわりと空気を泳いだ。
「やる気なさそうな顔してるのに、しっかり全部見てるし、聞いてるし、ちゃんとやってる。……他人に無関心っぽいのに、本当出来た人間だよね」
湊は少し微妙な表情を露わにする。
「それ、自分には過分ですよ。他の人に贔屓してるとか思われるんじゃないですか?」
「ま、そうかもね。でもいいじゃん。どうせ世の中の評価なんて適当なんだし。自分が良いと思ったならそれが一番正当なんじゃない?だったら少しぐらい、贔屓目で見ちゃうね」
一華はそう言って大きく一息吸い、どこで用意したのか分からない灰皿に火を押しつけた。
「ねえ、一本吸ってみる?」
唐突にそんなことを言い出したのは、一華の方だった。湊が驚いたように目を向けると、彼女はさして意味もなさそうに、指先で新しいタバコを軽くトントンと箱の縁に叩いていた。
「せっかくだし、経験ってことで。吸わないままずっと過ごすのって、なんかもったいなくない?」
「……あまり興味はないんですけどね」
「だから、一本だけって話」
一華は半ば強引に差し出した。湊は少し躊躇ったものの、黙ってそれを受け取った。ライターを借りて火をつけると、煙を恐る恐る吸い込む。
途端に、喉の奥が焼けるような感覚が走った。
「……うぇっ」
思わず咳き込む。煙が鼻と喉に絡みつき、苦しそうに肩を震わせる湊を見て、一華はふっと小さく笑った。
「やっぱり合わなかった?」
「……ですね。何が良いのか、俺にはよく分かりません」
湊は煙を小さく吐き出しながら、目を細めた。視線はまだ赤く燃える先端に向けられている。
一華はそんな湊をひとしきり眺めると、少しだけ柔らかい声で言った。
「……まあ、無理して吸うもんじゃないしね。ありがとう」
「え、何がですか」
「付き合ってくれたお礼」
その言葉に湊は少しだけ眉を寄せる。一華さんは前々からちょっと不思議な人だと思っていたが、特にそれは口にするほどの事でもなかった。
すると突然一華は軽やかに立ち上がり、制服のエプロンを整えるとドアの方に向かって歩き出す。
「じゃあ、あたしは先戻ってる。……煙、ちゃんと消しといてね」
それだけ言って彼女はバックヤードの扉を開け、部屋から出ていく。扉の隙間から売り場のざわめきが入り込んでくる。
湊は一人になった空間で、もう一度タバコを口に持っていった。火はまだかろうじて残っている。
少しだけ吸ってみる。だがやはり、煙はただ辛くて苦いだけだった。
「……やっぱり、ないな」
思わず呟いて、顔を顰める。喉の奥がじりじりと焼けつくように痛む。眉間に皺を寄せたまま、湊はタバコを灰皿に押し付けて消した。
その様子を――扉の向こうから、一華は見ていた。
少しだけ開けた扉の隙間。伏し目がちに、しかし目線だけを滑らせるように湊を見つめるその姿には、誰にも気づかれないよう練られた気配の薄さがあった。
彼がタバコを吸う瞬間、顔を顰める瞬間、火を灰皿に押し当てる仕草まで――。
一華の視線は飢えたようにその全てを追い続けていた。
そして次の瞬間、ポケットからスマホを取り出す。音の出ないカメラアプリでシャッターを切った。
画面には、眉を寄せて煙草を見下ろす湊の横顔が映し出されていた。儚さと無防備さ、それに少しの弱さが滲んだ表情。
まるで、壊れそうな硝子細工を閉じ込めるような丁寧さで、その写真を保存する。
フォルダ名は《hasumi》。
その中には、湊のものが既に数十件――湊がバイト中に使ったメモ紙、レジ裏に放置された湊の空のペットボトル、レシート。といった物の他にも、接客する湊の様子、作り笑いでちょっとぎこちない表情、店長と会話をしている湊――それらすべてが綺麗にタグ分けされて保存されていた。
《hasumi_ご飯食べてる》
《hasumi_エプロンに落ちた髪》
《hasumi_寝顔》
《hasumi_バイト中の声(録音)》
指先でそのフォルダをスクロールしながら、一華は小さく笑った。
「……可愛いなあ、ほんと」
囁くような声。だがその声音には、何かがひどく歪んでいた。
「今日のもちゃんと増えたよ。ありがと、蓮見くん」
スマホを胸元に抱きしめるように持ち、うっとりと目を細める。
誰にも見せられない、誰にも渡せない。
この感情も、この写真たちも、全部――私だけのもの。
彼に紐づいたものは、捨てられる前に彼女の手の中へ。
それは無害な収集癖――の皮を被った、静かで歪んだ執着。
「……蓮見くんのいろんな顔、もっとみたいな」
誰にも聞かれない声で一華はそう呟く。
そして扉を閉じると、何事もなかったように売り場へと戻っていった。