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サークルの後輩は普通じゃない

 夜のスーパーは昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。

 冷蔵ケースのモーター音と、どこか気の抜けたBGMが、耳にじんわりまとわりつく。


「……野菜は買った。後は……調味料切らしてたっけ」


 蓮見湊(はすみ みなと)は、手にしたかごの中身を確認しながら、目的の商品棚へ向けて足を進めた。

 夜のスーパーなんていつもは来ない。だが、今日は日中ずっとバイトだったせいで買い物が後回しになり、仕方なくこの時間に立ち寄った。


 身体に残る鈍い疲労感。手には割引シールの貼られた野菜とパック肉。少しでも食費を浮かせようと、節約に走る己の姿に少しだけ苦笑する。


 そして調味料売り場の角を曲がった、そのとき――。


「……あっ、先輩?」


 不意にかけられた声に、湊は足を止めた。

 軽いのにどこか湿った響きのある声だった。


 振り返ると、そこには大学のサークルの後輩、櫻庭詩織(さくらば しおり)の姿。

 明るい色のパーカーに、ゆるめの短パン。手には缶ジュースを持っていて、その笑顔はいつも通り眩しいくらいに楽しげだった。


「あれー、こんな時間にお買い物ですか?」


「…………まぁ、そんなとこだが」


 湊は短く返すと、すぐに視線を逸らした。

 詩織のことを嫌っているわけじゃない。ただ、元気すぎる人間はどうにも疲れる。しかも今は、テンションの高い会話を受け止めるほどの気力も残っていなかった。


 ………それにしても、と湊は思う。


「お前、よくここで会うよな。このスーパー大学から二駅も離れてるのに」


「ん~? たまたまじゃないですか? 私、気分で行く場所変えてるんで」


 詩織はそう言って笑い、缶ジュースを軽く揺らしてみせた。

 大学のある駅周辺にもスーパーやコンビニはたくさんある。ここまで来る理由なんて、正直あまりないはずだ。自分はバイト先がこの周辺にあるから問題はないだろうが。


「(気分……ね)」


 それ以上問い詰めるつもりはなかったが、なんとなく胸の奥に引っかかるものがあった。

 “たまたま”にしては頻度が多すぎる。しかもいつも、何となく彼女の方から声をかけられている気がする。


「……まぁいい。偶然ってことで」


「ですよねー!」


 詩織は屈託のない笑顔で答えた。

 その無邪気さにどこかほっとする一方で、湊はふと、彼女の持つ買い物かごに目をやった。


 缶ジュースにカップラーメン。菓子パンにチョコレート菓子。

 栄養もバランスもあったもんじゃない。前に会ったときも似たような組み合わせだった気がする。


「……またそれか。インスタントとお菓子ばっか食ってんじゃねえよ」


「えー、別にいいじゃないですかー。お湯注げばすぐ食べれるし、甘いのは正義ですし?」


 詩織は笑いながら言ったが、湊は少しだけ眉をひそめた。

 冗談っぽく返しているけど、どこかそうやって笑ってごまかしてるようにも見える。顔色も、声の調子も悪くない。それで太らないのも謎ではあるが。


 ――ちゃんと食ってんのか、こいつ。


 その考えが頭の隅に残ったまま、湊は無言で棚から小瓶の調味料を手に取った。

 その後ろで、詩織が足音を立てずについてくる気配がある。何か話しかけようとしてはやめ、でも黙って立ち去るでもなく、ふらふらと距離を保ちながら歩いているような……そんな空気。


 はぁ、と小さくため息を吐いた湊はつい口を開いた。


「お前、今日これだけか? 夕飯」


「え? あ、はい……まあ、そんな感じ?」


 詩織はきょとんとしながら返事を返す。その表情はどこか曖昧だった。

 やっぱり、という思いが喉元に引っかかる。


「………………」


 ほんの数秒の沈黙の後、湊はぽつりと呟いた。


「……飯、うちで食ってくか?」


「――え?」


 詩織の目が大きく見開かれる。

 彼女は冗談かとでも思ったのか、一瞬笑いかけ――だけど湊が真顔なのを見て、口元をきゅっと引き結んだ。


「……本当に、いいんですか?」


「食材はあるし、どうせ余るしな。二人分でも変わらん」


 そう言って詩織のカゴにちらりと視線を向ける。

 彼女はしばらくその場で黙っていたが、やがてカゴを持ち直し、小さくうなずいた。


「じゃあ……お邪魔します。先輩のご飯、ちょっと楽しみかも」


 屈託のない笑顔が戻る。だが、それでもどこか目の奥が色を濁しているように見えた。

 その違和感を、湊はまた見なかったふりをした。


 



 湊のアパートは大学近くの古びたワンルーム。狭いが、最低限の家具と食器は揃っていた。

 詩織を通すと、彼女は「先輩らしいですね」と曖昧に笑いながら、部屋の隅でおとなしく座った。


「勝手に物色したりすんなよ。何もねえけど」


「そんなことしませんってば。……たぶん」


「多分じゃねえよ」


 そう返し、湊は手を洗ってキッチンに立った。

 野菜を切りながら、頭の中で簡単に段取りを組む。今日は和風の炒めものと、味噌汁と、冷凍しておいた炊き込みご飯の残りでなんとかなる。


「ご飯、そんなに期待すんなよ。味は普通だから」


「普通でもちゃんとしたご飯ならそれだけでごちそうですよ。先輩、優しいですね」


「別に優しくねえよ。お前がそればっか食ってんの見てたら、こっちがイライラしただけだ」


「ふふっ……そういうのも、ちょっと嬉しいですけどね」


 詩織の笑みが少しだけ柔らかくなった。まるでその一言で何かを取り戻したように。

 包丁の音が小気味よく響く部屋で、湊はそれ以上何も言わなかった。


 しばらくして、食卓にはシンプルな献立が並んだ。

 鶏肉と小松菜の炒め物、豆腐とわかめの味噌汁、冷凍ご飯を温め直した炊き込みご飯。

 見た目は地味だが、ちゃんと人の手で作られたご飯の匂いが部屋いっぱいに満ちていた。


「いただきます」


 詩織は湯気の立つ味噌汁を両手で包み込むように持ち、ほんの少しだけ目を細めた。


「……あったかい」


 その一言が、やけに静かに響いた。

 湊は何も言わず、自分の箸を動かす。炒め物は悪くない仕上がり。肉の火入れもちょうど良い。


「うん、美味しい。なんか、ほっとする味ですね」


「実家が薄味だったからな。味濃いの苦手なんだよ」


「へぇ……というか意外です。先輩って、もうちょっと適当に作ってそうなイメージだったから」


「失礼なやつだな。……適当だけど、最低限はやってる」


 笑い混じりに返すと、詩織はくすっと笑った。

 それからしばらくは言葉も少なく、ただ黙々と箸を進めるだけの時間が流れた。


 湊はふと、詩織の横顔を盗み見る。


 もともと痩せ型の彼女だが、どこか最近やつれてきているようにも見えた。目の下の影、指先の細さ。――きっと、食事だけの問題じゃない。


「……またちゃんと食ってなかったんだな、お前」


 ぽつりと零れた湊の言葉に、詩織の箸が一瞬止まる。彼女は無言でうつむき、それから笑った。


「……バレました? やっぱり、ばれるんだ……」


 その笑顔は明るさを保ってはいたが、どこか壊れた陶器のようだった。


「一人でいると、どうでもよくなっちゃうんですよね。ご飯とか、生活とか。……朝起きても誰もいないし、夜帰ってきても何も音がしないし」


 そう呟いて、詩織は味噌汁をもう一口すする。


「だから、今日のこれ、すごくうれしいです。……ありがと、先輩」


 湊はそれを聞いても、何も返さなかった。

 ただ、ご飯の味が少し薄く感じるような気がして、黙って噛み続けるしかなかった。


「(――やっぱり、普通じゃねえな)」


 そんな感想が、頭の片隅にへばりついていた。


 でも、言葉にはしない。

 詩織の笑顔がほんの少しだけ、まともなものに見えたから。





 食後の食器を片付けながら、湊は淡々と手を動かしていた。

 詩織はテーブルの上で湯呑みを指先で転がしながら、ぼんやりと窓の外に視線を投げている。


「ごちそうさまでした。……ほんと、おいしかったです」


「そうか。それなら良かった」


 洗い終えた茶碗の水を切り、湊はそう返した。

 詩織が本当に満足してくれたかどうかは分からない。ただ、笑顔を見せていたから大丈夫なのだろうと思った。


 タオルで手を拭いた湊がリビングに戻ると、詩織がふいにこちらを向く。


「ねえ、先輩」


 その声はそれまでの軽さを失い、少しだけ低く沈んでいた。


「こうやって……女の子を自分の家に入れて、ご飯作ったことって……あるんですか?」


 湊は一瞬だけ間を置いて、視線を逸らすことなく――ただ淡々と答える。


「あるな」


 それだけだった。思い出を語るでもなく、言い訳をするでもなく。

 まるで天気の話でもするかのように、何の感情も込もっていないいつも通りの声。


 詩織の指が湯呑みを転がす動きを止める。ぴたりと、動きが凍りつく。

 ゆっくりと顔を上げて、湊の表情をまっすぐに覗き込んだ。


「……はっ?」


 その一言は酷く小さな声だった。なのに、室内の空気が一気に張り詰める。


 詩織は笑っていた。

 だが、その笑みは口元だけで貼りついたもの。

 目はどこか遠く………もしくは何もない深い場所を見つめていた。


「そっかぁ……へえ、そうなんだぁ……」


 まるで独り言のような声で、彼女はぽつり、ぽつりと繰り返す。

 感情がこぼれているようでまったく読めない。その声の調子に、湊は言葉を挟めなかった。


「先輩って……そういうの、わりと軽くやるんですね。ふーん……」


 詩織は湯呑みの縁に添えていた指をぎゅっと押し込むようにして握る。

 その音はしなかったけれど、何かが歪んだ気がした。


 やがて彼女は立ち上がり、にこりと微笑む。


「……わざわざありがとうございました。美味しかったです」


 そして笑顔のまま、湊に一歩だけ近づく。


「また、呼んでください。………だけど今度、その話ちゃんと詳しく聞かせてもらいますから」


 さらりとした口調。だが、その語尾にだけ微かに棘が混じっていた。


 玄関に向かう足音が静かに響く。


 そして、ドアが閉まる直前。

 ちらりと肩越しに振り返った詩織の目は――まるで、底が見えない黒い水面のようだった。

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