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首都「イスファダード」

 バシルが「ロラン診療所」の評判を広めたことで、彼と同じように鼠径ヘルニアの症状に悩む男たちが、何人か訪れるようになった。リューは彼らの麻酔記録をもとにデータを集積し、シャナの協力も得て、エーテル麻酔の適切な用量を計算し、さらに麻酔を効果的にかけるための「麻酔前投薬」にも改良が重ねられた。

 そしてシャナの虫垂炎手術から2ヶ月後、10例の手術症例とその麻酔・手術記録が集まった。合併症としては1例、創部感染を起こした者がいたが、洗浄の継続によってことなきを得た。


「そういえば、街の診療所でリューのことが噂になってたよ」

「噂?」


 この日、薬師のシャナは生薬とエーテルを卸すために診療所を訪れていた。彼女は何日か前に街の診療所を訪れた時のことを話す。


 この国では、医師・薬師を名乗るのに特別な国家資格は必要ない。だが、国の医学教育機関である「国立医学学校」で学んだ者は“国の医師・薬師”となり、独学や師事により医学薬学を学んだ“市井の医師・薬師”とは一線を画す扱いとなる。

 そんな国の医師たちが働くのが、国が設置した「国立診療所」である。主だった都市には須らくこの診療所が設置され、人々はそこで医療を受けることができる。そしてシャナの様な国の薬師が、彼らに対して薬の卸すのだ。


「全く痛みを感じない、脱腸の手術をする外科医がいるって。リュージーンとハッサン先生の名前までは出ていなかったけどね」


 国立診療所は医療の質が担保されている分、値段は高めだ。だから客層は中流・上流の富裕層に偏る。大勢の平民はもっぱら市井の医師・薬師を頼ることが多い。しかし、バシルの宣伝が功を奏したのか、この2ヶ月で彼を含むヘルニア手術を行った患者9名は、そのほとんどが富裕層だった。

 だから、国立診療所まで無痛手術の評判が届いてしまったのだろう。


「このまま悠長にしていると、もしかしたら首都まで噂が届いちゃうかもね。となると・・・」


 新たな研究成果の発表をするにあたって大事なのは、どこの誰が1番早くその成果を発表したかである。かの有名なiPS細胞も、京都大学とドイツのバイエル薬品で特許権をめぐる論争があった。


「シャナさんが言いたいことはわかります。全身麻酔が可能な薬がある・・・その噂を聞けば、首都の医学者たちがいつかエーテルにたどり着いてもおかしくはない」


 この世界では、ジエチルエーテル自体は新発見の物質ではない。知識も実験施設も人員も整っている首都の医学者・薬学者たちは、いずれエーテルの効果に気づいてしまうかも知れない。


「・・・もう少し、症例を集積したかったのですが仕方ありません。エーテル麻酔を公表しましょう」


 シャナはメガネを光らせ、ニヤッと笑う。離れたところで本を読んでいたハッサンも、2人の会話を聞いて本を閉じた。


「・・・で、具体的にどうすればいいかなんだけど」


 元の世界であれば、できるだけ高名な英文の学会雑誌にその内容を投稿し、掲載してもらうことで新たな研究成果を世界的に発表できる。しかし、この世界にはまだそんなシステムはなかった。


「それは・・・ハッサン先生に聞くのが一番早いかもね」

「!」


 シャナの視線に気づいたハッサンは、サッと視線を逸らしてしまう。シャナの態度と言葉は彼の過去を突くものだった。


「・・・分かってる。俺が何とかする」

「父さん・・・?」


 ハッサンは一つの決意を固めていた。


「じゃあ行こうよ、ハッサン先生。懐かしの首都『イスファダード』へ」


: : :


 その日、リューはワルートの鍛冶屋を訪れる。正面の作業場には、鍛冶屋として本格的に仕事を再開したワルートが、金槌を片手に汗を流していた。

 高炉と焼けた鉄は、砂漠の暑さに負けないほどの熱気を放ち、リューは思わず身を逸らしてしまう。


「ああ! リュー先生! いらっしゃい!」

「おじゃまします、ワルートさん。あの、カナンはいますか?」


 ワルートは親しみと敬意をもって、リューのことを「リュー先生」と呼ぶようになっていた。彼がカナンに文字の勉強を教えていることも理由の1つだ。


「ああ、アイツなら水汲みに行ってもらってらぁ。もうじき帰ってくるから、ちょっと待っといてくれ!」


 ワルートは作業を止め、手拭いで汗を拭った。彼の右手はすっかり完治している様だ。


「では、お言葉に甘えて・・・」


 リューは作業場の隅にあった小さな椅子に腰掛ける。体感で10分くらい経った後、水桶を持ったカナンが帰ってきた。


「ただいま、お父さん・・・リュー!?」

「やあ、おかえり」


 カナンは自宅の片隅にポツンと座っているリューを見て、びっくりしてしまった。彼女は水桶を置き、汗で乱れた前髪をいそいそと整える。

 ワルートはそんな娘の様子を見て、ニヤニヤと笑っていた。


「えっと、一体どうしたの? うちに来るなんて!」

「ごめん、実はどうしても今日中に伝えたい話があったんだ」


 3人は場所を作業場から奥の自宅へと移す。古ぼけたテーブルを囲い、リューは2人へ本題を話し始めた。


「実は・・・いまやっている全身麻酔の研究を、公表しようと思うんだ」

「ぜ、ぜんしんますい?」


 ワルートは首を傾げるが、カナンは真剣な表情で彼の話を聞いていた。

 カナンは手術室看護師としてリューに協力する中で、彼からエーテル全身麻酔について聞いている。ワルートの手術で、無麻酔で外科手術を行うことの過酷さを改めて知り、その開発に着手したことも知っていた。

 だからこそ、その研究が順調に進んだことは彼女にとっても嬉しかったし、手術室看護師として診療所の戦力の1人となれた今は、もっとリューの役に立ちたいという思いが強くなっていた。


「そのためには、イスファダードにある『国立医学学校』で全身麻酔を認めてもらう必要があるらしいんだ。だからカナン、俺たちと一緒に首都へ行ってくれないか!?」

「・・・首都!?」


 リューは看護師として、カナンについてきてほしいと思っていた。だが、彼女は生まれてから今まで、このラマーファの街から出たことがない。首都とこの街は比較的近いとは言え、この砂漠の国では、街から街まで移動するのも非常に労力を要することだった。


「・・・わ、私は」


 カナンは助けを求めるように、無意識のうちに父親へ視線を向ける。ワルートは言葉を選びながら口を開いた。


「リュー先生は、首都へ行ったことはあるのかい?」

「・・・いえ、俺も物心ついてからこの街を出たことはありません」


 リューにとっても、物心ついてからラマーファの街から出るのは初めてのことだ。


「ハッサン先生は昔、従軍してこの国中の街から街へ移動したことがあるから慣れているだろう。だが・・・こいつは生まれてこの方、この街の外を知らねェ。

勝手の分からねェ街に行くため、過酷な砂漠越えを娘にさせていいかと言われ、何の躊躇いもなく首を縦に振れる親は・・・やっぱり居ねェと思う」


 この国は都市部とオアシス、河岸以外は不毛の砂漠が広がる土地だ。ラマーファの街と首都は近いとは言え、その移動は1日仕事になる。しかも現代のように、遠隔通信の術があるわけでもない。ワルートは親として素直な心境を口にした。


「お前はどうしたい、カナン?」


 彼は改めて、娘の希望を問いかけた。当然のことだが、最終的には彼女が決めなくてはならない。カナンはワルートとリューの顔を交互に見た。


「・・・お父さんには、心配をかけたくないけど・・・でも、私はリューの力になりたい!」


 彼女は彼女自身の明確な意思で、首都への同行を望んだ。それは彼女の人生の中で、間違いなく一番大きな決断だった。


「だそうだ。じゃあ、リュー先生! 娘のことをよろしく頼むよ」


 ワルートは頭を下げる。リューは“何だか嫁に来るみたいだな”と、気恥ずかしさを感じながらも、それに応えるように頭を下げた。


「はい、カナンのことは・・・俺が守ります」


 かくして、ワルートの許しを得たことで、カナンの同行が決まった。


: : :


 それから数日後、旅支度を終えたリュー、ハッサン、シャナ、そしてカナンの4人は、街の外れの隊商宿を訪れていた。そこでは、ちょうど首都へ向かう予定の小規模の隊商(キャラバン)が、荷車に積荷を載せている。

 隊商(キャラバン)のメンバーは老若男女が混ざり、中には幼い子供の姿もある。ハッサンは隊商(キャラバン)のリーダーに同乗の交渉をしていた。


「首都までか? 別に俺たちは構わねェぞ」

「すまない、恩に着る」


 この街から首都までは、ラクダの足で休憩せずに進んでも半日以上かかる。さらに交易路の道中には盗賊が根城にしている岩場や無人のオアシスなどもある。そういった危険から身を守るため、一般人が都市間を移動するには隊商(キャラバン)に便乗するのが一般的だった。


「シャナさん・・・エーテルは大丈夫?」

「うん、日陰になるよう、荷車の中に運んでもらうように頼んだよ」


 そして今回の移動で最も気を遣うのが、エーテルや蒸留水、アルコールなどの薬品と医療道具の運搬だ。特にエーテルと高濃度アルコールは揮発性が高く、現在は冬季とは言え年を通して温暖で乾燥した気候のこの国では、保存が難しい物質であった。


「よーし、準備はできたか!? 女子供はラクダか荷車に乗れ!」


 隊商(キャラバン)のリーダーは出発の号令を出す。商人たちはラクダの手綱を引き、続々と歩き始める。


「カナン! 何してるんだい、手を伸ばして!」

「は、はい!」


 カナンはシャナに手を引かれ、列の後方をゆく荷車へと乗り込んだ。荷車の中は大量の積荷の隙間に、女性や子供が乗り込んでいる。


「イスファダードに向けて出発だ!」


 リューは粗末な布カバンを背負い、ハッサンと共に歩き始める。彼が外科医として名を上げる旅路の第1章が始まった。

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