新たな道具と倒れた薬師
シャナ・レン=ラーズィータイラー、28歳の女性の身でありながら「国立医学学校」の薬学科で学んだ経歴を持つエリート薬師である。元は首都に住まう貴族の出身であったが、人の役に立つ職を身につけることを目指して薬学の道に進むことを望み、熾烈な入学試験を突破して、政府が認める薬師となって、このラマーファに派遣された経歴を持つ。
故に彼女は、独学や徒弟制度にて薬学を修めた市井の薬師とは、一線を画す知識と技術を持つ薬師である。だからこそ、彼女はリューの提案に懐疑的だった。
「そうです、純度の高いエーテルはケシのスポンジなどの気休めとは違い、痛覚も麻痺させることが出来るんです」
「・・・それは、何か裏付けがあるの?」
彼女の主な仕事は国の診療所へ薬を卸すことだ。そして薬品の合成・蒸留には、それなりの時間と手間がかかる。シャナは“甘い硫酸”にその手間をかけるほどの価値があるのか、見極めようとしていた。
「・・・この合成物は、東方の国では嗜好品として用いられている様です。以前、俺も東方の若い商人が瓶詰めにして持っていたものを、一緒に吸入したことがあるのです。その時、その商人が転倒して荷車に額を強打してしまったのですが、彼は全く痛むそぶりを見せませんでした」
「!」
リューの口から出たのはデマカセだ。ハッサンは思わずギョっとしてしまうが、シャナには気づかれなかった様だ。
リューの話はエーテルおよび笑気ガス(亜酸化窒素)が、全身麻酔としての有用性を見出されたきっかけのエピソードである。19世紀初頭、アメリカ人歯科医師ホーレスは、パーティーを盛り上げるドラッグの様な使われ方をしていた笑気ガスを使って無痛抜歯を試みた。
しかし、事前の実験では成功していたものの、公開実験では患者が泣き叫んだことで大失敗し、ホーレスは数多の罵倒に晒された。彼は凋落して行き、悲惨な最期を遂げることとなる。公開実験に同席していた弟子のモートンは、笑気と同じ様に嗜好品として濫用されていたエーテルに着目し、エーテル麻酔の公開実験を成功させ、麻酔の父と呼ばれるようになった。
「ふーん・・・で、全身麻酔を成功させた後は?」
「あ、後? ・・・そうですね」
シャナはその先、医学界の偉業を達成した先のことまで聞いてきた。リューは頭の中で言葉をまとめる。
「俺は無痛手術を実現させることで、多くの人々を救いたい。痛みという大きな障害が排除できれば、より安全に外科手術ができるようになる。・・・だから、俺はエーテル麻酔を世界に広めたいと思っています!」
「そうか・・・じゃあ、これは歴史的偉業になるわけだね!」
シャナはリューの顔を下から覗き込み、ニヤッと笑う。
「・・・よしっ! じゃあ、私も手伝わないとね!」
「え! それじゃあ」
「生成してあげるよ、“甘い硫酸”を。正しくは“ジエチルエーテル”・・・だっけ? 準備が要るからちょっと時間を頂戴」
「・・・あ、ありがとうございます!!」
リューのプレゼンは天才薬師シャナの好奇心を動かした。
この世界での全身麻酔完成に向けて、大きな一歩となった。
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それからおよそ1ヶ月後、ワルートの経過は良く、抜糸も済ませ、彼は鍛冶屋としての仕事に復帰することができた。そして最初の仕事は、手術代の対価である「リューの外科道具」だ。
リューは17年前の記憶を頼りに、7種類の手術道具を図面に描いて注文した。ワルートは“任せておきな!”と2つ返事で彼の依頼を受けてくれた。
あれから大きな事件はなく、リューとハッサンは平和な日常を過ごしている。リューは母屋の居間でハッサンの医学書を読んでいた。
「ごめんください」
ドアをノックする音が聞こえる。本を閉じて扉を開けると、そこには荷物を抱えたカナンが立っていた。
「あれ? カナンじゃないか。いらっしゃい」
「ひ、久しぶり!」
カナンは緊張しながらリューの顔を見上げる。リューは彼女を家の中へ招き入れた。
1ヶ月前は患者家族と医師として出会い、お互いによそよそしい口調で話していたが、ワルートの通院で度々顔を合わせる中で、もともと同い年である2人は、新しい友人同士として遠慮のない会話ができるようになっていた。
「あら、ワルートの娘さん。いらっしゃい」
「お邪魔します、ハッサン先生」
奥の自室からハッサンが現れた。カナンがおじぎをすると、彼女の衣服がふわっと揺れる。
「今日はどうしたんだい? 君だけ来るなんで珍しいね」
「はい! 実は注文の道具が完成したので持って来たんです」
カナンは抱えていた布の包みをテーブルに置き、その中身を広げる。金属音と共に鉄製の外科道具が姿を現した。
「これがお前の注文した外科道具か」
ハッサンはその中の1つ、ペアン鉗子を手に取り、その構造を観察する。
現代医療でいうところの、創を切開する「メス」、いわゆる外科用鋏である「直クーパー剪刀」、外科用ピンセットの「鑷子」に該当する外科道具は、すでにハッサンが所持している。
リュージーンこと黒川が新たに注文したのは「ペアン鉗子」「コッヘル鉗子」「ヘガール持針器」「メッツェンバウム剪刀」「有鈎鑷子」「湾曲針」、そして「経口エアウェイ」、この7種の外科道具だった。前者6種の道具は、現代の外科手術において頻回に使用する道具である。そして経口エアウェイとは、主に鎮静をかけた患者の気道確保に用いる器具であり、エーテル麻酔を目指す以上は必須の道具であった。
「多いかなと思ったけど、流石だ。・・・ワルートさん!」
目の前に並ぶ新しい道具は、リューが生まれ変わる前に使用していたものと遜色なかった。彼はワルートの腕を絶賛する。
(約束とはいえ、ばね指の手術でここまでして貰ったのは、流石に悪いことしたな・・・。今後はちゃんと代金を払おう・・・)
まだまだ作って欲しい道具はたくさんある。だが、ばね指の手術を理由にいつまでも集るわけにはいかない。そのためには、一刻も早く外科医として名を上げなくてはならない。
リューとハッサンが新調した外科道具を確認している傍ら、カナンは居間の本棚に所狭しと並んでいる大量の書籍を見上げていた。
中心街の書籍店と遜色ない数の本を見て、彼女は思わずため息を漏らした。そしてその中の1冊へ無意識に手を伸ばしてしまう。
「・・・本が気になるの?」
「あ、ごめん!」
カナンはふと我に帰る。背後を見上げるとリューの顔があった。今度は彼の顔に目を奪われてしまう。
生粋の「アバス人」男性であるハッサンやワルートとは違い、リューの肌は少しだけ白い。そして具に見ると眉や他の体毛も薄く、異民族の血を引いている様に見える。
「・・・どうかした?」
「あ! いや!」
顔を無遠慮に見すぎたと、カナンは咄嗟に視線を逸らした。すると偶然、彼女の視界に日本でいうところの徳利の様な数本の陶器瓶が見えた。
「ね、ねぇ! これは何なの? 何かの薬?」
「ああ、それはアルコールだよ。えっと・・・蒸留酒をもっと濃くしたものなんだ」
「お酒ってこと?」
「まあね、でも飲用にするにはかなり濃いもので、手術の時に使うんだ」
カナンが指差したコルク蓋の陶器の中には、市販の酒から蒸留した高濃度のアルコールが保存されていた。
この世界では、細菌などの微生物については、存在の是非について議論があるだけで、まだ発見には至っていない。ゆえにその微生物が病気や感染症の原因になるという、現代世界においては一般的な知識も提唱すらされていない。
だが一部の外科医たちは、蒸留酒で創を洗うと感染が抑えられることを経験的に知っている。ゆえにハッサンも、味の悪い蒸留酒を馴染みの酒造職人から安価で譲り受け、創の処置の際に消毒薬として使用していた。
その後、リューから「病気の病原体説」が正しいことを聞いたハッサンは、より純度の高いアルコールを使うため、自前の蒸留器でアルコールの精製を行なっていた。
「お酒を手術に使うの?」
「手術前の消毒・・・あー、洗いに使うんだ。創の化膿を抑えられるんだよ」
細菌やウイルスの知識がなければ、当然消毒という概念もない。経験的にアルコール消毒を行なっていたハッサンは良い方で、この世界の外科手術は、現代とは桁違いの確率で感染症を引き起こしているのが現実だ。
「・・・ふーん。それって、どうして・・・?」
「えっと・・・まぁ、難しい話だから」
カナンはアルコールで化膿が抑えられる理由がわからない。リューは彼女が理由を追求してきたことが予想外で、言葉に詰まった。
微生物の概念自体、知識人ならともかくこの世界の一般人に理解してもらうことが難しい。リューは上手い説明が思いつかず、適当な答えを返してしまう。
でも、その曖昧な答えが、カナンの心をざわつかせた。
「あの、私・・・リューと違って字も読めないし書けないし、知識もないけど・・・でも、一生懸命覚えるから! だから、教えて欲しい。貴方の知識を・・・!」
ばね指の手術の一件以降、カナンは同い年であるリューと良い友人になった。だが、同時に同じ平民でありながら、医学者として完成された彼を目の当たりにして、嫉妬や羨望に似た感情も抱いていた。
さらに、最近の様子を聞くと、何やら医学の歴史を変えるような薬の開発をしているという。カナンはリューがいずれ、何か大きなことを成し遂げそうな予感がしていた。
彼の知っていることをもっと知りたい。そして横に並んで、彼の役に立ちたい。
「・・・分かった。ごめんね、適当なことを言って」
カナンが少しでも、感情を露わにしたのはワルートの手術の時以来だった。リューは無意識に、知識のない彼女を見くびるような態度をとったことを反省していた。
そして、この世界には目に見えない小さな生物がたくさんいて、その中の一部が病気や創の感染の原因になることを説明した。
カナンはリューが唱える理論を、真剣な顔で聞いていた。
「ねぇ、カナン・・・。まずは字を覚えてみないか?」
「わ、私が!?」
カナンには知識欲がある。だが、字の読み書きが出来なければメモも読書もできず、新たな知識を身につけることは難しい。
「分かった! 私、頑張る!」
カナンは決意を固める。
それから、彼女は頻繁にこの街外れの診療所へ通うようになった。
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さらに2週間経った後、ラマーファの街の中心地の薬屋では、変人薬師のシャナがジエチルエーテルの精製を続けていた。
「・・・よし! やっと瓶1本!」
シャナは蒸留装置の底に溜まった液体のエーテルを保存用の瓶に移し替える。
エーテルの合成はそこまで難しいわけではないが、実験室レベルの蒸留装置で一度に集められるエーテルの量は少なく、また密閉した容器でないとすぐに蒸発してしまうため、瓶1本分のエーテルを集めるのにもかなりの時間がかかってしまった。
「さて、これが本当に医学の歴史を変える発見になるのかな?」
シャナはその瓶を高く掲げ、その薬がもたらす未来に思いを馳せる。
その後、彼女はその瓶を布に包んでカバンに詰め、薬屋を留守にする。集めたエーテルを依頼主であるリューとハッサンに届けるためだ。
季節は夏季が終わり、冬季へ移り変わろうという時期である。変わらず日差しは強いが、乾燥した砂漠地帯のため、日本の様に不快なジメジメした暑さはない。
街の中心地からハッサンの診療所までは、大人の足で30分程度かかる。シャナはスカーフで顔を覆い、強い日差しから身を守る。
(・・・うーん、今朝から胃の腑の辺りが痛むな)
彼女は歩きながら右手で鳩尾辺りを摩っていた。
気にするほどの痛みではなかったため、予定通りハッサンの診療所へと外出していたが、街から離れ、小川の橋を越えて、目的地まであとわずかとなった時、痛みがみるみるうちに強さを増してきた。
(い、痛たたたたっ!)
痛みはいつの間にか右下腹部に移動しており、シャナはその辺りを抑えこむ。そして歩く動作すら腹の痛みに響くようになり、しゃがみ込んでしまう。
(これは・・・まずい!)
只事ではないことを察知し、痛みを堪えて歩みを進める。そして診療所へとたどり着いたシャナは、最後の力を振り絞って扉を叩いた。
「私だ、薬師のシャナだ」
「あ、はーい、今開けます!」
中からリューの声が聞こえる。そして扉を開けたリューは、驚きの表情でシャナを迎えた。
彼女が扉の前で倒れてしまっていたからだ。
「ど、どうしたんですか!?」
「リュー・・・早速で悪いが、例の麻酔薬を使う時が来たぞ・・・」
彼女は真っ青な顔で答える。リューは部屋の奥にいたハッサンと、文字の勉強のため偶然訪れていたカナンを呼び、彼女を処置室へと運び込んだ。
メス:皮膚の切開に使うナイフの様な道具。刃の形や大きさに多数の種類がある。
剪刀:外科用の鋏。刃の形や用途によって「クーパー」「メイヨー」「メッツェンバウム」などいくつかの種類がある。
鉗子:主に組織の把持や剥離に使う鋏のような見た目をした道具。形や用途、大きさの違いで「ペアン」「コッヘル」「モスキート」「ミクリッツ」「ケリー」「アリス」など多数の種類がある。
持針器:縫合の時に針を掴むための道具。
鑷子:外科用のピンセット。いくつかの種類があるが、対象物を掴む先端に鋭い“鉤”が付いているかどうかが大きな違いである。