天才薬師登場
世界初の本格的な全身麻酔薬は華岡青洲が調合した「通仙散」とされている。だが、青洲は取り扱いが難しいその薬を秘伝としたため、その業績が当時の世界や後世に伝わることはなかった。
その後、本格的な吸入麻酔薬として「ジエチルエーテル」が登場する。すでに8世紀には精製されていたと言われているが、それが全身麻酔薬として有用であることをロングやモートンが証明するまで、およそ1000年かかった。
揮発性の物質で引火しやすいという欠点があったが、エーテル麻酔の登場は医学の歴史において重大な転換点となった。
エーテル精製に必要なものはエタノールと硫酸などの強酸だ。硫酸ならすでにこの世界にある。だから純度の高いエタノール(アルコール)と硫酸が手に入れば良い。
「・・・というわけで、父さん。このエーテルを精製してくれるような、錬金術師の知り合いとか居ない?」
この世界で、外科医として仕事を続けていくにあたって、確実な麻酔法は喉から手が出るほどに欲しいものだ。
リューは外科道具作成と同じ様に、エーテルの精製を行なってくれる様な、実験に慣れた知り合いが居たりしないかと期待していた。
「錬金術師ではないが・・・街の診療所に薬を卸しているあの薬師なら、もしかしたら引き受けてくれるかもしれん。私も時折、ケシの樹液を買いにいく」
ハッサンの頭の中に、変わり者で有名な薬師の顔が浮かぶ。その人物はラマーファの中心地、国の診療所の近くに薬屋を構えているという。
この国では、5代前の皇帝の時代にいわゆる「医薬分業制度」が始まり、医師の他に「薬師」と呼ばれる、現代世界で言うところの薬剤師がすでに存在する。
事の発端は、病弱ながらも疑り深い時の皇帝が、宮廷医による毒殺を恐れ、第3者に処方内容のチェックを義務付けたことが始まりである。
地球でも、同様の理由で13世紀に神聖ローマ帝国の皇帝が医師と薬剤師を分離させた。日本でも明治時代の初期から医薬分業が始まり、現代に至る。最も、現代日本における医薬分業の重要なポイントは、2重チェックによる処方ミスの予防と、製薬企業との癒着防止だ。
「・・・生薬の調合だけでなく、錬金術や化学にも造詣がある薬師だ。お前の話にも、きっと協力してくれるとは思うが」
問題は信じてくれるかどうかだ。
文献の中に登場する、碌に名前も付けられていない“甘い匂いの何者か”が、医学の歴史を変えるような大発見だと、その薬師が信じてくれるかどうか。
「取り敢えず・・・会ってみたい。その薬師に」
養父ハッサン、鍛冶屋ワルートに続く、新たな協力者候補。外科医として再び目覚めたリューは立ち止まるわけにはいかない。
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次の日、リューとハッサンはラマーファの中心地を訪れていた。煌びやかな装飾が施された建造物が並び、住民や旅人、商人を含め様々な人々が行き交っている。
例の薬屋は国が設立した診療所と同じ通りの向かいにあった。扉には「営業中」と書かれたプレートが下げられている。
「行くぞ」
「うん」
ハッサンが扉を開けると、中からは様々な生薬が入り混じった独特な匂いが漂ってきた。天井からは様々な薬草が吊るされている。
陳列棚には、商品と思われる瓶詰めされた生薬が並んでいた。
「御免! 私だ、ハッサンだ! 居ないのか、シャナ!」
(・・・シャナ?)
養父が薬師の名前を口にする。それはこの国では一般的に女性名とされる名前だった。
程なくして、奥からバタバタという音が聞こえる。直後、メガネをかけた長身の女性が2人の前に現れた。
「・・・ハッサン先生! 久しぶり! 今日はまたアヘンの買い付けかい?」
女性は若く、20歳代に見える。だが、気心の知れた友人のごとき態度で、倍は歳が離れているハッサンに話しかけた。
「・・・あれ?」
リューが呆然としていると、薬師の女性は彼に視線を向けた。
「君は、もしかしてハッサン先生の倅?」
「は、はい。リュージーンと言います」
「ヘェ〜、前に先生から聞いていたけど、あまり似てないね。私はシャナ・レン=ラーズィータイラー、ここで薬師をしている。よろしくね!」
薬師シャナは太陽のような明るい表情で、リューに笑いかけた。リューはまるで同年代を相手にしているような感覚に陥る。
「・・・話をして良いか? 今日は私の用事ではなく、息子が君に依頼があるんだ」
「え? 先生じゃなくて?」
ハッサンは息子に代わってここへ来た理由を話す。シャナは首を傾げ、再びリューへ視線を向けた。
「はい、実は精製して欲しい薬品があるんです」
「それは生薬の調合かな?」
「・・・いいえ、違います」
リューは肩掛けカバンから本を取り出した。栞を挟んだページを開き、その内容をシャナに見せる。彼女はメガネの位置を調整しながら、書かれている文章を確かめる。
「・・・錬金術の本だね。で、君はこの“甘い硫酸”が欲しいの? なんで?」
シャナは上目遣いでリューの答えを待つ。
「この“甘い硫酸”、『ジエチルエーテル』は陶酔作用があります。純度の高いエーテルは全身麻酔薬として、手術に使用できるんです」
「・・・これがぁ?」
シャナは怪訝な顔をしていた。