鍛冶屋、2人目のクランケ(ばね指)
カナンは「外科医」と名乗った男を見つめる。
「お、お医者様でしたか・・・。失礼しました。私は鍛冶屋ワルートの娘、カナン・フォーエルツェラール=ラムジーといいます」
カナンは頭を下げる。この国において“医師”とは上層の知識人であり、一般の平民は満足に読むことすらできない「字」を読める上流階級という扱いだった。
「・・・いや、畏まらないでくれ。そんな大した者じゃないんだ」
ハッサンはそういうと、頭を上げるように促した。彼らは正式な国の診療所に勤める医師ではなく、街の外れで個人営業している野良の街医者だ。診療所に勤める内科医からは、むしろ侮蔑の対象となる存在だった。
「それで、我々はワルート殿に仕事をお願いしたい。当然、代金は払う」
ハッサンの目的はリューが求める外科道具を作ることである。彼はかつて、自分の外科道具を作ってくれた彼を頼り、ここへ来たのだ。
カナンは目を瞑り、顔を逸らして真実を告げる。
「・・・実は、父は今、仕事が出来る様な状態ではないのです」
「何と・・・! それは何かの病か?」
ハッサンがワルートと出会ったのはもう10年近く前の話だ。ワルートはすでに60を過ぎており、体に何かがあってもおかしくない。
「はい・・・父は、手の病を患っています。そして、お医者様にお願いがあります。父の病を診ては頂けないでしょうか?」
カナンは再び頭を下げる。国が運営する診療所の内科医が治せなかった病だが、彼女は藁をも縋る思いだった。
「・・・承知した」
患者に助けを求められれば、断る道理はなし。ハッサンはカナンの頼みを2つ返事で承諾した。
この家屋は作業場の奥にラムジー父娘の居住スペースがある。ワルートは床に座り、息を殺しながら来客が帰るのを待っていた。
「お父さん・・・」
「カナン・・・客は帰ったか?」
「お父さん、聞いて・・・実は」
扉を開けたカナンに、ワルートが問いかける。彼の予想とは裏腹に、カナンは首を横に振った。そして娘の後ろには2人の来客の姿があった。
「お久しぶり、ワルート殿」
「・・・まさか、ハッサン先生!?」
ハッサンとワルートは十数年ぶりに出会う。お互いにシワは増え、声はしわがれてしまったが、初めて出会った時の面影はしっかり残っていた。
彼らが出会ったのは17年前、領内で反乱を起こした流浪の民族を討伐するため、ハッサンは軍医として、ワルートは武器修理要員として従軍したことで2人は出会った。
そしてワルートの鍛冶屋としての腕前を知ったハッサンは、自らが考案した外科道具の作成を依頼した。その品質と耐久性は素晴らしく、17年経った後もメンテナンスをしながら問題なく使えている。
「娘さんから話は聞いた。・・・その手、拝見しようか」
「先生が・・・?」
ハッサンは片膝をついて、ワルートと同じ目線になる。
「うむ、だが私は筋や骨の病にあまり詳しくないからな。・・・ここは息子に頼もうと思う」
「!」
ハッサンは背後に控えていた息子へ前に出るよう促した。指名されたリューは同じ様に片膝をついてワルートの目を見つめた。
「初めまして、ハッサン・グリムール=ロランの息子、リュージーン・ヒルクライハー=ロランと申します。よければ私にその手を診察させてもらえませんか?」
古き友人である名医に直接診てもらえないのは残念だった。だが、その名医の薫陶を受け、尚且つ診療を託されるほどの少年なら、きっと優秀なのだろう。
「よろしく頼む・・・」
ワルートはリューに診察を委ねることにした。リューは差し出された右手を掴む。そしてその手を見て、触った瞬間、彼を蝕んでいる病に勘付いた。
「ワルートさん、この人差し指から薬指の3本の指は伸ばせませんか?」
「・・・いや、外から力を込めれば大丈夫だ」
「では・・・この伸びない指を、左手でゆっくり伸ばしてみてください」
「・・・分かった」
ワルートは一呼吸置き、左手で右手の人差し指、中指、薬指を掴み、渾身の力を込めて指を伸ばす。
「・・・グッ!!」
その直後、ゴリッという鈍い音が響きわたり、3本の指はなんとか伸び切る。同時に、彼の右手は再び激痛に襲われた。もはや右手の力だけでは指を伸ばすこともできなくなっていた。
「これはひどい『ばね指』です」
「・・・ば、ね指?」
ワルートの手を蝕む病、その正体が呆気なく明かされた。
ばね指とは、指をよく使う人に発症しやすいと言われる腱鞘炎の一種だ。指を曲げる腱である「屈筋腱」が肥厚し、腱が浮き上がらない様に抑えるトンネルの「腱鞘(pulley)」と擦れあい、ひどくなると引っかかる様になり、指を伸ばす動きに制限が生じ、さらに痛みや腫れなどの炎症症状が生じる。
おそらくは長年の鍛冶屋仕事が祟り、ばね指を発症してしまったのだろう。
「ワルートさん、もしこの指を治せたら、我々の依頼を受けてくれますか?」
「・・・!? 治せるのか!?」
リューの提案は、ワルートにとって願ってもない申し出だ。この病のせいで長らく仕事ができなくなり、娘に大きな迷惑をかけてきたのだから。
だが、国の内科医が治せなかったものを、この少年が治せるのだろうか。そんな不安と疑念が彼の心に芽生える。
「・・・もちろん、魔法の様にパッと治せる訳ではありません。これを治すには手のひらを切る“手術”が必要になります。そう難しい手術ではないですが」
ばね指の治療には、まずステロイドの腱鞘内注射がある。だが当然、この世界にはステロイドの注射薬などない。よって、必然的に手術が唯一の治療法になる。しかし、この世界には局所麻酔はない。手のひらを切り開かれる痛みに耐える必要があります、とリューは付け加える。
(初期研修医と僻地勤務の時、整形外科の先生に何度か執刀をやらせて貰ったことがある・・・。大丈夫、出来るはず)
元消化器外科医である彼にとって、整形外科の領域である「ばね指」の手術は本来専門外だ。だが、彼にはばね指を手術した経験があった。
「だが、治療を頼もうにもウチには金が・・・」
「・・・それは! この人たちの依頼料で建て替えてもらおうよ!」
長らく休業状態が続いていた「ラムジー鍛冶屋」は、すでに金銭の蓄えが底をついている。ワルートは治療費のことを心配していたが、カナンは手術の後にリューの依頼を無償で受けることで、相殺してもらおうと提案する。
「・・・それで、良いですよね?」
「ええ、願ってもない条件です」
リューにとって大切なのは、新たな外科道具を作る仕事を受けてもらうことだ。父親が認めた鍛冶屋に無償で引き受けてもらえるなら万々歳だった。
「ハッサン先生、リュージーンさん・・・本当にこの手を甦らせてくれたら、このワルートがアンタらの依頼を必ず叶える! だから、どうかよろしくお願いします・・・!」
娘に後押しされ、彼もようやく決心がついた。ワルート・ゲルト=ラムジー、この男がリューにとってこの世界で2人目の患者クランケとなった。
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数日後、ワルートとカナンの父娘は街外れにあるハッサンの診療所を訪れていた。
「・・・先日も説明しましたが、『ばね指』とは指を曲げ伸ばしするための腱の一部が瘤の様に肥厚し、腱を支える腱鞘に引っかかってしまう病気です。引っかかりを無くすため、手術で指の付け根を切開して、その腱鞘を切って引っかかりの原因を無くします」
リューは自分の右手のひらを指差しながら、手術の内容を説明していた。ハッサンは感心しながら聞いていたが、ワルートとカナンはどこか緊張している面持ちだ。
「手術は順調に進めば半刻もかかりません。そして症状自体はすぐに改善します。あとは術後の痛みと訓練次第ですよ」
「よ、よろしくお願いします・・・!」
リューはニコリと笑いかけ、患者の緊張をほぐす様に努めた。そして娘のカナンには一度、処置室の外で待機してもらい、手術の準備に取り掛かる。
処置台の上に乗ったワルートは、まな板の上の魚の心地になっていた。
「・・・麻酔です、これを嗅いでください」
「わ、分かった」
リューはケシの実の樹液を染み込ませたスポンジをワルートに嗅がせる。ケシの鎮静・陶酔作用によって、ワルートの意識は少し朦朧としてくる。
ケシの実の液、すなわち麻薬アヘンの材料となるそれは、我々の世界でも古代から鎮痛・鎮静作用があることで知られ、全身麻酔や局所麻酔が開発される前、医薬品として利用されてきた。
(・・・まぁ、無いよりはマシか)
現代世界では違法薬物として扱われるアヘンだが、この世界では簡易的な全身麻酔薬として用いられている。しかし、現代世界の麻酔薬と比べればその効能は不十分と言わざるを得ないのが現状だ。
「では、腕を固定します」
ハッサンとリューは髪の毛と吐息が清潔な術野にかからない様に、頭巾と布マスクを巻く。そして煮沸消毒した清潔な布をワルートの右手の下に敷くと、彼が動いて術野が崩れない様に、右腕を含む四肢と胴を処置台に布で縛り付けて固定した。
さらにワルートの右腕を、指先から肘に向かって布をきつく巻いて駆血し、さらに蒸留した高濃度アルコールで消毒していく。アルコールで消毒した革手袋をはめ、傍に手術機材を並べ、準備が整った。
(・・・タイムアウト)
リューは心の中でつぶやいた。
腱を収める鞘である腱鞘は、指の根本から指先に向かってA1〜5まで番号が振られている。ばね指の手術は引っかかりの原因となる腱鞘を切開し、症状を消失させることを目的とする。
「・・・メス!」
リューはメスを手に取り、ワルートの右手人差し指の根本を切開する。だが、メスの刃先が皮膚を貫いた瞬間、ワルートが叫び、暴れ出した。
「・・・い、痛ってェ!!!」
その悲鳴は処置室の外まで聞こえる。カナンは心を痛めながらも、目を閉じ、両手の指を組んで祈ることしかできない。
「リュー! 大丈夫か!?」
助手を務めるハッサンは、力ずくでワルートの右手を押さえ込んだ。
「・・・大丈夫だよ、父さん。手術を進めよう」
リューは我を取り戻し、手術を再開する。彼は鑷子で皮下脂肪と神経血管束を剥離し、目的の腱鞘を露出させた。
(A1 pulleyとPalmar pulleyを切開、A2 pulleyも近位側を切開・・・)
メスで腱鞘に切り込みを入れ、さらに手術用の鋏で切開していく。その間にもワルートは体をガクガクさせているが、あらかじめ拘束していたことが功を奏し、処置台がひっくり返る様なことにはなっていない。
(腱鞘切開完了! 引っかかりが解消されたことを確認・・・)
指を曲げ伸ばしさせて、症状が消えたことを確認する。さらに2つの束からなる指の腱を牽引鈎を使って引っ張り出し、深指屈筋・浅指屈筋の間を剥離する。
(人差し指の手術は完了! 次に中指・・・)
同じ手順で、今度は中指の手術に移る。メスで再び切開を入れるが、人差し指の痛みで閾値が狂ったのか、初回ほどの反応は示さなくなっていた。
そして中指の次は薬指の手術に移る。全てのばね指を解除した後は、蒸留水で傷口を洗い、綿糸で縫合して創を閉じた。
「・・・手術終了、駆血解除。父さん、ありがとう」
「こちらこそ」
リューとハッサンは互いに微笑み合う。リューがこの世界に来て2例目の執刀症例が無事に終了した。
処置室の外ではカナンが神に祈りを捧げ続けていた。処置室の扉が開き、リューとハッサンが姿を現す。カナンは目を見開いた。彼女の頬には涙の跡が残り、目は赤く充血していた。
「・・・ち、父は!?」
カナンはリューに詰め寄った。リューは頭巾とマスクを外す。
「手術は予定通り終わりました。今は鎮静剤の影響で少しボーッとしていますが、もうすぐ目を覚まします。あとは創が化膿したりしないか診させてもらいます」
リューはニコリと笑って今後の経過について説明した。処置台の上には右手に布の包帯を巻かれたワルートがいた。
「あ、ありがとうございました!」
カナンは感極まり、ものすごい勢いで頭を下げる。そして父の元へ駆け寄ると、床にへたりこんで再び涙を流していた。
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それから7日後、ワルートとカナンの父娘は抜糸のため、再びハッサンの診療所を訪れていた。リューは鋏で1針ずつ糸を切っていく。
「・・・よし、抜糸が終わりました。創も問題ないでしょう」
ワルートは改めて手術の創を見つめる。そして右手を動かしてみると、あれほど自分を苦しめた指の引っかかりと痛みが嘘の様に消えていた。
「この手術、アンタがしてくれたんだよな?」
「ええ、一応・・・。執刀は私がしました」
「アンタ、凄いな! さすがはハッサン先生の息子さんだ! 街の医者は全く何もできなかったのに、アンタの手術を受けたらもうこの通り!」
ハッサンは嬉しそうに右手のグー・パーを繰り返す。そしてガハハと笑いながらリューの肩をバシバシと叩いた。もう創の痛みもあまり気にならない様だ。
「お、お父さん!」
「アハハ、元気そうで何より・・・」
カナンはオロオロとしているが、リューは特に気にしていなかった。彼は羽ペンを取り、「診療録」と題目を振った紙にワルートの経過を記載する。
カナンはその筆使いをじっと見ていた。
「・・・」
この世界の識字率は低い。字を流暢に扱えるのはレベルの高い教育を受ける上流階級か知識層に集中しており、一般的な平民となると自分の名前や簡単な挨拶、1から10までの数が書ければ良い方というレベルだ。
故に街の看板などは主に絵が描かれているし、カナンも自分の名前以外は書けない。それなのに、自分と同い年くらいの少年が、話し言葉と同じ様に文字を操っている。さらには医師として、すでに確かな技術と豊富な知識を持っているのだ。
カナンは羨ましさと、ほんの少しの妬ましさを感じていた。
父娘が帰った後、リューは母屋へ戻る。そしてハッサンから分けてもらった紙に「手術記録」を書き始めた。
手術の手順、内容を思い返しながら書き記していく。最後に手術の内容を図示する簡単な絵を描いて仕上げとした。
「お前は手術の度に記録を書いているが、お前の世界ではそういう決まりだったのか?」
「あぁ、うん。そうなんだ。『手術記録』と言って、外科手術をした時は書き記す様に、国の機関が定めていたんだよ」
日本では、消化器外科、整形外科、耳鼻咽喉科、泌尿器科・・・と診療科によらず、外科手術を行なった時には、患者の名前、術式、病名、日時などを記した「記録」を残すことが、厚生労働省によって義務付けられている。
当然、この国ではそんな義務などないが、リューは前世からの習慣として、手術記録を残していたのである。
「・・・フーン、なるほど」
ハッサンは綺麗に整えられた黒い顎髭を撫でる。彼はリューの前世の習慣に感心していた。
この世界において、リューが唱える医学や外科手術は、最先端を超えた未知の領域の知識となる。それをその都度記録として残し、尚且つ万人が見れる様にすれば、この国の医学水準を大きく上げられるのではないかと考えていた。
「・・・で、父さん。この前の手術で思ったことがあるんだ」
「・・・? 何だ?」
記録を書き終えたリューは、改めて養父へ体を向け、話題を変える。
「・・・俺の世界では麻酔薬が発達していて、腹の手術だろうが骨の手術だろうが、患者は無痛で外科手術を受けることができる。でも、俺の世界と同じ様な麻酔をするには、この世界の科学技術じゃあまだまだ先の話になる」
リューはワルートの手術で、この世界における外科手術の過酷さを改めて思い知っていた。彼が心を痛めていたのは、麻酔技術の格差であった。
現代世界において、全身麻酔が本格的に確立したのは19世紀以降のことで、局所麻酔薬の開発はさらにその先の話だ。それまで外科手術とは患者へ強い苦痛と忍耐を強いるものであり、非常に大きな危険を伴うものだったと聞く。
また当時の地球は産業革命期であり、薬品を工業的に生産出来たことも、全身麻酔薬が普及した要因の1つだろう。だが、こちらの世界はまだ家内制手工業の時代だ。産業革命が起きるのはきっと数百年は後のことになる。
「・・・でも! 麻酔薬として役に立つと知られていないだけで、無痛手術を実現する全身麻酔薬はもうこの世界で精製されていることが分かった」
「・・・何!?」
リューは1冊の本のあるページを指し示す。ハッサンは身を乗り出してその内容に目を通した。
「これ、サルビルという錬金術師の著書なんだけど、硫酸とアルコールを合成して陶酔効果のある『甘い硫酸』を精製している。他の書にも同じ様な精製物の記述がある。
俺の世界ではこの化合物を『ジエチルエーテル』と呼び、麻酔薬としての効能が発見されたことが、全身麻酔手術の歴史の始まりなんだ」
「・・・!!」
ハッサンの体に鳥肌が立つ。手術に伴う完璧な鎮痛・鎮静、それは彼ら外科医にとって永遠の課題であり、決して叶えられない夢だった。
その夢を叶える薬が、すでにこの世界にあるという。ハッサンは興奮を抑えきれなかった。