奇跡の術(帝王切開)
ゴムの軟化剤実験が成功してさらに1週間後、夕日が差し込むアラファート診療所で、3人は平和な一時を過ごしていた。すでに看護婦たちはそれぞれの家へと帰り、患者もいない診療所は静かだ。
「……これがゴム手袋、そして……これがマー、何だったか?」
「マーゲンチューブです。目的は様々ですが、主に鼻の穴から胃に向かって通し、胃と外界を交通させるためのものです」
テーブルの上には注文したゴム製品が多数並んでいる。その中でカムラードが手にしたものは、経鼻胃管と呼ばれるものだ。鼻から胃内に留置し、胃内容物の性状確認と排泄を行うためのものである。場合によっては栄養チューブとして使うこともある。
リューはさらに細経のゴム管を手に取る。
「これは点滴チューブ、患者の血管へ直接水分を投与させるために使います。しかし、これだけでは完成ではないので、またアバスフマルで、職人にその他の付属品を作って貰わないと」
リューはゴム管を手に入れたその先に「点滴セット」の制作を目指していた。その他にもドレナージチューブ、腸瘻、尿道カテーテル、吸引管など、ゴム管には多様な用途が期待できる。
「この点滴とやらは……どういう時に使うんだ?」
ハッサンが疑問を提示する。
「そうだね、主な目的は……口から水分が摂取できない患者に使うかな。腸を切った術後とか……、他には胃腸炎でものが食べられない患者とか」
「!」
胃腸炎、ハッサンはその単語に反応する。かつての妻を奪った病、それに打ち勝つ可能性のあるものを、リューは作ろうとしていたのだ。
「そうか……! 帰ったらすぐにワルート(カナンの父)に頼もう!」
「う、うん」
リューはハッサンが妙に高揚しているのに気づく。だが、その違和感はけたたましく鳴り響いたドアベルの音で吹き飛ばされた。
「失礼いたします!」
「!?」
3人は一様に肩をびくつかせた。戸口に現れたのは息を切らしたどこかの侍女と思しき女性だった。肩を上下させながら必死に呼吸を整えようとしている。
「パラメスワラ家の……使いの者です。我が屋敷の奥様が……お産まれになりそうで……ですが……産婆がカムラード先生を呼べと……」
「……!」
心臓がドクンと大きな鼓動を刻む。貴族の屋敷からの招聘、産婆から告げられた緊急事態、ふとカムラードとハッサンの脳裏に15年前の記憶が蘇った。
「分かった、案内してくれ」
カムラードは自前の医療道具が入ったカバンを持ち、立ち上がる。そして侍女と共に、患者が待つ貴族の住宅街へと急ぐ。
部屋に駆けつけたカムラードは状況を一瞥するなり唇を噛んだ。産婆のマヤの顔は絶望の色を浮かべている。カムラードはカバンを置き、患者に寄り添いながら、マヤを問いただした。
彼女はせめてもの処置として、片足が飛び出した胎児を押し上げ、臍の緒が圧迫されないように隙間を作っていた。彼女は臍帯脱出が胎児にとって致命的になること、その圧迫が良くないことを、長年の経験則によって知っている。
「赤子の容体は?」
「逆子から横位(産道に対して胎児の体が横向きになっている状態)になり、臍の緒が出ています! このままでは……!」
「!」
胎位異常と臍帯脱出で、出産は進まず、胎児も窒息寸前の状態だ。カムラードはこの分娩が失敗することを瞬時に悟った。
(このままでは……赤子はもちろん、母体が保たない!)
臍帯脱出からすでに20分近く経過している。蝋燭の灯りが部屋を不安定に照らし出す中、カムラードの影が壁に揺らめく。そして彼は、不安そうに妻を見つめるアルジュンに状況を包み隠さずに説明する。
「赤子は既に窒息寸前の状態にあり、また体勢が悪く、産道からの娩出は望めません。そしてこのままでは、奥様も体力を失う一方で命が危うい。現在可能な手段は一つ……。奥様の命を救うためには……この子を諦める他ありません」
「……!!」
カムラードは残酷な事実を告げる。この状況を打開するには、逆子となっている1人目の胎児を締め殺し、解体して膣から取り出す他なかった。その最中に2人目にも何らかの危害が加わる可能性が高いが、母体を救うためにはそれを押してでも処置をしなければならない。
アルジュンが拳を握りしめた。妻の命を救うため、子の命を諦める。その決断を迫られていた。
「分かった、妻の命を優先してく……」
「待って!」
母子共に失うという最悪の悲劇を避けるためには、それ以外に手段はない。アルジュンは震える声で母体を救うように頼もうとした。
だが同時に、ラクシュミの悲鳴が轟き、彼の声を遮ったのだ。
「この子たちは生きている! 私のお腹の中で……!」
彼女の指が無意識に膨らんだ腹部を掴む。その下で微かな胎動が伝わってくる。
「お願い……私はどうなっても良い、だから……この子たちを助けて! 先生……どうか……」
「……!」
カムラードは顔を背けた。15年前の記憶が鮮明に蘇る。皇妃の絶叫、止めどなく溢れる血の海、やむなく子宮を切除したことを知った時の宦官や女官たちの怒号、皇妃の絶望に満ちた瞳。
蝋燭の炎が揺らめく中、彼の額から汗が滴り落ちる。
(もう一度同じ過ちを犯すのか?)
彼の指先が小刻みに震えていた。横たわるラクシュミの顔は死相を帯び始めている。
ちょうどその時、扉が勢いよく開いた。
「すまん!」
「少し遅れました!」
息を切らせたリューとハッサンが現れる。彼らの手には手術道具が握られていた。そして2人の目に映ったのは、死に瀕する生命の危機そのものであった。
(……臍帯脱出! すでに低酸素脳症になっているかも知れない! もう時間的猶予は……ない!)
リューは患者のもとへ駆け寄り、状況を察知する。前世で産科は専門ではなかったが、臍帯脱出が危機的兆候であることは、医学的に常識である。
リューは夫妻の顔を改めて見つめた。
「外科医、リュージーン・ヒルクライハー=ロランと申します。奥様、旦那様……御子を助け、奥様の命も助ける望みを賭けるとするならば、……腹を切って御子を取り出す他ありません」
「は、腹を切るだと!? それこそ死んでしまうではないか!?」
リューは「帝王切開」の選択肢を示した。しかし、腹を切るという言葉を聞いて、夫のアルジュンは狼狽する。産婆のマヤも“そんなことが出来るのか?”と怪訝な表情をしていた。
「……お願いします! やってください!」
「お前!?」
だが、ラクシュミの反応は違った。彼女は子を助けるため、迷いなく自身の腹を切る決断を下す。
「……それでも、すでに臍の緒が飛び出している方の御子は助けられない可能性もある。それに麻酔を悠長にかけている余裕もないので、……奥様は腹を切られる痛みに苛まれることになります」
エーテル麻酔は導入に時間がかかる。一刻を争うこの状況では、無麻酔の手術にならざるを得ない。無麻酔の開腹手術など、リューは前世でも今世でも経験したことがなかった。
「今、……子の足が動いたのを感じました。この子はまだ生きています! 子のためなら、痛みにだって何にだって耐えます! 私を……みくびらないで!」
「!!」
ラクシュミは陣痛で弱っているとは思えないほどの気迫を放つ。その鬼気迫る表情を見て、リューたちは思わず気圧されてしまった。
「……お若い先生、『母』とは子のためなら修羅にでもなれるものなのですよ」
産婆のマヤがポツリと耳打ちする。その言葉を聞いて、リューも覚悟を決めた。
「父さんとカムラード先生は15年前に帝王切開……、経腹分娩をしたんですよね?」
「あ、ああ。そうだが……」
ハッサンは戸惑いながらも頷いた。
「ここでその手術をします。お願いです、手を貸してください!」
リューは上着を脱ぎ、持参したカバンの中から術衣を取り出す。手拭いを頭に巻き、緊急手術の準備を進める。
「……分かった、……やろう!」
「カムラード先生!?」
先に口を開いたのはカムラードだった。ハッサンは驚きの声を上げる。
「……他に手立てはないんだ。それに15年前とは違う……! あの少年がいる。彼になら、希望を託せる……、奇跡を起こしてくれる、そんな気がするんだ」
「……先生」
リューは前世の記憶を以て、この世界では奇跡とも呼ぶべき技を駆使し、数々の患者を救ってきた。どんなに厳しい状況に置かれていても、彼なら奇跡を見せてくれるのではないか、カムラードはそんな期待を抱いていたのである。
寝台は縦横の幅が大きすぎて手術の障害となるため、使用人に命じて、彼らが使っている簡易的な仮眠用ベッドを持ってきてもらった。そして数人がかりでラクシュミの体を慎重に移動させる。
ベッドのそばに置いたローテーブルに清潔な白布を被せ、煮沸とアルコールで消毒した手術器具を並べる。手術に参加する者たちは、頭と口を手拭いで覆い、術衣と完成したばかりのゴム手袋に身を包む。手袋は装着後、高濃度アルコールに浸すことで消毒とする。
「父さん、胎児が2人共出たら麻酔を始めるよ……!」
「分かった」
手術台となるベッドの上には、ラクシュミ夫人が苦痛の表情で横たわっている。息遣いは過呼吸気味となっており、上下の歯をカチカチと揺らしていた。
エーテルが胎児へ及ぼす影響は未知数だ。故になるべく手術を手早く終えて、胎児と母体の血流を遮断した瞬間、エーテル麻酔を開始するという作戦で挑むこととなった。
「奥様、深呼吸を続けてください」
「……は、はいぃ」
麻酔をかけるのはハッサンだ。彼は手元に金属の骨組みで作られた布マスクと、希釈したエーテルの入った小瓶を用意する。
同時進行で、リューはラクシュミの腹をアルコールでサッと消毒し、その上に清潔なシーツを被せる。執刀はリュー、第1助手にカムラードがつく。他、手術参加者の中には産婆のマヤや侍女たちの姿もあった。
「患者はラクシュミ=パラメスワラ! 異常胎位による通常分娩困難に対して『緊急帝王切開』を行う!」
リューの宣言を合図に、手術が始まる。彼は一瞬目を閉じる。
(イメージしろ……、初期研修医の時、何度も見た帝王切開を……!)
リューはその脳裏に、遥か過去の記憶を呼び覚ます。彼が初期研修を行った病院は産科・新生児医療で有名な病院だったため、緊急帝王切開には助手として何度も入ったことがあった。
「恥骨より2横指上で横方向へ10センチ程度切開!」
目を再び開くと、右手に力強く握ったメスを、皮膚に向かって一気に突き立てた。
「いいいい!! ひぃ〜…っ!!」
「!!?」
ラクシュミは痛みの余り、上半身を起き上がらせた。侍女たちは主の苦痛から目を逸らしながら、心を鬼にして彼女の体を押さえつける。
扉の向こうでは、アルジュンが涙を流しながら手術終了の時を待つ。彼は妻の悲鳴が聞こえるたびに体を震わせながらも、母子共に無事で戻ってきてくれることを必死に祈っていた。
(止血している暇はない! 大雑把にクーパーとメスでザクザクと、多少の出血は無視して進む!)
通常の手術よりも大雑把かつ大胆に、腹壁を切り開いていく。そしてあっという間に腹腔内へ到達した。双生児を内包して拡大した子宮の壁が見えた。
「これが子宮ですね、そしてこれが膀胱です。カムラード先生……、この腹壁鈎で膀胱を足側へ圧排してください」
「……分かった」
膀胱子宮窩腹膜を切開し、子宮下部と膀胱の間を剥離して、その境目に大きな鈎をかける。そして助手であるカムラードに膀胱を下方へ圧排させながら、子宮下部へメスを入れる。
(・・・早い! 何て手捌きだ!)
リューの動きには一切の迷いがなかった。さらに手術開始からここまで5分ちょっとしか経っていない。目の前の少年が披露している手術手技に比べれば、15年前に自分たちが行った帝王切開など、とても比較にならないほどに稚拙で恥ずかしいものの様に思えた。
(卵膜を破膜! ……いた!)
胎児の先進部を手で探りながら、クーパー剪刀で子宮の壁を慎重に切り進める。すると子宮の最も内側の膜である「卵膜」に到達した。卵膜を破ると、ようやく胎児の頭が見える。
「胎児の先進部に手を滑らせて確保! マヤさん! 膣側から胎児を押し上げて!」
「は、はい!」
産婆のマヤはラクシュミの股間に潜り込み、膣内に手を入れて上に向かって胎児の体を押し上げる。そして2人の息が合わさって、ついにその時が訪れる。
「第1子を娩出!」
破水からおよそ45分、1人目の子が娩出された。だが、その手足はだらんとしており、血色は青く、何より泣かない。
(チアノーゼになっている……! 脈も弱い……! 新生児仮死!)
リューとカムラード、ハッサンは泣かない赤子を見て、一斉に顔を青ざめた。
「かしてください!」
産婆のマヤは叫び声を上げると、リューの手から赤子を半ば奪い取るように抱きかかえた。そして顔を布で拭き、赤子の口を自らの口で覆い、赤子の鼻腔や口腔内に溜まった羊水を吸い上げる。さらに背中を叩いて刺激を与える。
(……頼む!)
その場にいた全員が祈る。同時に、最悪のシナリオが頭を過ぎった。だがついに、待望の歌声がその空間に響き渡る。
「……ふっ、ふぇ〜、…… オギャアァ! オギャアァ!」
「!!」
赤子が息を吹き返した。その産声は部屋の外で待つアルジュンにも届いていた。同時に赤子の血色が見る見る改善していく。リューは臍帯を括って切除した。
「奥様、産まれましたよ!」
「あ、あぁ〜……っ!!」
マヤは息を吹き返した赤子を、ラクシュミの見えるところまで近づける。彼女は安堵の声を上げ、涙を流した。
「続けて第2子と胎盤を摘出します。そして麻酔をかけて子宮を縫合閉鎖、出血がないことを確認し、閉創して手術を終えます」
第1子が取り出されてスペースができた子宮から、2人目の赤子を取り出す。2人目の子は特に問題なく娩出された。そして胎盤を取り出し、空になった子宮の切開創を、2層に分けて縫い閉じていく。
その間に、エーテル麻酔を開始する。ハッサンはラクシュミの口元に被せた布マスクに、希釈したエーテルを垂らしていく。
「深呼吸を続けてください、次第にボーっとなっていきます。また目が覚めた時には、全部終わっていますから……」
麻酔が深くなっていく過程で、ラクシュミはうわ言を言いながら眠っていった。エーテルは唾液の分泌を促進するため、ガーゼで口元をこまめに拭い、窒息予防のため経口エアウェイを挿入する。
(話には聞いていたが……!)
カムラードはエーテル麻酔を見るのは初めてだった。アヘンでは不可能なレベルの深い鎮静状態に陥った患者を見て、驚きの余り目を見開く。
「全身麻酔がかかりました。これで痛みに反応しなくなります。では、創を縫っていきましょう」
リューは綿糸をかけた湾曲針を持針器で掴み、腹筋・腹膜の層を1針ずつ強固に縫い閉じていく。出てくる道具、糸の結び方、カムラードにとってはその全てがあまりにも手早く、効率的で、斬新だった。彼は見惚れてしまっていた。
腹壁を閉じたリューは、続けて皮膚の縫合を始める。そして最後の縫合を終えた瞬間、リューは肩を撫で下ろした。
「手術終了……、みなさん、お疲れ様でした」
リューの額を覆う手拭いには、汗シミが広がっていた。侍女たちは腰が抜けたかの様に床へ座り込み、産婆のマヤは大きなため息をついた。
手術台となった仮眠用ベッドの上では、麻酔がかかっているラクシュミが眠っている。その隣には、布で巻かれた2人の赤子が活発に動いていた。
(奇跡だ……)
カムラードは感激の余り、背筋に鳥肌が走る。奇跡を起こした少年から目を離せない。自分が今まで築き上げてきた医学の知識を、根底から覆してしまうような存在が目の前に立っていた。
だが、そこに嫉妬や怨念の感情は湧かない。カムラードの心に湧き上がっていたのは、全く新しい外科医学への限りない興味と、それを学ぶには、あまりにも歳をとってしまった自分へのわずかな悲壮感であった。
「ふぅ〜……」
リューは頭と口元を覆う手拭いを脱ぎ、血まみれになったゴム手袋を外す。そしてマヤに抱えられ、水桶の中で沐浴をしている赤子の顔を見た。
「ご主人を……、中へ入れてあげてください。心配しているでしょうから」
「は、はい!」
リューの言葉を聞いて、床の上に座り込んでいた侍女2人は正気を取り戻して立ち上がる。侍女に呼ばれたアルジュンは、間髪入れずに部屋の中へ入ってきた。
「奥様は今、麻酔で眠っておられます。御子はこちらです、顔を見てあげてください」
「……!!」
リューはカゴの中に並ぶ双子を指し示す。そこには生まれたばかりの双子が、布に包まれて並んでいた。新生児ゆえに顔はくしゃくしゃ、未だに鳴き声をあげているが、アルジュンの目には何者よりも愛おしい天使の様に見えた。
彼はカゴを抱え、大粒の涙を流す。そして手術をした3人の外科医に向かって、深々と頭を下げた。
「……先生方! ありがとうございました! この御恩、一生忘れません!」
彼の口から飛び出したのは、最上級の感謝の言葉であった。夕日はすでに水平線の彼方へ消え、部屋には蝋燭の光が煌々と光っていた。
(『アプガースコア』、第1子は8点、第2子は10点というところか……)
リューは冷静に、産まれた双子の状態を評価する。彼が心の中で呟いた「アプガースコア」とは、産まれた新生児の全身状態を迅速に評価するための指標で、心拍数、呼吸状態、筋緊張、反射、皮膚色の評価項目を0〜10点で評価するものである。
出生後1分および5分に評価され、赤子が子宮外環境にどれだけ適応できているかを客観的に把握する目的で用いられる、産科では頻用されるスコアリングなのだ。
(確かに命は救えた。だが……臍帯脱出の影響がどれほどのものか、それはこの先の成長を見なければ分からない)
同時に、彼は臍帯脱出の影響を懸念していた。第1子が一定時間、低酸素状態にあったことは事実である。幸いにも脳内の生命維持に不可欠な領域へダメージは及ばなかった様だが、その他の知能や発達を司る脳内領域へのダメージについては、この先の成長過程を見なければ分からないのだ。
(……だけど)
何はともあれ、母子共に命を救った。それは揺るがしようもない事実である。今はこの奇跡を喜ぼう、リューはそう考えていた。
次回、第3章最終回です。




