安産と難産
外傷による緊張性気胸を起こした水夫のジュナイディは、入院して3日でドレーンからの空気漏れが止まった。さらに、肺から伸びるゴム管を鉗子で塞いで1日様子を見て、呼吸音や呼吸状態に変わりないことを確認してゴム管を抜去、さらに1日様子を見てから退院となった。
「お世話になりました!」
退院日は船長が迎えに来てくれた。ジュナイディは元気な声で挨拶をする。カムラードとハッサンは診療所の看護婦と共に、彼らを見送った。
リューとハッサンは、カムラードの厚意で診療所の部屋を間借りし、そこに滞在していた。この日、リューはゴム園の責任者であるストリスノとゴムの軟化剤の実験について話をするため、診療所を離れており、ここにはいなかった。
「……さてと」
診療所には今、ハッサンとカムラードしかいない。15年振りに出会えた師弟同士、お互いに話したいことが山ほどあった。
2人の出会いは25年以上前、医学学校の生徒と外科学教室の医局員として出会った。そしてハッサンは卒業後、外科学教室の門戸を叩いた。現教授のアブアールが来るのは、その1年後のことだ。
そして初代教授の退官後、2代目の外科学教授となったカムラードの下で、ハッサンとアブアールは外科医としての修練を積む。アヘンを使った簡易的な鎮静剤や、蒸留酒による消毒の義務化などは、この時にカムラードが考案したものだった。
そして15年前、あの事件が起こった。皇妃シェエラザードの帝王切開である。本来ならば、胎位異常(いわゆる逆子)などで難産となり、母子共に命の危機となった場合、母体の命を優先した処置がされる。
それはすなわち、胎児の殺害である。現代で言う「帝王切開」が存在しないこの世界では、娩出不可能となった胎児は救済を諦め、せめて苦しくないよう瞬時に締め殺し、場合によっては解体して膣から取り出す他なかった。かつての日本では「回生術」という名前で、同様の施術が行われていた。残酷だが、母子共に衰弱して死に去くのをただ見ているよりかは、母体救済の道を開ける分、余程利のある処置と言える。
しかし、皇妃の胎にいるのは皇子。皇帝や役人たちからは「胎児最優先」の命令が下された。そして、急遽呼びつけられたカムラードたちが見たのは、ベテランの産婆が匙を投げた、どう足掻いても経膣分娩が望めない胎児だった。
彼らは文字通り自らの首が飛ぶ覚悟で、古の医術書に記載のみ登場する幻の術「経腹分娩」、いわゆる「帝王切開」に臨む決断を下す。
この世界の外科は、痔や瘤、膿、外傷の手術がメインであり、開腹手術は命が差し迫った時の最終手段という位置付けだった。故に、カムラードとハッサン、アブアールにとって、その手術は正解を知る者が誰もいない手探りの手術となった。
だが手術は奇跡的に成功した。彼らは母子共に命を救ったのだ。だが、胎児の摘出後に子宮からの出血が止まらず、やむ無く子宮までも摘出する事態となった。おまけに、腹の閉創が不完全であったため、術後まもなくして腹壁瘢痕ヘルニアを起こした。
そして宮廷と皇妃の一族は子を救った奇跡よりも、皇妃を子の産めない女にした上に、呪いの傷までもたらした事実を糾弾した。極刑は免れたが、カムラードは国外追放の憂き目に遭った。
「……まさか、お前まで医学学校を出て行ったとは思いもしなかったよ」
「はい、アブアールには大分苦労をかけました」
カムラードへの処分に反発したハッサンは、当時2歳だったリューを連れて、国立医学学校を自ら出て行った。残されたアブアールは3代目外科学教授として、苦難の道を歩むこととなる。
「そうか……、今はあいつが教授か……」
自分の教え子が出世していることを知り、カムラードは15年という時の長さをしみじみと感じていた。
「……もう1つ、聞きたいことがある」
「はい」
カムラードは途端に神妙な顔つきになった。
「……あの少年は何者なんだ?」
ハッサンは思わず、わずかに目を逸らしてしまう。リューが外出しているこのシチュエーションで、その質問が飛び出すことは必然だった。
「私の記憶が間違いなければ、あの少年は17年前、お前が従軍した『ヒルクライハー』の村で拾った赤子だな?」
「はい、……その通りです」
カムラードは遠い昔に一度だけ見た赤ん坊の姿を思い出す。
皇妃の一件からさらに2年前、当時のハッサンは深い悲しみに暮れていた。29歳という若さで、当時結婚していた女性に先立たれてしまったからだ。死因は当時、首都で流行した重度の胃腸炎である。
点滴治療が存在しないこの世界では、胃腸炎は下痢と嘔吐により、容易に脱水を来す。この世界よりもある程度医学が進んでいた戦前の日本でさえ、結核や肺炎と並んで、長らく死因の上位を占めていた。
半ば自暴自棄に近いメンタリティになっていたハッサンは、当時東方から侵入していた異民族の討伐作戦に軍医として従軍する。彼は死に場所を探していたのだ。
しかし、彼は戦場となった村で、1人の戦災孤児を拾うことになる。
「……あの胸腔ドレナージという処置、お前が教えたものではないな。我々が知る医学とは、あまりにも異質すぎる」
「……」
ハッサンは何も答えられない。違う世界から来た生まれ変わりなどという真実を伝えても、信じてもらえる筈がないからだ。それにリュー自身の了承も得ず、転生の秘密を明かしてしまうことも気が引けた。
「……まぁ、言えない事情があるなら詰問はせんよ。私もあの子がゴムで何を作るのか、何を見せてくれるのか楽しみだからな」
黙りこくってしまったハッサンを見て、カムラードはそれ以上の追求はしなかった。ちょうどその時、診療所の扉につけられた鈴の音が聞こえる。
「ただいま戻りました、父さん、カムラード先生」
「ああ、おかえりなさい!」
扉を開けたのはゴム園から帰ってきたリューだった。カムラードは椅子から立ち上がり、笑顔で彼を迎えるのだった。
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1週間後、カムラードが紹介した鍛冶屋から、発注した鋳型が納品された。アラファート診療所のテーブルには、届けられた鋳型が並んでいる。ゴム手袋の鋳型は、リューとハッサンの手の型を取って作った。さらにカナンの分も必要になるため、ゴム園に勤めている同年代の女性に頼んで、彼女の鋳型も作ってもらった。
さらに鼻の穴から入れる胃管や点滴チューブまで作る予定だ。そのために細い円筒形の鋳型も発注している。軍資金はシェエラザードの寄付金から十分に捻出できた。
「持って来たエーテルは少ない。あまり手こずらないと良いが……」
緊急時に備え、エーテルや消毒用アルコール、清潔な生理食塩水などの薬品は持ってきている。当然ながらその量は少ない。
ハッサンは実験が順調に進むことを祈っていた。
その後、リューは完成した鋳型とエーテルを持って、カムラードと共に再びゴム園を訪れる。ゴム園の責任者であるストリスノに、密閉されたエーテルの瓶を見せた。
「これがゴムの溶剤です。ジエチルエーテルと言います。引火しやすく、空気に晒すとあっという間に蒸発してしまうので、この様に密閉された容器に保管しています。あと、人を酩酊させる効果があるので、吸引や誤飲には気をつけてください」
リューはジエチルエーテルの注意点について説明する。親方のストリスノは頷きながら聞いていた。
「申し訳ないが話を割っていいか? ……これは元々どういう使い方をするものなんだ? 先日は麻酔薬に使うと言っていたが」
カムラードはジエチルエーテルの本来の用途について尋ねた。
「この薬は一定の量を吸引させると、安定した鎮痛・鎮静効果を生み出します。現在、外科学教室ではこれを用いて『無痛手術』を行なっています」
「無痛の……手術だと? ……これも君の発見かね?」
カムラードは驚きを隠せない。
「これを全身麻酔薬として使ったのは、私のアイデアです。しかし、このジエチルエーテルは新発見の物質ではありません。過去の錬金術師たちが“甘い硫酸”という名前で、陶酔・鎮痛作用があることをその著書で報告しています」
リューは無痛手術を実現させた経緯について説明する。
「……そこに辿り着いたのが、すでに歴史的偉業なのだよ。機会があれば、是非とも無痛手術を見てみたいものだな」
カムラードはリューの業績を褒め称え、同時に無痛手術に深い関心を示していた。
その後、ストリスノとカムラード、リューの3人は作業場の職人たちと、軟化剤の実験について最終確認を行う。
「……よし! 始めるぞ、お前ら!」
「おう!」
ストリスノの号令で、職人たちが動き出す。エーテルが軟化剤として有用かどうか、その実験が始まった。
まずは乾燥させた未加硫ラテックスの薄板とエーテルを混ぜ合わせ、撹拌する。ラテックスが濾過可能な流動性を得るまで、エーテルを少量ずつ追加し続け、その量を記録する。
「変な匂いがするな! この薬!」
「気をつけて! 口元を手拭いなどで覆い、多量を吸引しないようにしてください!」
作業場はほとんどが壁のない吹き曝しの場所であるため、換気は問題ない。だが、嗅ぎ慣れない有機溶剤の匂いは、職人たちの鼻腔を容赦なく刺激した。
次に荒い網目の薄布で、溶解したラテックスを濾過し、細かいゴミを除去する。続けて濾過したラテックスを硫黄と混ぜ合わせ、手の鋳型に塗布して乾燥させる。塗布と乾燥は複数回繰り返す。この作業は機材を置いておく倉庫小屋を使って行う。
最後に沸騰した熱湯を湛えた寸胴に、鋳型ごとラテックスを浸し、加硫する。煤や灰などの混入、高温加熱による収縮を防ぐため、加硫は熱湯(100℃)で行うこととした。
「さぁ……、どうだ!?」
2、30分経過した後、寸胴の中に吊るした鋳型を取り出す。ペリペリと皮を剥くように、裏返しにしながら鋳型から手袋を外した。
軽く水で洗った後、試しに伸ばしてみる。医療用手袋と比べると分厚いが、キッチン手袋くらいの弾力と強靭さがあった。現代日本の様に使い捨てには出来ないため、敢えて厚手の作りにしている。
「……おお!」
リューは感動の吐息をつく。さらに実際に装着してみる。グー・パーしたり、指を動かしたりして着け心地を確かめる。少しごわごわするが、今までの革手袋と比べれば随分動かしやすい。
「うまく行った様だな」
ストリスノ、そして他の職人たちはリューの様子を見て、満足そうな笑みを浮かべていた。
「はい! ありがとうございます!」
リューは少年らしい屈託のない笑顔で、お礼の言葉を伝えた。他にも作成していた細いゴム管なども、十分満足のいく出来栄えのものが完成していた。
そして、リューは軍資金を元手として、正式に医療用ゴム製品を発注した。ゴムはアバルフマルでは生産できない。取り敢えずは持参したエーテルで作れる分だけ持って帰るしかないだろう。
(これで、この世界の医学の針がまた大きく進む!)
リューは医療用ゴム製品が、エーテル麻酔に続くブレイクスルーになることを期待するのだった。
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マジャレバンはジャングルが生い茂る半島の沿岸に位置する街だ。沿岸部は舟屋や家屋、市場が並ぶ平民の居住区域であり、海辺から最も離れた内陸部に「王宮」がある。
その王宮周辺は、貴族の邸宅が取り囲むように並んでいる。その中にある貴族階級の夫妻の屋敷があった。妻は身籠っており、大きなお腹をしていた。
夕暮れの柔らかな光が差し込む広間で、ラクシュミ=パラメスワラ夫人はゆったりとしたソファに腰掛けていた。隣には彼女の夫、アルジュン=パラメスワラが座り、二人は穏やかな眼差しでお互いを見つめ合っている。
「あと少しで会えるわね」
ラクシュミが優しく自分の腹部を撫でた。大きく膨らんだ腹部が、彼女の呼吸の動きに合わせて緩やかに上下する。
「ああ、神々のお恵みに感謝しなければ」
アルジュンが妻の手に自分の手を重ねた。新婚同士である若き2人にとって、ラクシュミの体に宿っている命は、初めて授かった子供だった。2人は胎の子が無事に臨月まで育ったことを感謝していた。
「……? ……ウッ!」
だが、和やかな時間が流れる中、突然ラクシュミの表情が歪んだ。痛みを堪えるような息遣いが聞こえ始める。
「……ラクシュミ?」
アルジュンが慌てて立ち上がる。ラクシュミは座ることもままならず、ソファの上にうずくまってしまった。
「……お腹が痛い……、それに、強く……なってる」
「!!」
陣痛が始まった。アルジュンは動揺する気持ちを抑え、近くにいた使用人に産婆を呼ぶよう指示を出した。
「産婆を呼べ! 急げ!」
「はい!」
使用人は急いで駆け出す。そして四半刻もかからないうちに産婆が駆けつけた。
寝室には重苦しい沈黙が満ちていた。産婦のラクシュミは豪奢な寝台に横たわっているが、その顔は青ざめ、脂汗が玉となって額から流れ落ちていた。
「……痛い……っ!」
悲鳴に近い呻き声が断続的に響く。窓の外では日没を迎えつつある時間帯。王宮近辺の高級住宅街といえども、この緊迫した空間だけがまるで異なる時空にあるかのようだった。
「どうだ?」
夫のアルジュンが焦れた声で問いかけた。応じるのはベテラン産婆のマヤである。彼女の表情は険しかった。
「お腹の張りから察するに……、二つの命が宿っております」
「ふ、双子だと!?」
夫の顔色が変わる。現代世界でもこの世界でも、双胎妊娠は母体への負担が大きくなる。それにラクシュミは初産のためか、産道がなかなか開かない様だった。
その時だった。羊膜が破れた証拠である透明な液体が急激に流れ出し、産婦の下半身を覆う敷布を濡らした。
「あっ!」
マヤの顔から血の気が引いた。産道から覗くのは赤子の頭ではなく、赤子の足と紐状の物体だった。
(これは逆子……! しかも、臍の緒が出ている! まずい!)
「臍帯脱出」……胎児を母体と結ぶ生命の綱が産道に先立って出てくる危険な状態である。臍帯の血流が滞り、胎児への酸素供給が絶たれてしまうのだ。
「急いで医師を! カムラード先生を呼んでください!」
もはや産婆だけで対応できる状態ではない。マヤはこの街で最も腕の立つ外科医を呼ぶように懇願した。




